昭和62年1月に新居に転宅。それまでの住いのすぐ近く。最寄り駅までの距離も、従来とほとんど同じ距離でしたので、従来と同様に、駅まで歩いて電車で大阪市内への通勤でした。
今迄と同様に土曜日曜はアルバイトのブライダルビデオの撮影。撮影を終えて自宅の庭に車を入れると、車の後ろから機材をそっくり室内に移動、、2リットルの樽入生ビールをサーバーから注ぎながら、当日撮影したテープを確認。この点検で、撮影のミス等を発見する事は一度も有りませんでした。もし万一、撮影の不具合等が有れば、撮影の段階で気付きますので・・・。ブライダルビデオのアルバイト収入は、本業の会社勤めよりも、多額の報酬を頂いていましたので、毎月何度かは、家族揃って近くのお寿司屋さん、『すしよし』さんで過ごしたものです。夜遅くまで、お店の常連さんともお友達になって、すしよしさんから、カラオケボックスへ直行した事も有りました。
7月の初め頃でした。会社で経理部長から応接室に招かれ、聞いた話が転勤。各都道府県単位に、子会社としてタイヤの販売会社が設置されていましたが、その中の、岡山販売へ出向して欲しい・・・との事。岡山でしたら、私の出身地ですし、当時は両親も健在でしたので、親元から通勤できる…と、即刻承知したのです。その当時、岡山販売には、経理部で私と同僚の方が赴任していましたが、その方から聞いた話では、岡山販売の朝礼で、8月からこの方がみえます・・・と、私の事を紹介したとか。それから1週間後でしたか、再び経理部長に呼ばれて応接室へ。驚きました。転勤先を岡山では無く、大分販売へ・・・との依頼。チョット待って下さい・・・と、即答は出来ませんでした。しかし、家族と相談して、翌日、了承の返答をしたのです。今迄、通勤圏内の転勤は5回経験していましたが、転居を伴う転勤は初めてでした。自宅を新築、転宅を終えた所での転勤には、驚きました。
取りあえずは引き継ぎで、博多の九州支店経由で大分に1週間の予定で向かう事になりました。グループ会社の旅行取扱社に相談したところ、福岡へ行くのだったら是非飛行機で・・・と、それまで、国内では東は栃木県日光まで、西は広島までしか行った事が無かったのです。ホント、初めての飛行機でした。福岡空港までは九州支店の同僚が迎えに来てくれて、迷わず九州支店に到着。九州支店からは支店長の社用車で大分へ向かいました。本当に初めての九州。高速で、日田まで。それから大分までは一般道。未だ高速は有りませんでした。長い道のりでしたが、湯布院から別府に向かうやまなみ道路、その美しさには驚きました。高原を登って行くその道路から見る眺めの素晴らしいのには驚きの声を挙げたものでした。
大分販売での引き継ぎは1週間、宿は『大分パークインホテル』。会社はホテルから歩いても5分位でした。大分に行って、一番驚いたのは、大分の言葉です。何か言えば、帰ってくる言葉は『よだきい・・・』。この言葉が理解出来る迄には、かなりの期間が必要でした。転勤は8月からでしたが、その後の住いを探した結果、会社の近く、大分プールの上、4階の1室を契約しました。国道10号線沿いのビル、向かいには『ラッキー』でしたか、スーパーも有りましたので、何かと便利かと考えたのです。事実、このスーパー、夜の12時まで営業していましたので、助かりました。遅くに会社を出ても、買い物が出来たので、ホント、お世話になりました。レジの方々も、顔を覚えて下さって、毎晩『お疲れ様・・・』と、声を掛けて下さったものでした。
大阪で、新築したばかりの自宅、どうしようかと悩みましたが、他人が住んだ家に再度帰って来るのも嫌だ・・・と、手放す事に決めました。翌年の3月には、家族も大分に移れる様に、大分で新築を考えたのです。大分市内でなかなか適当な場所が見付からなかったのですが、何軒目かの不動産屋さんで、泉町を紹介され、そこに決定しました。1級建築士の方に依頼した自宅の設計図、これでは親子4人の生活が出来ない、と、その図面は拒否。私が自分で図面を引いたのです。それを1級建築士の方に見せると、これは良いわ・・・、だって。やはり、都会の考えと、大分の考え方は違っていました。46坪の土地でしたが、設計して頂いたのは、部屋数が少ない、広々とした農家風の造りでした。私は、1階は16畳のLDKと、6畳の和室、2階は6畳の3室と、私のアマチュア無線用の小部屋、4畳。表は広い駐車場と庭を設けて・・・。私の図面は部屋割だけでしたので、設計図はその方にお願いしましたけど・・・。
この新居の上棟は翌年の1月10日と決定。新築が終えるまで、毎週、その光景を撮影して、自宅、大阪の家族にはビデオレターを何度も何度も送ったものでした。
今迄と同様に土曜日曜はアルバイトのブライダルビデオの撮影。撮影を終えて自宅の庭に車を入れると、車の後ろから機材をそっくり室内に移動、、2リットルの樽入生ビールをサーバーから注ぎながら、当日撮影したテープを確認。この点検で、撮影のミス等を発見する事は一度も有りませんでした。もし万一、撮影の不具合等が有れば、撮影の段階で気付きますので・・・。ブライダルビデオのアルバイト収入は、本業の会社勤めよりも、多額の報酬を頂いていましたので、毎月何度かは、家族揃って近くのお寿司屋さん、『すしよし』さんで過ごしたものです。夜遅くまで、お店の常連さんともお友達になって、すしよしさんから、カラオケボックスへ直行した事も有りました。
7月の初め頃でした。会社で経理部長から応接室に招かれ、聞いた話が転勤。各都道府県単位に、子会社としてタイヤの販売会社が設置されていましたが、その中の、岡山販売へ出向して欲しい・・・との事。岡山でしたら、私の出身地ですし、当時は両親も健在でしたので、親元から通勤できる…と、即刻承知したのです。その当時、岡山販売には、経理部で私と同僚の方が赴任していましたが、その方から聞いた話では、岡山販売の朝礼で、8月からこの方がみえます・・・と、私の事を紹介したとか。それから1週間後でしたか、再び経理部長に呼ばれて応接室へ。驚きました。転勤先を岡山では無く、大分販売へ・・・との依頼。チョット待って下さい・・・と、即答は出来ませんでした。しかし、家族と相談して、翌日、了承の返答をしたのです。今迄、通勤圏内の転勤は5回経験していましたが、転居を伴う転勤は初めてでした。自宅を新築、転宅を終えた所での転勤には、驚きました。
取りあえずは引き継ぎで、博多の九州支店経由で大分に1週間の予定で向かう事になりました。グループ会社の旅行取扱社に相談したところ、福岡へ行くのだったら是非飛行機で・・・と、それまで、国内では東は栃木県日光まで、西は広島までしか行った事が無かったのです。ホント、初めての飛行機でした。福岡空港までは九州支店の同僚が迎えに来てくれて、迷わず九州支店に到着。九州支店からは支店長の社用車で大分へ向かいました。本当に初めての九州。高速で、日田まで。それから大分までは一般道。未だ高速は有りませんでした。長い道のりでしたが、湯布院から別府に向かうやまなみ道路、その美しさには驚きました。高原を登って行くその道路から見る眺めの素晴らしいのには驚きの声を挙げたものでした。
大分販売での引き継ぎは1週間、宿は『大分パークインホテル』。会社はホテルから歩いても5分位でした。大分に行って、一番驚いたのは、大分の言葉です。何か言えば、帰ってくる言葉は『よだきい・・・』。この言葉が理解出来る迄には、かなりの期間が必要でした。転勤は8月からでしたが、その後の住いを探した結果、会社の近く、大分プールの上、4階の1室を契約しました。国道10号線沿いのビル、向かいには『ラッキー』でしたか、スーパーも有りましたので、何かと便利かと考えたのです。事実、このスーパー、夜の12時まで営業していましたので、助かりました。遅くに会社を出ても、買い物が出来たので、ホント、お世話になりました。レジの方々も、顔を覚えて下さって、毎晩『お疲れ様・・・』と、声を掛けて下さったものでした。
大阪で、新築したばかりの自宅、どうしようかと悩みましたが、他人が住んだ家に再度帰って来るのも嫌だ・・・と、手放す事に決めました。翌年の3月には、家族も大分に移れる様に、大分で新築を考えたのです。大分市内でなかなか適当な場所が見付からなかったのですが、何軒目かの不動産屋さんで、泉町を紹介され、そこに決定しました。1級建築士の方に依頼した自宅の設計図、これでは親子4人の生活が出来ない、と、その図面は拒否。私が自分で図面を引いたのです。それを1級建築士の方に見せると、これは良いわ・・・、だって。やはり、都会の考えと、大分の考え方は違っていました。46坪の土地でしたが、設計して頂いたのは、部屋数が少ない、広々とした農家風の造りでした。私は、1階は16畳のLDKと、6畳の和室、2階は6畳の3室と、私のアマチュア無線用の小部屋、4畳。表は広い駐車場と庭を設けて・・・。私の図面は部屋割だけでしたので、設計図はその方にお願いしましたけど・・・。
この新居の上棟は翌年の1月10日と決定。新築が終えるまで、毎週、その光景を撮影して、自宅、大阪の家族にはビデオレターを何度も何度も送ったものでした。