2013年12月28日土曜日

突然の転勤  岡山。 エッ!! 大分に変更??

昭和62年1月に新居に転宅。それまでの住いのすぐ近く。最寄り駅までの距離も、従来とほとんど同じ距離でしたので、従来と同様に、駅まで歩いて電車で大阪市内への通勤でした。
今迄と同様に土曜日曜はアルバイトのブライダルビデオの撮影。撮影を終えて自宅の庭に車を入れると、車の後ろから機材をそっくり室内に移動、、2リットルの樽入生ビールをサーバーから注ぎながら、当日撮影したテープを確認。この点検で、撮影のミス等を発見する事は一度も有りませんでした。もし万一、撮影の不具合等が有れば、撮影の段階で気付きますので・・・。ブライダルビデオのアルバイト収入は、本業の会社勤めよりも、多額の報酬を頂いていましたので、毎月何度かは、家族揃って近くのお寿司屋さん、『すしよし』さんで過ごしたものです。夜遅くまで、お店の常連さんともお友達になって、すしよしさんから、カラオケボックスへ直行した事も有りました。
 7月の初め頃でした。会社で経理部長から応接室に招かれ、聞いた話が転勤。各都道府県単位に、子会社としてタイヤの販売会社が設置されていましたが、その中の、岡山販売へ出向して欲しい・・・との事。岡山でしたら、私の出身地ですし、当時は両親も健在でしたので、親元から通勤できる…と、即刻承知したのです。その当時、岡山販売には、経理部で私と同僚の方が赴任していましたが、その方から聞いた話では、岡山販売の朝礼で、8月からこの方がみえます・・・と、私の事を紹介したとか。それから1週間後でしたか、再び経理部長に呼ばれて応接室へ。驚きました。転勤先を岡山では無く、大分販売へ・・・との依頼。チョット待って下さい・・・と、即答は出来ませんでした。しかし、家族と相談して、翌日、了承の返答をしたのです。今迄、通勤圏内の転勤は5回経験していましたが、転居を伴う転勤は初めてでした。自宅を新築、転宅を終えた所での転勤には、驚きました。
取りあえずは引き継ぎで、博多の九州支店経由で大分に1週間の予定で向かう事になりました。グループ会社の旅行取扱社に相談したところ、福岡へ行くのだったら是非飛行機で・・・と、それまで、国内では東は栃木県日光まで、西は広島までしか行った事が無かったのです。ホント、初めての飛行機でした。福岡空港までは九州支店の同僚が迎えに来てくれて、迷わず九州支店に到着。九州支店からは支店長の社用車で大分へ向かいました。本当に初めての九州。高速で、日田まで。それから大分までは一般道。未だ高速は有りませんでした。長い道のりでしたが、湯布院から別府に向かうやまなみ道路、その美しさには驚きました。高原を登って行くその道路から見る眺めの素晴らしいのには驚きの声を挙げたものでした。
 大分販売での引き継ぎは1週間、宿は『大分パークインホテル』。会社はホテルから歩いても5分位でした。大分に行って、一番驚いたのは、大分の言葉です。何か言えば、帰ってくる言葉は『よだきい・・・』。この言葉が理解出来る迄には、かなりの期間が必要でした。転勤は8月からでしたが、その後の住いを探した結果、会社の近く、大分プールの上、4階の1室を契約しました。国道10号線沿いのビル、向かいには『ラッキー』でしたか、スーパーも有りましたので、何かと便利かと考えたのです。事実、このスーパー、夜の12時まで営業していましたので、助かりました。遅くに会社を出ても、買い物が出来たので、ホント、お世話になりました。レジの方々も、顔を覚えて下さって、毎晩『お疲れ様・・・』と、声を掛けて下さったものでした。
 大阪で、新築したばかりの自宅、どうしようかと悩みましたが、他人が住んだ家に再度帰って来るのも嫌だ・・・と、手放す事に決めました。翌年の3月には、家族も大分に移れる様に、大分で新築を考えたのです。大分市内でなかなか適当な場所が見付からなかったのですが、何軒目かの不動産屋さんで、泉町を紹介され、そこに決定しました。1級建築士の方に依頼した自宅の設計図、これでは親子4人の生活が出来ない、と、その図面は拒否。私が自分で図面を引いたのです。それを1級建築士の方に見せると、これは良いわ・・・、だって。やはり、都会の考えと、大分の考え方は違っていました。46坪の土地でしたが、設計して頂いたのは、部屋数が少ない、広々とした農家風の造りでした。私は、1階は16畳のLDKと、6畳の和室、2階は6畳の3室と、私のアマチュア無線用の小部屋、4畳。表は広い駐車場と庭を設けて・・・。私の図面は部屋割だけでしたので、設計図はその方にお願いしましたけど・・・。
この新居の上棟は翌年の1月10日と決定。新築が終えるまで、毎週、その光景を撮影して、自宅、大阪の家族にはビデオレターを何度も何度も送ったものでした。

2013年12月24日火曜日

住宅の新築 上棟 !!  でも・・・

1986/11/10 上棟の日
枚方市の府営住宅から、現在の中古住宅に転居して約9年、今から27年前の事でした。これまでの自宅から直線距離で約300メートル。前日までの雨も上がって、晴天の朝を迎え、愈々、上棟の日を迎えました。朝からビデオカメラとポータブルデッキ、この時はカメラはSonyのDXC-M3A、デッキはビクター BR-5500でした。新しく販売された住宅地でしたが、周囲には既に建築されたお宅も有りましたが隣は現在建築進行中でした。玄関前から撮影を始めましたが、4メートルの道路の為、車の通行もあり、三脚を立て続ける事は出来ません。添付の写真は表側ですが、この位置からは最初だけ、その後は反対側、裏側は未だ更地でしたので、上棟までの全てをビデオで記録しました。この年には、長男は高校2年、長女は中学校1年でしたので、子供たちの部屋も設けた設計にし、又、私のブライダルビデオに便利な様に、ガレージの後にアルミサッシの出入り口を設け、車から機材を簡単に出し入れが出来る様にもしました。ブライダルビデオの三段式のキャリアーを、車から簡単に室内の板張りの場所に移動、デッキからモニターまで、接続が簡単に出来る様に、壁の中にVA用のケーブル、5C2Vを特に設置もしました。今迄の中古住宅は、風呂桶が小さく、足が充分に伸ばせなかったので、今度は特に指定して、浴槽は長い物にして頂きました。ダイニングとリビングは板張りですが、2階のそれぞれの部屋は、全て畳敷きとして、落ち着ける雰囲気にしました。私の趣味は、この当時可成り夢中になってアマチュア無線をやっていましたので、そのアンテナケーブルも室内への引き込み用に、別途太い塩ビのパイプの設置も忘れずにやって頂きました。
 11月10日の上棟から、完成まで約50日、年末ギリギリに、やっと入居可能になり、新年は、新居で迎える事が出来ました。しかし、それまでの自宅から近かったので、特に引越し屋さんの手は借りず、私の車、この当時はタウンエースワゴンでしたが、そのシートを畳んで、引っ越しは少しずつ、自分たちですべてやりました。でも、この当時は、ハモンドの電子オルガンもあり、それは旧家の二階に置いていましたので、その運搬だけ、二階から下ろす時は、大工さん、電気屋さん方、皆さんのお力添えを頂きました。一度に全てを運搬していなかっただけに、困った事も有りました。大晦日の夜遅く、テレビでは紅白歌合戦の真っ最中でしたが、フト、あっ、あれは未だ向こうに置いてたのかな?・・・と、夜の道を旧宅まで取りに行った事も有りました。
 正月が明けて、急いで取りかかったのが、アマチュア無線のアンテナ、屋根上への設置でした。この当時は、HFと50MHz、144MHz、430MHzをやっていましたので、かなりの本数でしたが、電気屋さんにもお手伝いを頂いて、屋根上にアンテナマストを設置、ローテーターの取付も無事完了しました。
 JR、阪急の駅から歩いて12~3分、中学校の学区も同じでしたので、長女の転校も無し。毎日の通勤は駅まで歩いて、大阪まで電車通勤。新しい自宅で、快適な生活を喜んでの毎日でした。しかし、この新しい家での生活、私自身は、約半年だけでした。会社の指示で、初めての通勤圏外への転勤、ナント、遠い所、今迄一度も行った事も無い九州、大分市でした。7月後半には、引き継ぎの為に、出発・・・。当面は、私だけの転身赴任でした。この続きは、次回に送ります・・・・。

2013年12月21日土曜日

韓国式の結婚式、初めての経験でした

( 当日の写真ではありません )
ブライダルビデオの撮影もすっかりマスターして、毎週土日は、京都グランドホテル(現リーガロイヤルホテル京都)に通っていた頃でした。今週は、別の会場の結婚式を・・・との依頼を受けたのです。会場は、京都グランドホテルのすぐ東、全く初めての中華料理店『東天紅』でした。初めての会場に出掛ける時は、前以て、その下見をしていましたが、この時はその時間が取れなかった為、ぶっつけ本番になってしまいました。ビルの中、確か三階だったと思いますが、結婚式場は神前式。素晴らしい作りの会場でした。雅楽の演奏も、多くの会場ではテープか何かで流す所が多いのですが、ここは完全な生演奏でした。笙、ひちりき、りゅうてき等、3人の方々の演奏でした。初めて聞く生演奏で、新郎新婦の衣装は、韓国式の正装でした。何もかもが初めてでしたが、式の進行その物は、日本式と何等変りなく撮影は順調に完了しました。
 次の披露宴、会場に入って、テーブル、椅子の配列がいつもとは全然違う事に、まずビックリ。司会の方は、韓国系の方でしたが、私達との打ち合わせは、日本語でして下さいました。日本式の披露宴会場と違って、ご両親、ご家族の席が一番前の席。それからお友達…等となり、一番後ろは、何方が入って来るか分からない・・・、兎に角、沢山の方がお越しになるとの事。各方面のお知り合いの方々がみえるそうでした。
披露宴が始まりました。皆さん、着席なさって、新郎新婦の入場。しかし、正面の席に付かれる前に、お席の前に整列して、そこでご出席の方々に、新郎新婦の紹介と、ご両親を紹介するのです。司会者の方は、すべて韓国語での進行です。私は、何を仰ってるのかは、全く理解出来ません。でも、開始前に司会者の方と打ち合わせをしていましたので、どうにかカバーは出来ました。横一列に並ばれた方々を、パンニングしている間、司会者の方は、暫く時間を取って下さいました。全員の撮影を終えた時、私は司会者に向かって、左手を上げて合図、それから、新郎新婦は正面の席にお付きになりました。披露宴の順序は、ホント、韓国式で進行されましたが、打ち合わせ通りにスムーズに撮影は進んでいました。会場の中央付近が、比較的広いスペースが有り、そこに太い柱も有りましたので、柱に沿った部分に三脚を構えて撮影していたのですが、挨拶等が終わった時に、数人の方々が、横長のタイコ等、いろいろの楽器を持ち出して、いきなり演奏が始まったのです。その人数は次から次と増えて、グルグルと円を描きながらの踊りと演奏だったのですが、私はいつの間にか、その踊りの円の中心に位置する様になっていたのです。私は韓国式の宴会等は、全くの初めてでしたので、カメラマンが真ん中に居る事に、非常に違和感を覚えました。しかし、カメラマンですから、その位置から、皆さんのお姿、お顔を撮影した段階で、テープをストップ、踊りの円の外に移動させて頂きました。司会の方は、私宛てに時たま日本語でも仰って頂きましたので、どうにか無事、撮影は完了しました。披露宴の前に、詳細な式次第等を司会者の方と打ち合わせをしていましたので、ホント、助かりました。日本式で無い結婚式、披露宴は、この時、一度だけでしたが、良い経験をさせて頂きました。

2013年12月14日土曜日

ビックリしました、友人代表挨拶の途中、突然・・・

 リーガロイヤルホテル京都 ( 元 京都グランドホテル)
 京都駅のすぐ西に有る大きなホテル、現在の名称はリーガロイヤルホテル京都、当時の名前は京都グランドホテルでした。2階全体が数多くの部屋に仕切られており、何組もの披露宴が同時に進行する事も可能でした。ここのホテルでは、結婚式場は数代の固定カメラがセットされていて、それを専属の方がコントロールして撮影するシステムでしたので、私達、アルバイトのブライダルカメラマンは、披露宴の撮影だけが担当業務でした。いつも通りに、披露宴会場にご出席の方々を新郎新婦とそれぞれのご両親、仲人の方が招き入れて、いよいよ披露宴がスタートしました。会場内のライトが消され、ドアが開けられると、そこにはスポットライトに照らされた新郎新婦。皆さんの拍手、祝福のお声掛けに迎えられて、新郎新婦のお席まで・・・。仲人の方から新郎新婦のご紹介、主賓の方々、お二人からのお祝いのお言葉を頂き、続いてケーキカット。撮影は順調に進行していました。次に友人代表からお祝いのお言葉。カメラは宴会場の中程の位置から、三脚にカメラを乗せて、祝辞の方々を撮影していたのです。友人代表の方も、調度ズームアップをして、胸から上、お顔を中心に撮影を続けていました。しかし、そのご挨拶の途中で、前後に身体が揺れ始めたのです。私は当然ながら、カメラのディスプレイを覗いて、お顔がセンターから外れない様に、カメラを左右に少しずつ回転させて撮影をしていました。しかし、移動が急に激しくなって、モニターで追い切れなくなったので、やむを得ずズームバック、その方の顔を逃さない様に撮影していたのですが、顔が床にまでいってしまったのです。カメラのディスプレイから目を離して、直接、その状態を目に確認した時、慌てて、カメラのボタンを押して、撮影を中断しました。ナント、祝辞を仰っていた方が、床に倒れていらっしゃったのです。少し前から、お顔は、何度か前後に動いていましたが、演技では無くて、緊張の為でしょうか、軽い貧血を起こされたみたいでした。、どこかの記者会見等の撮影中に、その方が倒れた場合等でしたら、ずっと撮影を続けるのかもしれませんが、披露宴での祝辞の途中ですので、これは撮影するべきでは無い・・・と、撮影は中断しました。しかし、その時もカメラはズームバックした状態で、その全体が写る向きのままでした。20代半ばの方でしたが、緊張の為でしょう。皆さんがすぐに寄って手を差し伸べて、お席に戻って、その後は大丈夫のご様子でした。
 当日の撮影を終えて、次の日に、ビデオの会社に納品に行きました。しかし、今回の撮影は、途中で発言者が転倒、カメラをストップさせていましたので、その件を報告。テープを再生して、その転倒シーンを見て頂き、ここの部分は、編集の手直しが必要です・・・と。会社の方もその場面をご覧になってビックリなさっていましたが、私の業務としては、それで完了です。本番のテープと、抑えのテープ、その2本を提出する事で、後の編集は会社側にお任せです。何も問題が無い場合には、カット撮影したテープだけを提出して、その場でテープの再生点検等はしないのですが、手直しが必要な場合には、その個所を説明しておく事が義務付けられています。
普段から撮影会場には2台のテープデッキをセットしていて、1台はカメラのスタート、ストップに連動して撮影する物、それと、もう1台は修正時等に使用出来るように、スタート、ストップに連動しないで、連続撮影をするテープの両方の撮影テープを残しているのです。もし万一、言葉が途切れた場合等には、抑えのノンストップのテープからであれば、修復が可能です。もし、カメラマンの操作の失敗等からの手直しの場合には、ペナルティが課せられ、撮影料から控除されますが、止むを得ない場合には、ペナルティの対象では有りません。
 しかし、中には酷いカメラマンも居ました。未だキャリアは浅い方でしたが、その方のお話しを伺っていて、私も驚いた事が有ります。披露宴の撮影をしていたところ、テープが終わって、ビデオがストップしたそうです。ま、普通でしたら、そこで予備のテープを出して、その後を撮影して、会社に依頼して、1本のテープに編集加工依頼をすれば済む事です。ところが、そのカメラマンは予備のテープを持参していなかったそうです。テープが終わってしまって、後の撮影が出来なかったら、そこで撮影を終えておけば、未だ良い訳が出来ます。ところが、そのカメラマンは、事もあろうに、とんでもない事を実行したそうです。ナント、撮影済みのテープを巻き戻して、そのテープを初めから使用して、最後まで、撮影を継続したそうです。ホント、これでもプロのカメラマン??と、ビックリしました。同じテープに、書き直しをすれば、元の記録は消去されてしまいます。ホント、ビックリしましたが、この様な方もいらっしゃったのです。披露宴の記録を依頼された会社として、どの様な言い訳をなさって、或いは、どの様な賠償に応じたのかは知りませんが、会社も、ホントお手上げだったと思います。
 私は、大きな失敗も無く撮影は継続していましたが、本業の会社から、大分にある子会社への出向を命じられましたので、止むなく、アルバイトは中止しました。大分でも、その様なアルバイトが有れば・・・と、何軒かのホテル等を尋ねましたが、地方の為か、マダマダ本格的な撮影依頼は無いとかでしたので、諦めました。当時のカメラ、大型デッキ、編集コントローラ、ハロゲンランプ、カメラケーブル等は、大切に保管しています。

2013年12月10日火曜日

山の斜面に建てられた料亭、エレベーターは無し。1階から6階・・

( 三脚は1段、膝をついての撮影でした )
ブライダルビデオのカメラマンとして、数年経過した頃。京都駅のすぐ西側の大きなホテル、今では名前が変りましたが、その当時は京都グランドホテル。ここの2階の宴会場が、私が担当するメインの会場となっていました。自宅からも車で約1時間、調度手頃な距離でも有りました。ところがある時、枚方公園の近く、山の斜面に有る大きな料亭で開かれる結婚式の撮影を受けたのです。初めての会場でしたので、その前日に下見をさせて頂きました。小山の斜面に建てられていて、玄関は最上階。玄関のフロアから1階降りた所に大きな畳の宴会場。椅子席では有りません。座イスのセットされた完全な和室でした。窓には暗幕がセットされていて、披露宴の始めは暗幕を閉めているとの事。一回目のお色直しの際に、カーテンを開けて、外の景色も見て頂く・・・との事。当時のビデオカメラは真空管式でしたので、感度が低い為、ライトの照明を欠いては、満足な撮影は出来ません。そこに、外からの自然光が入った場合、実にカメラマン泣かせの光線です。室内のライトは3200度K(ケルビン)、外光は5500度Kか5600度Kですので、カメラの調整をしないでは、室内光は赤っぽく、外光が入ると青っぽくなってしまいます。撮影する被写体によって、カメラ側の撮影する色温度を調整しなくては、綺麗には残せません。しかし、仕事を受けた以上、プロとしてこなさなくては駄目です。
次に、結婚式場を見せて頂きました。これ又、驚きでした。山の斜面を利用して5階から6階建の方式になっていましたが、結婚式場は、その最も下の階に有ったのです。山の斜面に沿って建てられていますので、エレベーターの設備は有りません。これには、正直参りました。ビデオ機材、当時はビクターのBR-8600とBR-7700、どちらも据え置き型の大型ビデオです。カメラも大型、 それに三脚、5インチのモニター、大型三脚、30メートルのカメラケーブル。普段は、これらを三段式のキャリアカーで運搬して移動をしていたのです。これらの接続ケーブルを外して、バラバラの状態にして、手に提げて階段を上り下りするしか方法は有りません。当日は、いつも通り、予定の2時間前に到着、一番下の結婚式場まで階段を下りて、撮影はスタンバイ。無事、結婚式は完了しました。ご出席の皆さん、それぞれ上階の披露宴会場に向かわれました。私も階上に向かうべく、機材のケーブルを外しにかかっていたところ、ご出席の方が、それをご覧になって、この機材を上に運ぶんですか?・・・。助かりました。ホントに助かりました。ご出席の数人の若い方々が、三段のキャリアーに乗せたままで、階段を一緒に登って下さったのです。もし、この援助が無かった場合、私一人で、6~7回、階段を上り下りしなくてはならなかったのです。それも、2階や3階では有りません。6階です。これは本当に助かりました。カメラマンの手当てを半分位は差し上げても良い位の思いでした。
 和室での披露宴も初めての経験でした。三脚にカメラはセットしていますが、三脚の足は全然伸ばさないで、最下段での撮影。私は膝をついての撮影でした。膝をついての大きなパンニングには一苦労しました。足を伸ばして立っている時は、そーっと回転移動しながらのパンニングが可能ですが、膝を付いている場合には、パン棒に身体が付いて行きません。大きなパンニングには、身体はそのままで、カメラのモニターだけを見ながらのカメラの回転でカバーしました。新郎新婦がお色直しで退場すると、仲居さんが周囲のカーテンを全開。ワーッと、晴天の外景に大きな歓声。山の斜面に建っている料亭ですから、窓の外は大阪平野を一望、すぐ手前には淀川が大きく流れていました。ご出席の皆さまは、その景色に感激なさっていましたが、私は大慌てです。それ迄は、カメラ側のハロゲンランプだけでの撮影でしたので、カメラも3200度Kに調整していました。そのままでは、外光で真っ青になりますので、それからは、撮影する内容によって、カメラ側の色温度を調整する必要が有ります。最近の液晶式のカメラでしたら、ライトは不要なのですが・・・。しかし、その温度調節は、開始前に予測出来ましたので、カメラには、ライトと外光の二つの光源の色温度に設定してありましたので、どうにか、満足に撮影する事が出来ました。人間の目は、外光に対して自然と、色温度を組み替えてくれますが、当時のビデオカメラ、それも業務用機には手動で調整をするしか方法が無いので、大変な労作でした。でも、無事乗り越える事が出来て、撮影完了の電話連絡を、会社宛に無事終える事が出来ました。結婚式場からの階段で、お力添えを頂いた皆さん、遅ればせながら、ありがとうございました。

2013年12月5日木曜日

ビデオカメラマン、講習会  ケーブルの処理


(  8の字巻きのケーブルの巻き方 ) 
大阪市の地下鉄の中、掲示してあるポスターに目がとまりました。『ブライダルビデオカメラマン募集!!』。これまでに、8ミリ映画は一応マスターしていました。ビデオも、家庭用としては発売されたばかりでしたが、ハンディタイプで、カメラとビデオは2メートル程のケーブルで繋がっていたSonyのポータプルタイプのβビデオ。このビデオで家庭内の記録も実施していました。しかしビデオのプロとしての仕事は未だ、全く経験は有りません。何となく興味を抱いて、その説明会に参加してみました。大阪北浜のビル、大きな会場を使用しての説明会でした。会場は参加の方々で一杯の状態。正面には大型のビデオもセットされて、まず、ブライダルビデオの作品を映写開始。結婚式場、大型ホテルの外観がフェードイン。次いで会館内、控室の行燈、〇〇家・〇〇家控室、フェードアウト、フェードインされたタイトルには「〇〇家・〇〇家 ご結婚披露宴」ここでフェードアウト。結婚行進曲が流れると同時に左右に大きく開かれたドアから新郎新婦の入場。披露宴にご出席の方々から、それぞれ祝福を受けながら正面の新郎新婦の席に・・・。新郎新婦、ご媒酌人ご夫婦、深く一礼の後に着席。媒酌人の挨拶が開始されたところで、テープはストップ・・・。
 まず、ビデオ撮影のシステムから説明が有りました。業務の流れは、結婚式の会場、ホテル等がご利用者からビデオ撮影の受注。ホテル等から、この会社、NST〇〇〇へ注文が入り、その撮影業務を、各カメラマンに連絡、各カメラマンが撮影した物を、受注の逆ルートでホテル等を通じてお客様の手許に届ける事。撮影の機材等は、全てカメラマンの所有物を使用する事。手数料の配分は、ホテル等が売上金額の20パーセントを引いた物をNST〇〇〇に支払い、そこから20パーセントをNST〇〇〇を控除した残り、つまり、ご利用者への売上金額の64パーセントが、カメラマンの手数料として頂く事が出来るとか。仮に売上金額が8万円とすると、カメラマンには51200円の収入。毎週月曜日から、その週の受注開始…。
 一週間後の土曜日から、ビデオカメラマン応募者に対しての研修会がスタートしました。担当のカメラマンは、結婚式の当日、会場に2時間前までに到着、カメラ、デッキ等、全ての機材をセット、電源スイッチを入れた状態にして、その時点でビデオの会社宛にスタンバイ完了の電話連絡。電話連絡が無い場合には、代わりのカメラマンをすぐ向かわせる・・・との説明。
 当時のビデオカメラは、未だビデオが組み込まれた物は有りませんでした。カメラとビデオデッキは、直径2~3cmの太いケーブルで接続されています。広い会場内を、前後左右に移動しながら撮影する為に、そのケーブルも、短くとも20メートル、私は30メートルのケーブルを使用していました。その長いケーブル、カメラマン一人だけで、そのケーブルを扱わなくては撮影に支障が有ります。丸めておいてあるケーブルを、引っ張りだすと、ケーブルは、クルクルと円弧を描くようになってしまいます。それでは、皆さんの邪魔にもなってしまいます。そこで、ケーブルを置く時に、8の字型に整理して置いておく方法を教えて頂きました。これだと、三脚に付けたカメラだけを持って、スーッと移動しても、ケーブルは真っ直ぐになってくれます。ケーブルを8の字にするスペースがなければ、一つの円形に巻きますが、その場合には一回りずつ、左右を逆にしておくのです。( この巻き方は、文章では表現し難いので、必要でしたら、次のHPをご覧下さい。写真入りでで説明してありますのでご紹介します。尚このHPは、私とは関係有りません。 http://blog.hibino.co.jp/?eid=83 )
最近では、ビデオのアルバイトはやっていませんが、例えば自宅内で長いコードのテーブルタップを使用する時等、又、そのケーブルを保存する時等にも、この巻き方で保存しています。これだと、ケーブルを引っ張るだけで、ねじれが無く、スルスルッと引き出しが可能なのです。
披露宴には必ず司会の方がいらっしゃいますので、その式次第等については、可能な限り前もってその順番を。主賓の方が、勤務先の方か、或いは親族代表か・・・等で、カメラの捉え方も変わってしまいます。主賓の方をメインに撮影はしますが、その次のシーンの撮り方等が異なりますので・・・。又、ケーキカットの撮影には誰よりも早く、一番に移動して三脚をセット。しかし、その場所も、一般の方々が必ず写真撮影に来られますので、真っ正面のメインの位置は皆さんの為に開けておいて、そのお二人のお姿を漏れなく撮影できる場所。披露宴開始前に必ず実際に確認して、主賓の挨拶が終わると、その場所に直行。これも、慣れてしまえば何でも無いのですが、慣れるまでは大変でした。ビデオカメラマンは、メインで活躍しても、ご出席の方々の邪魔になっては駄目なのです。邪魔にならない場所で、漏れ無く撮影する事が必要なのです。実際の披露宴で、サブカメラマンとして約1カ月練習を重ねて、その結果、撮影したテープを見て頂いて、メインカメラマンに登録して頂く事が出来ました。アマチュアでしたら、撮影の途中でも、まずい・・・と思ったら、テープを回したままでも平気で。カメラを三脚に乗せたまま、少し横に移動させたりしますが、プロでは絶対に許されない事なのです。移動する必要が生じたら、タイミングをみてテープを止めて。次の最適な場所に移動。プロは、それでお金を頂くのですから、失敗は許されないのです。ホント、良い勉強をさせて頂きました。

2013年11月30日土曜日

業務用ビデオカメラ SONY DXC-M3A

8ミリ映画は色々のカメラを使用しました。レンズも3本ターレット式からズームレンズ、無音の時代から、フィルムサイドに磁気録音できるタイプ、フィルムも16mm幅の25ft往復、100ft往復、
レギュラーサイズ、スーパーサイズ・・・と、全ての日進月歩に、着いてゆきました。かなりの投資だったと思います。その8ミリが、次はビデオの時代へと変遷したのです。当初は、家庭用のハンディタイプ、その当時は、カメラとビデオは、ケーブルでの接続でした。カメラ一体型は未だプロでも存在しなかったのです。その当時、ビデオはβ式とVHS形式の二通りがあり、いずれにしようか迷いましたが、私はSony党でしたので、迷わずβ方式を選択しました。これで家庭内の記録は充分でしたが、少しずつ、その画質に不満を抱き、上位機種に目が移り始めたのです。未だ真空管の時代でしたが、カメラはSonyの業務用機、DXC-M3A。カメラだけで128万円でした。 それと携帯型のデッキ、VHSのビクター BR-6200。これらを購入したのです。そうした時に、京都のカメラ店のお知り合いの方からのご依頼で、結婚披露宴の撮影をする事になったのです。京都のリバーサイドホテル。朝の結婚式は、別のカメラマンが担当するとの事で、披露宴だけのご依頼でした。しかし、披露宴会場の、その広さにはまずビックリ。ライトもカメラ側からのハロゲンランプ、1灯では、とても届きません。披露宴も、正午から夕方まで、休憩後の第二部は夜の9時までという、非常に盛大な結婚披露宴でした。午後の食事会には、その当時、テレビ等で有名になっていた桂金枝さんと、月亭八宝さんがみえて、インタビューをなさったり、また、夜は別フロアーでダンスパーティー等、私自身、経験の全く無い催しの撮影に、初めてトライしました。その時のカメラマンは、私を含めて3台のカメラでの撮影でした。普通のテレビ中継等でしたら、3台のカメラの場合には、それらの信号を1箇所に集めて、一つの映像が出来るのですが、その時は、3台のカメラの連携は全然無く、それぞれが独自に撮影していましたので、金枝さんとか八宝さんは、少し面食らった時も有った様でした。センターで中継している時は、中継中のカメラにしか、撮影中のランプ表示は出ないのですが、この時は3台のカメラは、別々に撮影していましたので、「あちらのカメラを・・・」と、カメラを指さしても、どちらを向いても撮影中の表示が出ていたのです。 夜の立食パーティーの最後は、新郎新婦によるダンスを参加者全員が見守って、私はそのすぐ近くから、その演舞状況を撮影しました。新郎新婦のダンスはホントに見事でした。私もこの日は、初めての業務用カメラでの撮影でしたが、自分自身でも満足の出来た撮影でした。この時は、カメラを買ってから日も浅かったし、私の装備はマダマダ軽かったのですが、後日、本格的にビデオカメラマンのアルバイトを始めた時は、ビデオも更に固定用機を追加、カメラと接続するケーブルも、長さ30メートル、運搬用のストレッチャーは三段重ねのキャリヤー、三脚も大型となっていました。機材等は、大型となりましたが、その分、責任も非常に大きな物となりました。ビデオのカメラマンは、私一人だけ。ビデオ関係の担当者は、現場では、私一人だけで会場に臨む様になったのです。長くなりましたので、このお話は次回、再び詳しくお話しします。
 

2013年11月16日土曜日

ボーイスカウトの大会、蒜山高原で取材

8月の初め頃でした。岡山県ボーイスカウトの大会が開催されるとの事で、カメラマンと私の二人で、岡山県の県北、蒜山高原で取材する事になりました。カメラは16mmのフィルモ、三脚は勿論、夜間の撮影も有るので、バッテリー式のライトも一式。三脚も勿論、大型のズッシリと重い物です。ライトは、バッテリーは小型車に使用している様なサイズ。ライトは小型では有りません。電球はハロゲンで、反射板は直径25cm位のを2灯。勿論、予備のフィルムも持参しなくてはなりません。16mmの100ft巻きのフィルムですから、直径12~13cmの缶に収まった物を5本、それだけの荷物を、二人で運搬しなくてはなりません。車で走った場合には岡山市内から2時間以上掛かりますから、移動は社用車では無くて、乗合の一般のバスを利用しての移動でした。
蒜山高原に向かう乗合バスは、中鉄バスです。中鉄バスの乗り場までは、社用車で送って頂きましたが、それからは二人で、その全てを運ばなくてはなりません。乗合バスの最後部、棚の上等に重たい荷物を置いて、ヤレヤレ。
 蒜山のロッジに到着すると、即取材の開始です。夕方までは、屋外でボーイスカウトの皆さんの、テント設営作業等の撮影。現代でしたらマイクを持って、お話しを伺うのですが、音の収録は有りません。画像のみの撮影ですので、昼間は三脚だけを携えての取材が続きました。周りが薄暗間なった時から、ボーイスカウトの大会が始まりました。三脚は、少し離れたところに準備しておき、私はバッテリーを肩に提げて、ライト2灯を持って、夜の取材スタートです。ライトはバッテリー使用ですから、長時間、連続して点灯したのではすぐバッテリーアウトになってしまいますので、カメラマンが撮影をする、そのタイミングに合わせて点灯しなくてはなりません。2灯ありますから、それを正面と、上方からの照射に分けてのライティングです。顔に真正面からライトを当てたのでは、顔は真っ白になりますから、その様な事の無い様に、二つのライトを使用して斜めとか、上方から、その被写体の方に向けるのです。キャンプファイアーの際には、ライトを当てるのも、少し控えて、燃え上がる火の明かりを生かして撮影してみたり・・。この辺りは、カメラマンと照明の者との意志の疎通を図っての撮影でした。
キャンプファイアーの撮影を終えると、それまでに撮影したフィルムを、袋に入れて定期バスのドライバーに委託して、当日の撮影は終了。ロッジから、会社に電話して、何時のバスにフィルムを委託したので・・・と、連絡して、フィルムの受け取りを依頼、その日の夜遅くには、その画像が山陽放送テレビから放映されていました。山陽映画社には現像機も有りましたので、フィルムが届くと、すぐ現像。直ちに編集して山陽放送に届けて、それがニュースとして放送されているのです。
 これは余談ですが、蒜山高原には乗馬を経験させて頂くシステムも有りました。撮影終了後、係りの方にお願いして、馬上に乗ってみました。私は乗馬の経験は全く有りません。手綱を一生懸命に持っていたところ、馬は大人しくジッとしてました。手綱を緩めて・・・と、言われて、緩めはしました。しかし、全然動く気配は無し。踵で蹴ったらええんじゃ・・・とは言われたものの、強く蹴ったら飛び出されても怖いので、ホンのチョットだけ、踵で蹴りましたが、動く気配は全く無し・・・。係りの方も、無償サービスだから、馬を動かしてくれる様子も無し。次のお客さんが来たので、私は馬から降りましたが、遂に私には一歩も歩いてくれませんでした。生きている馬には跨ったけど、遊園地の馬の形をした遊具に乗ったのと、同じでした。
 翌朝、夜明け前に出発、近くの山に登りました。昨晩とは違って、年配の方々の同行でした。頂上に付いて三脚をセット。東に向けてカメラをセット。カメラマンが私に、ファインダーを覗いて見ろ…と、仰ったので、覗いたところ、地平線が画面の下から1/3の辺りに有って、曇った空、日の出では有りません。雲が、その大部分を占めていました。そこで、私は、そのプロのカメラマンに、もう少し角度を下に向けて、地上の風景を入れた方が良いのでは・・・? と、生意気にも進言。すると、イヤイヤ、朝の空を写すのが目的じゃから、これでええんじゃ。との事で、ま、無事でしたが、良くもまあ、プロのカメラマンに向かって・・・。やはり、私はそういう意味では、ホント、世間知らずでした。
 アルバイトとして勤務していると、山陽放送からの連絡で、今晩の放送で、私の8ミリ映画を流すから、その時間に金甲山の放送スタディオに来るように・・・との事。その日は、指示された時間に市内の山陽放送テレビの事務所まで出掛けて、安田アナウンサーと共に金甲山のスタディオへ出掛けて、生放送に出演しました。でも、生出演とはいえ、声だけです。流れる画像は私が制作した8ミリ映画。この当時には、未だ、画像を生で流すシステムは山陽放送には有りませんでした。ニュース等も、画像は16mmのフィルムの画像。音声は金甲山のスタディオで生の音声で流していました。
放送後は、自宅まで車で送って頂きましたが、報道の皆さん方の勤務時間がバラバラなのと、その時間の長いのには、ホント、驚きました。当時は、終日放送では有りませんでしたが、それでも、朝早くから深夜まで・・・、きつい仕事だなーと、思ったものでした。

2013年11月10日日曜日

8ミリ映画のスタート、YASHICA 8-EⅢで

この当時は、家庭用のテレビも充分には普及していませんでした。私の家にも、未だテレビは有りません。動画といえば、映画館で見る映画、この時代は、中村錦之助さんとか東千代之助さんが中心になっていた、時代劇の時代でした。写真好きからの興味がどんどんと広がり、動画の世界に興味を抱いたのです。家庭用で、自作できる動画といえば、8ミリ映画でした。この当時には、9.5mmは、もう有りませんでした。最近では、ズームレンズは当たり前ですが、この時代には、ズームレンズはマダマダ一般的な物ではなく、シネ用のレンズは、ターレット式レンズの付いた基盤を回転させて、レンズ交換をやっていたのです。写真のカメラは『Yashica 8 EⅢ』。ターレット式の3本のレンズ交換式8ミリカメラです。レンズが全部で6本ありますが、小型のレンズはファインダー用のレンズです。フィルムはダブル方式、16mm幅のフィルム25ft巻きで、現像後半分の幅にカットして1本50ftに加工して現像所から返送されていました。現像はフィルムメーカーの工場宛てに発送して、完成返送されるまで、約1週間。現在のビデオカメラを考えると、ホント大変、手間と暇の掛かる代物でした。カメラでは撮影だけ、画像を見るには別途映写機が必要です。当初は、現像が上がる度に、カメラ店で映写機を拝借、画像の確認をしていました。編集といえば、原版のフィルムをカットして、それを接着剤で繋ぎ合せて、作品を作り上げていたのです。暫くしてから、フィルムの端に、マグネットを貼り付けて、そこに録音が出来る様にもなりましたが、それは数年後の事で、この当時は画像のみ、音声の記録は有りませんでした。作り上げた作品も、音は一切無し、無声映画で、画像だけで全てを表現したものです。
初めての作品、どの様な構成にするのか、随分考えました。参考書類、書籍は数多く読みました。ストーリーが有って、しかも、全てを自分で撮影出来る物で無くては、不可能ですので、 やはり俗に言うホームムービーしか出来ない・・・と、私を主役にしたホームビデオ、『鉄筆』に決定しました。この作品、『鉄筆』に付きましては、このブログ『6月6日』付けで詳細に置き込んでいますので、省きますが、この作品は『山陽新聞』『山陽放送テレビ(RSK-TV)』共催の8ミリ映画コンテストで、推薦に選ばれました。一般の方々を対象にしたコンテストに、全くの無名の高校生が推薦になったという事で、非常に大きな話題となり、新聞の朝刊に顔写真、テレビで放送等、地元岡山では、かなりの方に知られる存在になりました。テレビの放送では、映像を流しながら、バックでアナウンサーの方との対話を入れる事になり、その対話も、録音では無く、生音声を入れよう・・・と、放送時間に合わせて、テレビスタディオに向かったものでした。
 この当時は、テレビのニュース番組も、画像はフィルムによる物でした。マダマダ、ビデオは利用されていなかったのです。そのニュースフィルムの作成は『山陽映画社』が担当していましたが、その会社から私にお呼びが掛かったのです。カメラマンとして活動しませんか・・・と。将来は兎も角、アルバイト位はしても良いかな・・・と、夏休みの1ヶ月半、カメラマン、及び撮影補助として活動しました。カメラは8mmでは有りません。ワンランク上の16mmのカメラ(フィルモ)と、一般の映画館でも使用していた35mmのカメラ(アイモ)の2種類のカメラを使っての撮影でした。
 何も無い時は、会社内で色々やっていても、外でサイレンの音が聞こえると、すぐ支度して、会社を飛び出して事件の現場に駆け付けたものです。交通事故、火災等々、サイレンの音から、電話で警察、消防に確認、カメラと照明、三脚を持って現場に駆けつけました。火災の現場では、消防の放水の水を受けながらの撮影も経験しました。又、時には短編映画の撮影に、35mmカメラで蒜山高原に出掛けた事も有りました。夜間の照明には、直径7~80cmもあるライトで、噴水の頂上をバックから照明したり・・・。もっともっと、お話ししたいのですが、少し長くなりましたので、詳細は次回にします。

2013年11月5日火曜日

やっと手にした一眼レフ、Minolta SR-1

初めて手にした一眼レフ、Minolta SR-1、未だ未だ、世間には一眼レフは珍しい存在でした。レンズは55mmf:2.8。このカメラを手にするまで、何度カメラ店に足を運んだ事か・・・。ショーウインドーの前で、ジーッと眺めまわして、横に置いてあるNikon Fを横目で見ながら…、しかし、その価格表示を見て、自然と目はMinoltaの方に・・・。当時の価格で、Nikon Fは、Minolta SR-1の約2倍の価格でした。暫くショーウインドウの前で眺めてから、店内に入って、カタログを頂きました。カタログは無料ですので、当然Nikonのカタログも頂きました。自宅に帰ってからは、そのカタログを隅から隅まで、じっくり研究。その翌日には、再度カメラ店を訪ねて、暫くショーウインドウを眺めた後に、やっと店内に入って、お願いをしてNikon-FとMinolta SR-1の二つのカメラに初めて触らせて頂きました。初めて手にした一眼レフ、それ迄はコンパクトカメラ Olimpus Pen でしたから、重量も全く違い、又、ファインダーを覗いたその世界は、まるで別世界を眺めている様な感覚でした。価格を訪ねると、ショーウィンドウに表示されていた価格の返事が返って来ました。その価格を頭に入れて、今度は、又別のカメラ店へ自転車を走らせて、同じくショーウィンドウで価格を確認した後に、店内で、価格を尋ねて・・・。次から次と、カメラ店を梯子して、価格の比較をしておきました。その当時は、店員と価格の交渉をする等の発想は浮かびませんでした。店頭価格が全て・・・と、考えていた、マダマダ純真な私でした。数多くのカメラ店で価格の確認をした後、父親に請願して、やっとOK。初めての一眼レフを手にする事が出来ました。
 当時の一眼レフは、自動装置、露出計の組み込み、ピント調整等は、何も組み込まれていません。全てが手動で、後はカメラマンの腕次第です。当然、慣れも必要でしたので、常にカメラは私の傍に有りました。学校に通う時も、密かに鞄の中に・・・。学校の帰りには、近くの後楽園に寄ってみたり、当時は未だ天守閣は再現されていませんでしたが、岡山城跡に行ってみたり。帰宅すると、慌ててダークバッグを持ち出して、フィルムの現像タンクにフィルムをセット、時計を確認しながら現像液の注入、中間停止、定着液。そこまで終えると、一度そのフィルムを取り出して、撮影と現像の確認。しかし、ネガですから細かい事は判別できませんが、一応確認の後、数時間の水洗を開始。
 岡山で国体が開催された時は、ほとんど毎日、カメラを持って撮影に出掛けました。午後から始まる高飛び込みの日、私は午前中から、誰も居ない、その高飛び込みのプールサイドに陣取って、三脚をセットしてスタンバイ。午後になって、係りの方が見えましたが、「報道の方ですか?」との問い掛けに、素直に『ハイ、そうです』と答えて・・・。高飛び込みの姿を逆光で、シルエット撮影しました。
その時の写真、後日開かれた国体の写真展で入選でした。
 この当時は全てがモノクロ写真でした。カラー写真も有る事は有りましたが、現像、プリントは全て郵送での依頼でしたので、私がカラー写真を写す事は一度も有りませんでした。でも、フィルムは映画撮影用のコダックの100ft巻、ASA400を購入して使用していました。
 毎日毎日、写真撮影に頑張っていたのですが、フト抱いたのが動画の撮影に対する興味でした。当時、家庭用の動画、8ミリ映画が発売されて、未だ日の浅い時期でした。映画といえば映画館で見る映画だけで、家にはテレビも無い時代でした。当時発売されていた8ミリ映画に対する月刊誌は3種類、小型映画、8ミリ、8ミリシネの三種類。高校2年生からでしたか、毎月3種類の月刊誌を購入して、それだけでは物足らず、小型映画の別冊、何種類も有りました、ストーリーの組み立て方とか、撮影の全て、編集方法等々、全て買いました。買っただけでは無く勿論熟読しました。自分でストーリーを考えて、それを撮影、撮影した物を編集・・・。その時、頭に叩き込まれたのが『起承転結』です。物語はその全てが起承転結で進めれば、上手く出来る・・・という事です。『起』で何かが始まって『承』でそれを暖かく持ち上げて、『転』で何か大きな変化を与えて、最後は『結』で丸く纏め上げる。ホント、何事もそうです。ドラマも小説も。私は何かを纏め上げるには、全て、その言葉を頭に入れながら作業を進めています。その当時、勿論カメラ店に展示されていましたが、8ミリ映画のカメラ等、見かける事は有りませんでした。それを、私がやろうとしたのです。カメラで撮影した後は、そのフィルムを現像所に郵送、帰って来たフィルムは、8ミリ映画の映写機も必要でした。カメラだけでも3万から5万、映写機も同じ位でした・・・・。さあ,私の夢は大きくなる一方でした・・・・・・・・。

2013年10月27日日曜日

高等学校では写真部に

岡山操山高等学校に入学、場所は後楽園のすぐ北側です。自宅からは自転車通学。通学用に3段切り替えの最新型の自転車。でも、今から考えれば、極く普通の家庭用の自転車でした。最近のサイクリング用の自転車等とは似ても似つかぬスタイルでした。でも、買い物用の前かごは有りませんでした。雨の日も風の日も、傘を持っての片手運転、自宅からは20分位でしたか・・・。
 入学早々の初めての体育の授業でした。グラウンドに集まって、砲丸投げの授業。未だ最初だったからでしょう、全員の運動能力を知りたかったのかと思いますが、担任教師は名簿を手に、全員の投てきを記録していました。いよいよ私の投げる順番になりました。砲丸投げのサークル、サークル内の一番前のガード部分に立って、そのままの位置から、砲丸を力一杯に投てき。すると、すぐその先生が寄って来て、小声で、「ホンマは、なんぼ投げれるんじゃ?」と、尋ねて来ました。だから私は言いました。「イエ、これで精一杯ですよ・・・」と。私も中学時代に砲丸投げはした事はありました。しかし、助走をする自信が無かったので、一番前まで出て身体を反転させて、その場で投げただけなのです。ただ、皆さんと違って、砲丸を投げる時、野球のボールを投げるのと違って、親指側を付き出す様に逆スナップを利かせて投げたので、ビックリなさった様でした。
 部活は陸上にも入りましたが、新たに文科系では写真部に入りました。初めての写真部、暗室も見学しましたが、まるで屋根裏の様な狭い場所に暗室が有りました。全紙用のバットも有りましたが、これでは中々、一年生では、順番が回って来ないな・・・と、感じたのです。そこで、思い切って、自宅に暗室をセットしたのです。最初は、自宅のお風呂場でした。夜間、全員の入浴後、窓の隙間等を毛布を用いて、暗室を設定。最初は、プリントサイズも四つ切を限度にしていましたので、それでも良かったのですが、段々、欲が出て来て、最後には全紙のプリント迄もしたくなって・・・。遂には、専用の暗室を家庭内で自作したのです。畳一畳分の押し入れ、その中の横板を取り払って、出入り口は毛布で遮光。今から考えると、その時、私の親は反対もしませんでしたが、逆の立場だったら、私は拒否したかもしれません。というには、当時は自分の家では有りません。県庁の職員用の住宅、借家です。その借家の押し入れの、中の棚を取り去ったのです。工事の前に、県庁に申請したとしたら、拒否されたかも知れません。でも、父親は何も言わず、私のわがままを許してくれました。暗室を作るからには、引き伸ばし機が必要です。又、光沢紙を乾かす乾燥機、現像用のバットが3枚。当然、モノクロしか出来ませんが、ホント、ほとんど毎日暗室に入っていました。木製のパネルに貼って、コンテストに応募、当時、岡山国体の写真コンクールだったと思いますが、入選でした。
 高校に入って、35mmの一眼レフも買って頂きました。ミノルタSR-1でした。本当は、Nikon Fが欲しかったのですが、価格が6万円以上でしたので、約半額のカメラで辛抱したのです。父親は公務員でした。当時の公務員の給与は、将来恩給が有るから・・・と、民間よりもグーンと低い給与だったのです。現代とは大きな違いですが、当時はそうでした。私達、家族全員で協力して・・・。でも、今だから言えますが、私は随分、好き放題に新しい事を始めさせて頂きました。35mmフィルムも、36枚撮りの国産フィルムでは無く、100ft巻きのコダックのトライXを使用させて頂きました。そのフィルム現像も当然、自分でやりました。大きな布製のダークバッグを買って、その中でトライXをパトローネに装てんして、撮影後はそのフィルムを、再びダークバッグの中でフィルム現像タンクにセットして・・・。
その当時、父親に内緒で、135mmのレンズを県庁の売店で購入したり・・・。父親の名前で県庁の売店で、給料引きで何でも買えたのです。遅いけど、お父さん、ゴメンナサイ。でも、ありがとうございました。今度、綺麗なお花を持って、線香をあげに参ります・・・。

2013年10月22日火曜日

高等学校の受験

岡山県立岡山操山高等学校の正門です
岡山大学教育学部付属小学校6年間、中学校3年間も年が明けて卒業間近となりました。その当時、岡山では進学する高等学校は数少なく、限られたものでした。県立の普通科高校は第六高等学校を前身とする岡山朝日高校、岡山一女を前身とする岡山操山高校の2校しか存在しませんでした。その二つの高校も、総合選抜ですので、どちらに進学するか、一応の希望は表示しますが、それはあくまで希望であって、どちらに進学するか、全く解りませんでした。私の兄二人も、それぞれが朝日、操山に進学していました。私も一応は、元六校の岡山朝日高校を希望として出しました。
受験は、中学校から近いからかどうか、岡山朝日高校で試験を受けました。自宅からの距離も、操山高校までの半分位の距離に朝日高校が有ったのです。試験は、ごく普通のペーパーテストで、特に問題は有りませんでした。合格発表を前にして、各中学校を通じて総合選抜の結果を知らされましたが、私は岡山操山高校の方になっていました。合格発表の日、自転車で操山高校にまで出掛け、合格を確認、友人達と共に付属中学校に、合格の報告に出掛けて、中学校の先生方からお祝いの言葉を頂いたものでした。
 自宅に帰った時、家には祖母だけでしたが、私は祖母にも声もかけずに、そのまま自分の部屋に入って・・・。暫くすると、祖母がそーっと私の部屋に来て・・・。祖母が何を聞きたいのかは分かっているのに、わざと何にも話さないで・・・。遂にしびれを切らして祖母が尋ねて来ました。「高校の試験は??」「うん? 合格してたよ」「よかったなー、おめでとう!!」「高校の試験ぐらい、当たり前じゃー・・・」「今朝、あんたが出かけた後にな、言うとったんじゃ、もし落ちとったら、だまーって自分の部屋に入るじゃろうな・・・て」。 私も自分自身、本当に不合格だったら、多分、そうしたと思います。黙って部屋に入って、誰とも口をきかないで・・・。家族も、皆がそんな様に考えていたみたいでした。でも、本当に、高校の受験には、私自身、不安は抱いていなかったのですが・・・。
 ホント、家族は同じような事を考えるんだな・・・と、家族の温かみを感じたものでした。
ところで、不思議に思った事が、一つありました。入試発表の場で、アイツ、何でかな? 今日、発表の場に来てなかったな・・・、と思っていたのですが、新聞に掲載された入試発表によると、不合格になっていました。一般的には知らされてはいないけど、不合格の場合には、前以て連絡が有るのでしょうね。ホント、大学と違って高校の入試発表で不合格の姿は見た事が有りません。ま、これが事実かどうかは、判断は出来ませんが・・・。
 結局、中学校では、部活としてはバレーボール一本でしたが、対外試合には各種出場しました。陸上競技、ハンドボール、サッカー・・・。中学校では記録はたいして良くは有りませんでした。陸上も100mが13.2秒、ハイジャンプが160cm。走り幅跳びは、どうしても5mの壁が越えられなかったのですから、体力自身はそれ程ではなかった・・・と。高校では、自分のカラーを、一杯に出して・・・と、胸を膨らませたものでした。

2013年10月15日火曜日

中学2年の秋からは、体育委員長

中学校2年生、10月の体育祭が終わると、生徒会の各委員長は3年生に替わって、2年生が委員長を務める決まりになっていました。私は体育委員長に選ばれましたが、生徒会の委員長の内で、一番忙しいのが体育委員長。毎月実施されているクラス対抗の各種の大会。種目別の対抗戦、まず、朝礼の場で、今月の競技種目、開催予定日の発表と、組み合わせ抽選会の開催予定と場所を発表。各学年5クラスに分かれていましたので、総員15名の体育委員に集まって頂いて抽選会の実施。そこで決まった組み合わせを全校に発表するのは、校内の一角に設けられた、横幅約3メートルの黒板でした。黒板に白墨で持って記入です。それ迄、トーナメントの図形等は、一度も書いた事は有りませんでしたが、兎に角、初めてトーナメントの組み合わせを、男女9組の組み合わせ図を記入しました。各体育委員は、抽選会の場で、既に組み合わせを知っていましたが、一般の方々への発表はこの黒板が初めての発表です。多くの生徒さんの注目の中、トーナメント図を書き終えて、ホッと一息・・・。
その翌日でした、1年先輩の体育委員の方から、指摘を頂きました。トーナメントの仕組み等を何も考えないで、単に組み合わせの図を書いたのですが、その私の書き方が間違っていました。添付の写真の右側の図の様に書いたのです。その図によれば、1回戦と2回戦の表示が誤りでした。『1回戦の不戦勝は有るが、2回戦の不戦勝は無い・・・』と。確かにそうです。1回戦、2回戦との事は考えないで、単に組み合わせを表示・・・と思っていたのですが、大きな間違いでした。そこで、早速左側の図の様に、1回戦と2回戦の高さを揃えて書き直しを実行しました。
組み合わせのトーナメント図と共に、試合の実行予定も横に書き出して、翌日から試合が始まりました。各ゲームが終わると、その結果を書き足して・・・。又、各ゲームの審判も体育委員の仕事です。毎日毎日、遅い時間まで、一緒に走り回ってのレフリーでした。その点、バレーボール、ソフトボールは走り回らないので、未だ楽でしたが、ハンドボール、サッカー、バスケットボールでは本当にくたくたでした。以前にもここで書きましたが、レフリーで走り回った日の夜は、吹き続けたホイッスルの影響で、耳はキーン・・・と、鳴り続けていたのですが、でも、何も考えずに毎日毎日。
 全試合を終えた翌週の月曜日は、朝礼で結果発表です。各学年、男女別に優勝したクラスには簡単ですが、校長から表彰状の贈呈もしました。賞品までは有りませんでした。
その当時の付属中学校には、バレーボールは4面、バスケットボールは2面のコートが有り、トラックは200mでしたが、その周囲もかなり有りましたので、ソフトボールは4面のコートが確保出来ましたが、ハンドボール、サッカーでは2面でした。
 毎月一種目でしたので、黒板には、特に注意するルールを簡単に説明もしたり、お陰で黒板への記入は随分と練習にもなりました。横書きの文字を書くと、右が少しずつ上がってしまいますが、それも水平に書けるように・・・。
 何事も経験する事ですね。ホント、良い経験をいろいろとさせて頂きました。

2013年10月10日木曜日

Olinpus Pen が発売されました

写真撮影、カメラに興味を持ち始めたのは、私の兄の影響でした。私が小学校の3年の時でしたか、アイレスフレックスを兄が購入して写真撮影を始めたのです。35mmのフィルムでは無く、6cm角のフィルム、ブローニーのフィルム使用。カメラのレンズはファインダー用と撮影用が別々に、縦に並んで付いている二眼レフカメラ。我が家にカメラが入ったのは、これが最初でしたので、みんな喜んで撮影に応じたものです。小学校4年のクラス会、ご父兄も参加しての集まりでしたが、そこに兄も参加、そのカメラでクラス全員、ご父兄もご一緒に全員の集合写真も撮影してくれました。今でもその時の集合写真はキャビネサイズに引き伸ばした物が、アルバムに大切に保存してあります。
私専用のカメラが欲しかったのですが、現代とは違って、まだまだ、物資の不足していた時代でしたし、当時の公務員の給与は民間よりも低い時代。親にカメラを買って・・・とは、なかなか言い難かったのです。当時、大卒の初任給が1万円程度の時代でした。だけど、カメラが欲しいなあ・・・とは、少しずつでしたが、頭から離れなくなって来たのです。しかし、物が溢れている様な時代とは違いますので、辛抱して、色々と策を練ったものでした。
 小学校の時には、全校で給食が行われていました。給食は、ご飯ではありません。みんな、味の無いコッペパンで、おかずは、校内の調理場で調理された物でした。当時は、給食の専門業者なんて有りません。ご父兄の皆さんが、順番に学校の調理場に来て下さって、給食の調理をして頂いていたのです。メインはコッペパンと暖かいミルク。粉ミルクを溶いて、温めた物でした。味は何も有りませんでした。大きなバケツを二人ずつで持って、教室まで運ぶのですが、途中でバケツを落としたり…。何度かその様なトラブルも有りました。
中学校からは、給食は有りません。生徒それぞれに弁当を持参していましたが、私の場合は、弁当を持参する事はほとんど無く、学校の売店でパンと牛乳を買って、それを教室で食べていました。袋入りの細長いパン、ロールパンて言いましたかね、上部に切り目が入って、クリーム、ジャム等を挟んである物、当時あれが幾ら位しましたか・・・、1本50円か80円、もしかするともっと安かったかもしれません。毎日のパンと牛乳代、それを貯めようと考えたのです。少しずつでも小遣いを貯めて、それでカメラを買おうと計画し、実際に実行しました。昼食時になると、教室を離れ、校舎の屋上で時間を潰していました。昼食抜きでも、その影響はほとんど感じませんでした。放課後も遅くまで、校内のグラウンドで過ごしていましたから・・・。
 この様な努力(?)をしていた時に発売されたのが、添付写真に有りますオリンパス ペンでした。当時のカメラの価格からすると、非常に安い価格で、5~6,000円で発売でしたか。給食代を貯めていた額を両親に示して、そのカメラを購入して頂く事が出来ました。35mmカメラのハーフサイズのネガサイズ。常に携行して、色々と撮りまくりました。しかしカメラはオート機能は何一つありません。全てが手動でしたので、露出、シャッター速度、それと大まかなピント調整。全て自分で調整して撮影を続けました。隣の小さなお友達、未だ小学校にも行く前だったと思いますが、近くの東山公園の遊具に乗る姿等を撮影して、喜ばれたりもしました。
 しかし、この頃は、マダマダ、ホントの遊びみたいな撮影でした。本格的に撮影にトライしたのは、やはり高校に進んで、写真部に入ってからです。ハーフサイズのこのカメラでは不満で、もう少し、上の一眼レフに進みました。フィルム現像からスタートして、プリントは全紙まで、自宅内に暗室をも作って、各種コンテストにも応募、推薦までは経験有りませんが、入選は各種頂いたものです。このお話は、次回詳しくお話しします。
 

2013年9月23日月曜日

秋の職場旅行は 松茸狩り

小学生の頃は、岡山市上伊福に有った岡山県庁の敷地内に住んでいました。父の勤務先、岡山県庁の職員用住宅が、県庁の敷地内に有ったのです。現在、岡山県庁は旭川の相生橋の近くに新築移転、元の上伊福には岡山工業高校が設置されています。上伊福に有った県庁は、元は繊維関係の工場だったのかもしれませんが、紡績会社特有の屋根が斜めになった建物を、立て替える事も無く、工場みたいな建物をそのまま使用していました。少し奥にはグランドもあり、私達子供は、その広いグランドで自転車の稽古をしたり、ソフトボールをしたり、遊び場所に不自由はしませんでした。日が暮れるとそこで堂々と大型の打ち上げ花火等も楽しみました。4ヵ所か5ヵ所に大きな防火水槽が有り、その中には川魚がいましたので、時には釣竿を持って、フナ釣りを楽しんだりもしました。その当時の防火水槽は、まるでプールみたいに大きなもので、蓋は有りませんでしたので、ホント、釣り堀の様でした。プールよりも随分深く、時には子供が落ちて、大騒ぎになる事もありましたが、生命までは大丈夫でした。県庁の勤務時間後は、そのグランドで、職員の野球大会等もあり、私達も夢中になって応援したものでした。その当時から、職員の方々とも顔馴染みになり、一緒に遊ぶ事もありました。県庁の中には、売店、書籍販売店もあり、子供の月刊誌は予約して購入していましたので、発売日の午後、学校から帰ると一番に県庁の父親の机まで、本を受け取りに行くと、父親がニコニコしながら、本を手渡してくれたものです。又、時には庁内の本屋さんに直接出掛けて、希望の本を見つけて店員さんに渡せば、そのまま持ち帰る事も可能でした。支払いは、父親の給料から・・・。
 県庁の職員の旅行に連れて行って貰った事もありました。季節は調度秋、その頃は山に入ればマツタケが沢山育っていました。最近では、山に入っても、1本見付けるのに苦労する様ですが、その当時はマツタケは豊富でした。津山の手前、誕生寺という駅で汽車を降りて、近くの山まで歩いて行きました。当時は、現代みたいにすぐ団体バスで・・・と、いう様な事は有りません。2~30人の団体でしたが、それぞれ籠を持って山に入り、落ち葉の陰から頭を覗かせているマツタケを収穫、結構沢山有りました。山を降りると、農家の庭先に数個のコンロを設置、庭先での焼きマッタケ、すき焼きを開始、皆さんは日本酒を呑みながら・・・。コンロの周囲に茣蓙、蓆を敷いて、現代でしたら、まずビールから始まるかも知れませんが、その当時は、現在ほどビールは見た事が有りませんでした。確かその日は、子供は私だけだったと思いますが、みなさん、普段からの顔馴染みでしたので、お互いに遠慮も無く、楽しい旅行でした。現代では、松茸狩りは採れても採れなくても、一人数万円とかの入山料が必要ですが、その当時は県庁の職員旅行で行く位ですから、入山料、食事代は安かったのだと思います。でもその時もおみやげまでは無かったですね。現地で採り放題、食べ放題だけでした。
 帰りは、再び国鉄の汽車に乗って岡山まで。蒸気機関車ですから、平地を走っている時は、窓も開けていられますが、トンネルの時は、すぐ窓を閉めなくてはなりません。トンネルに入る手前で、機関車が2~3度汽笛を鳴らしてくれますが、それを合図に、何よりも早く窓を閉めたものです。開けた窓から顔を外に出していた時、目の中に石炭の燃えカスが入って、暫く痛くて痛くて、困った事も有りました。今度のリニアモーターカーは、その大部分がトンネルの中だそうですが、でも、ススの心配は無いから、ま、安心ですね。

2013年9月20日金曜日

あっ! プールにボールが飛び込んだ

 
未だ暑い時でした。いつもの様に、放課後のグランドでハンドボールの練習をしていた時、投げたボールがすぐ近くの附属小学校のプールの中に入ってしまったのです。プールの入り口は、勿論鍵が掛けられ、入る事が出来ません。しかし、飛び込んだボールを放置する事も出来ません。どうしようかな・・・と、考えましたが、プールの周囲のフェンスは、その気になれば簡単に越えられるものでしたので、そのフェンスを越えて中にボールを取りに入ったのです。ボールはプールの中、水の上に浮かんで、僅かな波に揺られていました。体操着のスタイルでしたが、そのまま水の中に入って、ボールまで歩いて行った時、友人達もフェンスを越えて、プールサイドに入って来ていました。「水の中は気持ちええんじゃろう・・・」と、更に2~3人が水の中に入って来て、ついつい、プールの中で、まるで水遊びの様になってしまったのです。
 暫くした時に、フェンスの外に小学校の先生の姿が有りました。お互いに顔は良く知っていた先生でしたが、「もう、その位にして、上がれヨ・・・」とのお優しいお言葉を頂き、みんな濡れた体操服姿で、プールから再びフェンスを越えてグランドに戻ったのでした。その当時、小学校にはプールが有りましたが、中学校には未だ設置されていなかったのです。無断でプールに入りましたが、でも、大事にならず、ホッとしたものでした。
 小学校の時、5年生と6年生は毎年夏休みの初めに、臨海学校が行われていました。行き先は瀬戸内海の本島でした。岡山から行ける海水浴場は、玉野のすぐ西側の渋川海水浴場。ここは陸路でバスで行けますが、それ以外は南備海運の乗合船で出掛けていました。一般には、出崎、豊島等の海水浴場でしたが、それよりも少し遠い島、本島でした。ホテル等は存在しません。完全な民宿でした。それも、最近の民宿とは違います。空き家を改造したのでしょうか、数軒の家に分かれて、各家全体の数部屋が明け渡されて、の宿泊でした。食事は、全員が別々には準備する方も大変だからでしょうか、お寺の大広間に全員が集まっての食事でした。岡山市の京橋の船着き場から本島の海岸まで、1時間半くらいだったでしょうか、1階の船室と、2階の甲板、2階は布製の日よけが有るだけで、椅子等は有りません。船の進行方向によっては、日差しが横から差し込む事もあります。日差しを受けて、暑くて堪らず船の反対側に人が寄ると、船が傾いてしまい、船員の方々が慌てて、「船が傾いています、両側に分かれて乗って下さい・・・」と、走り回っていたのを記憶しています。
 島に到着すると、そこで、班別に分かれて別々の空き家に入りました。3泊か4泊だったと思いますが、海には勝手には入れませんが、フリータイムは自由行動です。夜にはお化け屋敷も設営され、最後の夜は、海岸で花火大会も開催されました。朝は、早くから起きて日の出を仰いだり、普段、学校等では味わえない雰囲気の生活でした。布団の上げ下げ、部屋の掃除も全てを自分たちでやりますので、ホント、良い経験でした。
 臨海学校の期間中に、ほとんどの生徒達も泳ぎをマスターして、最後の日の午前中は場所を決めての水泳大会も行われました。でも、プールとは違いますので、タッチの差・・・ナンテのは有りませんけど・・・。

 島からの帰途、船の中は静かなものでした。みんな疲れ切って、ほとんどがスヤスヤとお昼寝。陽が当たっていても、反対側に移動するどころか、みんな、熟睡でした。船は児島湾から旭川に入り、上流に
上る事約30分、京橋の船着き場に着く頃には、起き出した全員が、賑やかに、迎えの家族に手を振ったり・・・。
 あれもこれも、思い出せば、ホント楽しい毎日でした。あの頃は・・・。

2013年9月17日火曜日

人間プラミットで危険な イタズラ

(2011年度カレンダー 河合町幼小より拝借)
幼・小・中学校の合同体育祭も終えた10月最後の土曜日、中学校だけで陸上競技大会と集団運動が開催されました。今回は体育祭とは違って、入場行進は無く、センターのグランドに集合。中庭で行っている毎週月曜日の朝礼を、大きなグランドで開催した様なスタイルでしたが、生徒達は全員が体操服での集合でした。今回の開催は生徒会が中心で行いましたので、まず生徒会会長が開会の挨拶。続いて体育委員長が壇上に上がって、号令、全員が体操の出来る様な間隔で整列。それと同時にラジオ体操の伴奏曲が会場に流されて、約750名全員でのラジオ体操。体操の後は再び号令に従って、全員トラックの周囲に設置されている各クラスの位置へ。
 いよいよ、各種の競技が開催されました。一般の陸上競技では、フィールド、トラックと分かれて各種の競技が開催されますが、この学校内の大会では、各種掛け持ち参加する選手も多く、なかなか各種競技の同時進行は出来ません。
100m走行を終えた選手が、慌てて走り幅跳びの方に走ったり、砲丸投げの場所に走ったり・・・と、選手の到着を待って各種競技が進行していました。
 午前中の主な試技が終わった頃に、男子生徒が集められて、集団演技が行われました。各クラスに分かれて、人間ビラミットの組み上げでした。最下段が横に7名、両膝と両手を地に付けて四つん這い。その上に6名が同様に四つん這い。最上段の1段を加えると、下から7段のビラミットでした。体操の授業時間等にも何度か組み上げる練習はしていましたので、組み上げ要領は心得て、全員、、あらかじめ決めていた位置に付いて、一段ずつが上に乗って行きました。
 しかし、今日はいつもとは少し一つ違いました。見ている方々をを驚かせたい・・・と、私の中にイタズラ心が生じたのです。ピラミッドの組み立てを始める前に、全員に聞こえる様に、しかし、周囲には聞こえない様に、『組み上げた途端に下から崩すよ・・・』と。
声を掛けておかなくて、突然崩したのでは、慌てて手を骨折する等の危険が有りますので、前以て全員に声を掛けました。
 私は最下段の中央でした。体育担当教師のホイッスルの度に、一段、一段と組み上げて、少しずつビラミットは高くなってゆきました。最後のホイッスルで、最上段の生徒が一段ずつ上に上がって、最上段に上がったのを確認して、一声、小さな声で、しかし全員に聞こえる様に『崩すぞーー』と声を上げてから、私は地に付いていた右手を少し前に移動させると同時に、右肩を少し下に下げたのです。計画通りに、7段のピラミッドは内側に向かって、ズッズッズズーと、崩れ、周囲からは女生徒達の悲鳴が聞こえました。何食わぬ顔で立ちあがって、全員に『怪我は無いな・・・』と確認、無事でした。
 全員で昼食を終えた所で、若い体育教師から言われました。『お前、わざとやったじゃろう・・・、見えとったぞ・・・』と。でも、小声でした。若い先生には、私のイタズラ心は、よくご理解頂けていた様子でした。当時は全員が幼かったので、何の怪我等も無く無事でしたが、今だったら、絶対に無理ですよね。
若い時もあったので、良かった・・・と、いったところです。でも、イタズラ心は今でも一杯に残っています。

2013年9月15日日曜日

秋の全校合同大運動会で、大失敗!!

(岐阜聖徳学園大学附属小学校のHPから拝借掲載)
10月に入って最初の日曜日、岡山大学教育学部付属幼稚園・小学校・中学校の合同運動会が開催されました。生徒数だけで、幼稚園が約100名、小学校約800名、中学校約800名、合計約1,700名。そこに、応援のご父兄方がおみえになりますので、全体では約2,000名から3,000名の大集会となります。中央のグランドは一周200メートルのトラックですが、その周囲は人、人、人で一杯の状況になります。
最初は、北側の入場門からは幼稚園と小学校生徒、南側の入場門からは中学校の生徒達が、音楽に合わせての入場行進。全員が足を揃えて、まるで国体の開会式と同様の入場行進です。来賓、幼・小・中の校長の挨拶、中学校の生徒会長の選手宣誓・・・と、開会式が進められ、引き続いて全校でのラジオ体操第一が始まるのです。そこで、体育委員長の私が壇上に上がって指導演技が開始されます。音楽に従って、体操の演技をするだけですので、特に問題は有りませんが、指先を軽く握っている時、その指先を延ばす時、又、踵の上げ下げも、基本に忠実なスタイルでの演技を心掛けました。これは、体操を基本通りに実行するだけですから、特に問題は無く無事終了。
 全体の人数が多い為、出場回数も自然と限られますが、中学校のメインの競技はスウェーデンリレーでした。学年ごと、クラス別対抗戦です。男子の場合には、第1走者が100メートル、第2走者が200メートル、第3走者が300メートル、第4走者は400メートルを走るリレーです。(女子は各半分)
 運動会の司会は、幼稚園、小学校、中学校でそれぞれ交替し、中学校の司会は私達の担任の体育教師が担当していました。普通のアナウンスでは有りません。陸上競技の場内放送は、独特の抑揚を付けて話すのです。語尾だけを下げる案内の仕方、その案内の抑揚の付け方を真似ていましたので、まるで陸上競技場の様な雰囲気になっていました。
 2年生までは別に何の問題も無く進み、いよいよ、私達3年生のレースとなりました。私は当然アンカーの400メートル。普段は400メートルなんて走る事もありませんので、まあ、無理をしないで走れば良いわ・・・と、考えていたのです。いよいよスタートしました。ところが私のクラスの走者はどんどんと遅れ、私がバトンを受け継いだ時には、先頭とは7~80メートルの差がありました。400メートルの全力疾走は出来ませんので、200メートルトラックの1周目は、はやる気持ちを抑えて押さえて、やっと1周を終えた時に、それ行けっと、ピッチを上げての走行をしたのです。どんどんと第一位の選手に追い付きそうな私の走行を見て、場内アナウンスが流されていました。『只今第2位を走っていますのは体育委員長のかわさき君で有ります・・・』と、陸上競技のアナウンサーの音声に合わせての放送が流れていました。第2位として、前方に目標が見えていましたので、比較的気持ちの上では楽に、走り続けていたのです。7~80メートル離れていたものが、200メートルを過ぎてから急にスピードアップして、どんどんと追いかけて、応援の方々も夢中になって声が上がっていました。残り40メートル付近では、遂に追い付き、これから抜きに掛かろう・・・とした、その時でした。
それ迄先頭をのんびり走っていた選手が私が追い付いた事に気付き、慌てて逃げ出したのです。
逃げる側の選手は、それまで、のんびり走っていただけに、体力は充分残っていたみたいで、即、全力走行を始めたのです。私は、追い付く・・・と、思ったところで急に逃げられて、ガクンと力が抜けて、残りの2~30メートルを走るのが精一杯で、結果としては、抜き去る事は出来ませんでした。
ゴールに入るなりグランド上に倒れ込んでしまいました。
 超満員の観衆の前で演じた私の恥ずかしい走り、追い付く寸前までは行きながら、逃げ出した姿を見て、ガクッとショックを受け、あとが続かなかった事は、今でも、悔しいだけで、取り返しの付かない大失敗でした。後から何度考えても、あの時、ガクッときた私が納得できないでいます。最初から追い抜くのが無理と考えていたら、ここまでの悔いは残らないのですが、あと一歩まで行きながら、そこで力尽きた私が、どうしても納得できない、悔しい思い出です。この悔しさは、何度思い出しても、もう一度、このレースを走り直したい、そんな思いです。一位の選手に逃げられて、逆転が出来なかっただけで有れば、何とも思わないでしょう。逃げられて、それを見て、ガクッとそれまでの力が抜けてしまった事が、自分自身どうしても納得できないのです。余りに情けない自分が、納得できなくて・・・。でも、それからは、その様な経験をしない様、全てに心がけてはいますが・・・。

2013年9月12日木曜日

中学校の映画鑑賞会。 ところが、その日にハンドボールの練習試合!

7人制ハンドボールのゴール
中学校の3年生になってからでしたが、7人制のハンドボールを授業で教えて頂きました。それまでの11人制と違った点は、競技コートの広さが約半分になり、ゴールも約半分の大きさになりました。当然ゴールエリアラインも小さくなり、その外にフリースローライン、又、サッカーではペナルティーキックですが、ハンドボールではゴールの前7メートルの位置からのペナルティシュートが与えられるようになりました。最近の7人制のハンドボールは、体育館の中でやりますが、当時は屋外、土のグランドにラインを引いてゴールポストを置いてあるだけです。
 私達の学校にも新しいゴールポストが届けられましたが、便宜上、移動式の物で、数人で運んでコートの準備をしていました。体育の授業でも、2組のチームに分かれて練習試合も経験しました。ドリブル等については、11人制のハンドボールと同様でしたので、人数が少なくなった事、競技場の広さが狭くなった事等が変っただけで、プレイする上で、それ程、大きな改革とは感じてはいませんでした。でも、ゴールエリアライン間近からジャンピングシュートをしようとすると、ディフェンスの方の手が、首に掛かってきて、首を締め付けられる様なケースが多くなり、7メートルのラインから、ペナルティシュートをする機会が多くなった事は事実です。11人制の時は、コートも広く、ゴールエリアラインでジャンピングシュートを試みても、ディフェンスの人が近くに寄って来るのに時間が掛かりますので、首に手が掛かる事等はほとんど無かったのですが、コートが小さくなっただけに、ディフェンスの人の壁がすぐ出来上がり、その隙間を狙ってのジャンピングシュートですから、どうしても首に手が掛かってしまうのです。しかし、私はそのペナルティースローのシュートは大好きでした。7メーターの位置からゴールキーパーと一対一のプレイです。7メートルラインの手前に左足を置いて、倒れ込みながらのシュートです。倒れる寸前まで右手からボールを離さない為、ゴールキーパーはどうしようも有りません。で、ゴールキーパーの位置を確認して、コーナーを狙ってのシュート。得点が入れば、例え練習でも嬉しいものです。
 ところで。中学校では、年間3~4回の映画鑑賞が有りました。校内の売店で入場券を購入して、一般の映画館での映画鑑賞です。通常よりも早い時間、8時過ぎからの上映開始で10時過ぎには終わる様なパターンで、映画館の一般営業には差し支え無い様な特別映写会でした。確か、岡山駅前の歌舞伎座だったと思いますが、仲の良かった例の裕子さんも行きたい・・・との事で、同行する約束もしていたのです。映画のタイトルは忘れましたが、私も是非見たいと思いましたので、売店で入場券を購入、その日を楽しみにしていました。
 ところが、担任の体育教師から、映画観賞会のその日曜日に、他の中学校とハンドボールの練習試合が有るから、まあ頼まあ・・・、と言われたのです。映画に行きたいのに・・・、時間を尋ねたところ、午後1時の試合開始と聞いて、ヤレヤレでした。岡山駅からだと、市内電車で15分も有れば帰り着く事が出来ます。
 映画観賞会当日の朝、映画館に行くと担任の体育教師が、なんじゃあ、映画に来たんか!と、不満そうな表情でした。でも、それ以上は何も仰いませんでしたが・・・。

 映画が終わると、その足で一度帰宅、体操服に着替えて、自宅から5分位で学校に着きました。コートは、もう一人の体育教師の手配で、すっかり出来上がっておりましたので、数人でハンドボールを投げたり、ドリブルしたり・・・と、練習、ウォーミングアップ。試合開始のホイッスルが吹かれて試合開始。シュートの場面では、どうしても私にボールが渡されるので、相手側も、私の周りはディフェンスが一杯。その間からジャンピングシュートをやるものだから、毎回二人掛かりで左右から首に手を掛けられて、ほとんど毎回、7メートルスロー。又、そのほとんどをシュート完了していましたので、ゲームは一方的なゲーム結果となりました。
そのゲームが終わり、後片付けをやっていたところに、担任の体育教師が何処へ寄り道していたのか、映画館から戻って来て、ああ、試合に出とったんかー・・・だって。ホッとした顔をなさってました。
 当時、中学校にハンドボール部は存在していませんでしたので、全員が校内からの選抜でプレイしたのですが、でも、だいたい、いつもメンバーは決まってました。暗黙の了解ですかね。スポーツだと言えば、必ずお声が掛かっていました。でも、実は大失敗もやったことが有るのです。これだけは、今でも後悔していますが、ほんと、お恥ずかしい限りです・・・。近日中に白状します・・・。

2013年9月10日火曜日

鉄棒の演技、見事に失敗しました

記事とは関係の無い鉄棒演技の写真です
写真の鉄棒演技、手をクロスさせて、体を回転させるのでしょうね。鉄棒で回転、大車輪まで出来たら素晴らしいと思います。
 私も中学校のお昼休み、天気が良い日には、必ず鉄棒の周囲に陣取ってました。中学校には1基だけでしたが、大人用の鉄棒が砂場の横に設置されていました。毎日、毎日、鉄棒にぶら下がって、大車輪・・・とまでは無理でしたが、前回り、後ろ回り・・・と、続けている内に、巴も出来るようになりました。車輪までは、チョット怖くてトライ出来ませんでした。まず鉄棒にぶら下がって、身体を前後に振って、蹴上がりで上がってからは、前転、後転、巴・・・と、繰り返し、下に降りてからは鉄棒にぶら下がって、懸垂を何度も繰り返して・・・。
小学校の時には、グランド内を走り回っていたのですが、さすがに中学校では走り回ろうにも、仲間がいませんので、鉄棒の有る砂場の周囲が昼休みの憩いの場でした。
 ところで、最近は学校等で、監督とか指導者の方々の暴力が報道されていますが、私の知る限りでは、コーチなどは一度もお世話になった事は有りません。私の学校が、スポーツの強い学校で無かったからかも知れませんが、全て自分たちで自主的に練習していました。バレーボール部のキャプテンでしたので、ある日、学校近くのお宮、玉井宮という神社の階段まで走って行き、階段を上り下りするトレーニングをしようとしました。すると、部員の口から、「何でバレーボール部員が階段を走らにゃいけんのじゃー・・・」と、ブツブツと言う声が聞こえて来ました。私の指導力不足だったのでしょう。バレーボールは、ボールだけを打てれば良い、体力増強等を考慮する事は関係無い・・。敢えて、それ以上の説明はしませんでした。
 3年生の時、担任は体育の教師でした。今日は鉄棒の練習・・・とかで、小学生用の低い鉄棒の並んでいる場所に集合しました。そこで、鉄棒の上での、前転、後転の説明後、私を指名して、巴を皆に見せてくれ・・・と、巴の演技を指示なさったのです。普段の昼休みの時間に、鉄棒の上で私が巴を軽々と演じている姿をご覧になっていたのでしょう。私も、何の抵抗も無く、指示に従おうとしました。しかし、普段ぶら下がっている中学校の鉄棒は地上2.4メートル位の高さですが、当日の鉄棒の高さは1.2メートルと、低い高さの鉄棒。軽ーい気持ちで巴を演じようとして、見事に2回失敗しました。先生も私に気をつかったのでしょう 「ああ、もうええわ、ええわ・・・、急に言うたから、慌てたんじゃろう、普段はいつも調子ようやっとったから呼んだんじゃけど・・・」と。
 その時、何故、巴が出来なかったのか、私自身、凄く不思議でしたが、ホント、今頃になって、鉄棒の高さが違ったから、その感覚が狂ったのかも・・・と、考えているところです。
 最近のお子さんは、鉄棒の逆上がりを練習する時、足で走って、勢いを付けて鉄棒に足から上がろう・・・となさっていますよね。私の考えでは、まず足を上にして鉄棒にぶら下がって、それから腕に力を込めて、足と腰を上に持ち上げたら、すぐ出来るよ・・・と、言いたいのですが、未だ一度も言わせてもらった事は有りません。私は、その様に信じているのですが・・・。子供さん達、未だ、そこまでの筋肉はついて無いのですかね・・・。一度、機会を作って、孫に教えてみる事にします。叱られるかな?



2013年9月8日日曜日

朝礼の発表、メモを見るだけではなく、全体を・・・

岡山大学教育学部付属中学校の専用門付近・正門は別です
中学校2年生の運動会終了後から体育委員長を務めました。毎月開催のクラス対抗戦の組み合わせ発表、又、終了後はその結果発表で、毎週月曜日の始業前に開かれる朝礼の場での発表も少しずつ慣れ、大きな声で全体に聞こる様に声を出す事も可能になって来ました。
 最近であれば、全校集会等は体育館内で実施されていると思いますが、私達の時代には体育館も無く、いつも中庭で実施されていました。従って、雨の日には朝礼は中止、緊急連絡事項が有れば、校内放送を通じて実施していました。屋外での全校集会ですが、その姿は、まるで現代の運動会、開会式を思い浮かべて頂ければ、想像が付くと思います。1年生を中央にして、左右に2年生と3年生、各クラス男女別に縦に一列になって、正面には1メートル少々の高さの演台が置いて有りました。全校で約750名の生徒ですから、縦の1列が約30人位ですので、結構広い場所でした。しかし当時はマイク等の設備は有りません。発表は演壇の上で、声を張り上げての発表でした。私はいつも、発表内容を間違えない様、メモを手にしての発表でした。しかし、先生方は余程の事がない限り、メモも無く、顔で周囲を伺いながらの発言をなさっていました。
 そこで私も、メモ書きばかりを見るのでは無く、前にも顔を向けて、全体の様子を見ながらの発表をしよう…と、大きな夢を抱いたのです。3年生の6月頃でしたか、クラス対抗戦の結果発表。手には得点のメモ書きを持って、いつも通りに朝礼台に上がりました。いつもでしたら、顔はずっとメモ書きを見ているのですが、その日は違いました。メモを見て、優勝は1年生はA組、得点は〇〇点、と発表して、そこで一度顔を挙げて全体を見回した後に、2年生はD組・・・と、メモの内容を記憶しては前を向いて、顔を上げて発表したのです。無事、トチル事も無く、無事に発表を終えました。自分では凄く満足した気分でした。顔を上げて、みんなの顔を見ながらの発表が狙いでしたから、ホント、満足感に浸っていたのです。
 朝礼が終わって教室に戻ったところで、同じバレーボール部の女性が私に話しかけて来ました。
「今朝の朝礼で、裕子の方ばっかり見てたなあ、・・・ みんな言うとったよ・・・」と。私はキョトンとしました。別に、特定の方を眺めていたのではないのですが、生徒の側からは、普段とは違うスタイルに、何か特定の事を結び付けて考えた様でした。名前を上げられた裕子さんとは、1年生の同じくバレーボール部員の方です。ま、仲は良かったですよ。バレーボールの練習後は、自宅が同じ方向でしたので、学校を出る時は、ほとんど一緒でした。でも、当時の中学生は、現代とは違って、特別のお付き合いなど有り得ないのですけど、周囲の方は、そんな事を考えていたのか・・・と、驚いた事もありました。
 しかし、毎月3~4回は朝礼で発表していましたので、今から考えるとその経験は大きなものが有りました。人前での行動、発声等、何も恐れなくなった事です。高校3年の時でしたか、8ミリ映画の試写会に東京まで行った時、突然、司会者から紹介され、挨拶を求められましたが、無事完了しました。何の準備もしてなかった時に舞台に招かれたのには驚きましたよ。ヤレヤレでした。でも、ホント、良い経験を重ねました。

2013年9月5日木曜日

審判は判定結果を 手振りでハッキリと・・・

中学校入学後、友人の誘いもあってバレーボール部に入りました。兄達の大反対を押し切っての運動部入部でした。兄達は、スポーツにはそれ程興味が無かったのか、文化系のみで、体育系の部活動は家族の中では私が初めてでした。当時のバレーボールは現在とは違って、全て9人制、又、コートも体育館の中では有りません。屋外の土の上のコートでした。1セットの得点も21点先取でセットが決まり、1試合は3セットのゲームでした。サービスは2本制で、2本失敗すると相手の得点となっていました。
 校内のクラス対抗のゲームでは、当然バレーボール部員が審判を務めました。ラインズマンとか副審は一切無し。主審一人での審判です。私の場合、ホイッスルを吹くのも、弱いホイッスルを吹くのは嫌でしたので、力一杯にホイッスルを吹いていました。当時、学校で使用していたホイッスルは、写真左側の、現在も警官が使用している様な、ピリピリッと言う様な鳴り方のホイッスルでした。右側のピーというホイッスルは、小学校の女性の先生が使用していただけで、他は全てピリピリッのホイッスルでした。
 バレーボールの主審を務めると、ホイッスルとなった判定の原因を示す事が必要です。ドリブル、ホールディング、オーバーネット、アウト、セーフ・・・、等々、ホイッスルを吹くと同時に、その判定結果を両手で示した後に、得点側の手を挙げていたのです。グランドは土ですから、アタックとかサービスで微妙な判定が必要な場合には、ポールの定位置を離れて、ボールの落ちた場所を目で確認して、それを指さして選手達に説明した事もありました。
 1学年5クラスでしたから、リーグ戦で4試合、男女別ですので8試合、3学年で合計24試合を行っていました。コートは男女それぞれ2面有りましたので、バレーボール部員が交代で審判を努めて、コートの周りは応援のクラスメートで一杯になっていました。ところが、私が審判を努めている試合は、余りにも取り巻く応援(?)が多かったのです。後日、他の女子バレーボール部員から聞いた話ですが、私のレフリーの判定結果を知らせる動作が大きく、両手でやっていましたので、何か、踊っているみたい・・・とかで、評判になっていたそうです。でも、判定結果のその理由を明示してくれない審判では、見ていても面白くないですよね。最近見たテレビですが、女子バレーの国際大会で、全然ゼスチャーで表示しない女性のレフリーもいましたが、えっ、今の得点は何? と、いったシーンが、かなり多くみられました。
 ところで、1日に2試合程度ずつレフリーを努めると、その後は大変でした。学校に居る間などには気付きませんが、夜、入浴などの際、耳に中はキーンと、耳鳴りが激しく続いていたのです。
ああ、今日も耳鳴りが酷いなあ・・・で、辛抱していましたが、それが積み重なって、成長してきた現在、一年中、私の耳には秋の虫が鳴き続けています。私にはその様に聞こえるのです。つまり、耳鳴りが酷く、キーンと鳴り続けているのですが、まるで秋の虫達が鳴き続けている様な感覚です。最近、一番困るのは、電子式体温計、最近の体温計は計測が終わるとピーッと、音を出しますよね。あの音が聞き取れないのです。決して聴力が悪い訳ではないのですが、800Hz当たりの音が少し弱い様です。高校生の頃に耳鼻科にも行きましたが、どこでも治療方法は指導して頂けませんでした。今現在も、周囲は静かな夜ですが、耳の中では秋の虫達が、ミーンと泣き続けています。耳鳴りは残ってしまいましたが、しかし、今、その当時の事を思い出すと、ああ、あの頃は楽しかったなー・・・と、思い出しているところです。
 放課後に私を探す場合には、グランドに出れば必ずどこかに居る・・・というのが、後から聞いた先生方のお話しでした。

2013年8月22日木曜日

サウスポーのイチロー、何故バットの握りが反対??

平成25年8月22日、イチローが日米通算で4,000本の安打を打ちました。新聞・テレビでは大きく報道されています。
 同日の毎日新聞夕刊の誌面に『がんばろう神戸』の記念写真、撮影は中村琢磨さんとの添え書きで掲載された写真。イチローはサウスポーです。サウスポーでしたら、左手が、右手の上に無ければバットは振れません。実戦での写真では無いので、この様なポーズをなさったのでしょうか?
 どう考えても納得が出来ません。小さな子供が初めてバットを握ったみたいなこの写真、毎日新聞の見解をお伺いしたいものです。毎日新聞に電話をしようかとも考えましたが、午後7時を回っていますので、担当者が不在とかで、正確な返答は頂けないものと思われます。後日、確認してみたいと考えています。

2013年7月28日日曜日

Uコンの模型飛行機、昔の練兵場でした

(アンサイクロペディア フリー百科事典零細のイラスト)
今から何年前になりますか、私が小学生の頃、岡山市にも小さな飛行場が有りました。確か原尾島の練兵場・・・と、記憶しているのですが、今、地図で見ると、原尾島とは全く場所が違っています。地図の上で、私の記憶では、現在の津島の辺りです。今は陸上競技場を始めプール、ラグビー場等のスポーツ施設になっていますが、私の幼い頃は、草の生えた広い空き地でした。その真ん中辺りに、アスファルトでは無かったですね。小さな小石を敷いて踏み固めた様な1本の飛行場が有りました。滑走路らしきものは東西方向に延びた1本だけでした。時たま、そこにセスナクラスの単発機が着陸する事が有りましたが、飛行機が降りると、私達、近所の子供達は喜んでその姿を求めて集まったものでした。でも、一度だけですが、子供たちが集まって飛行機を遠巻きに集まると、乗っていらっしゃった方が、拳銃を手にして降りて来られた事が有りました。終戦後10年も経つか経たないかの頃でしたから、外国の方が、飛行機の不調か何かで降りて来られたのかもしれません。そこに、周囲を現地の子供たちに取り囲まれで、ビックリなさったのでは無いかと思います。勿論、子供達は、それ以上には近付きませんでしたので、拳銃の発砲は一度も有りませんでした。その内に警察の方ですか、車が近付いて、暫くすると再びセスナは飛び立って行きましたが・・・。
 その広ーい原っぱ、練兵場の跡地といえば、当時のマニア、エンジンの付いた模型飛行機を飛ばすには、持って来いの広場でした。その当時、ラジコンの飛行機等は未だ有りませんでした。イラストに有ります通り、飛行機には、細いワイヤーケーブルが2本、主翼の付近を経由して、水平尾翼のフラップっていうのですかね、飛行機の上下だけをコントロール出来るようになっていました。操縦する人は中央に立って、20mか30m位のワイヤーに付いた飛行機を飛ばしたのです。飛行機が真っ直ぐに飛んだのでは、操縦する人は飛行機に付いて、一緒に走らなければなりません。それは無理ですから、操縦する人は一か所に立って、その円周を飛ばすのです。従って操縦する人は、飛行機の回転に合わせてぐるぐると回転しながらの操縦でした。慣れた方々は、飛行機の飛ぶその円周状に、竹先に風船を付けてみたりして、上手く割る事ができるか・・・とか、していました。いまから考えれば、単純な遊びかもしれませんが、私達子供にとっては、珍しくもあり、又、羨ましくも思った物でした。飛行機は、操縦者を中心にグルグル回るだけですが、上手い人は宙返りをさせてみたりもしていました。当時の子供達に出来るのは、せいぜいゴム動力の紙飛行機ぐらいでしたから、見てるだけでも楽しかった思い出があります。しかし、そのUコンの飛行機も、昭和35~36年頃に見たのが最後でした。もう、その後は、どんどんとラジコンの技術が進歩して、ヘリコプターも操縦出来る時代になりました。
 今日、フト思い出して、インターネットで『Uコン』を検索してみたところ、沢山見つかりました。
個人オークションのみならず、多くの模型店の広告も表示されていました。でも、少なくとも、都会では出来ませんよね。小学校のグラウンド位の広さが有れば出来ますが、でも、街中で模型エンジンの音を立てていると、きっと苦情が来ますよね。
 私も、室内だけ、それも自宅内だけですが、電動式のヘリコプターを操縦していた事は有ります。でも、最近のローターが2枚付いた、お子様でも飛ばせられるのとは違いますよ。
1枚ローターの、ラジコンも本格的にプロポーシャナルコントロール式を使って、静かに室内を飛ばせていました。機体の長さが60cm位でしたか、子供さんのおもちゃには、チョット危険なヘリコプターでした。今、私は、本当はラジコンで良いから、トレーラー車の運転をしてみたいのです。
でも、ハンドル調整も細かく操作できるプロポでなければ面白くないし、かと言って、本格的なトレーラー車は、本体が大きくて2m以上も有りますので、室内で走らせるのはちょっと不可能に近いので、諦めています。全長30cm位でプロポ式のが有ったら、飛び付くのですけど・・・。

2013年7月20日土曜日

日曜・祝祭日は右折禁止!   しかし、取締・指導は一切ナシ

この交差点、大阪府高槻市、枚方大橋北詰交差点です。この写真は南向きに撮影していますが、前方に見えるのが枚方大橋です。この写真からも判りますが、枚方大橋を北向き、高槻市に向かって走って来た車両の為に、右折専用のレーンも設置されています。3列停車しています。 平日は、信号も青、黄・右折の矢印、黄、赤と、右折専用の矢印の表示される信号です。しかし、日曜・祝祭日にはこの交差点、右折用のレーンも有りますが、右折は禁止されています。(確か、早朝・深夜は右折OKです)    交差点の標識も固定式の物ではなく、切り替え式の表示で直進か左折のみのマークに変更表示されています。しかし、この交差点、右折禁止の曜日、時間帯であっても、堂々と右折をする車が続いているのです。枚方大橋側の右折レーンには、『日祝 ✕』との道路標示は有りますが、そんなのはお構い無しです。私も日曜日にこの交差点を走った時に、赤信号を待っていた右折禁止車両が飛び出して来て、ビックリした事も有りました。その時です、私は運転中でしたが、枚方大橋を南進中に携帯電話で警察に緊急電話、110番に連絡したのです。110番の通信指令室の担当者は、何故、この交差点が日曜・祝祭日に右折禁止になるのか全く知らない状態でしたが、『すぐ向かわせます!!』と、最もなご返事を頂きました。枚方市で用事を終えて、電話から約30分後に枚方大橋を高槻側に渡りました。その時、この交差点の東側、右折禁止の車両が曲がる先の堤防上にバイクで来た警官の姿、1人だけでしたが姿が有りました。ドライバーの皆さん、良く分かっていらっしゃる様で、右折する車は全然有りません。当然ながら、橋の上からは、右折するその先、堤防上ですから、警官の姿は良く見えるのです。
 その時、私は一端交差点を通り過ごして、その先の道を左に折れて、Uターンして、もう一度、枚方大橋北詰交差点を北から来て、左折してみました。最初に警察官を見た時から15分も経過はしていません。しかし、その時には既に警官の姿、乗って来ていたバイクの姿も有りませんでした。110番通報を受けて、指令によって交差点には来たものの、違反車両が1台も無い事から、早々と撤退なさった様でした。この『110番通報』は、1度や2度では有りません。しかし、結果はいつも同じです。
 ある時、高槻保健所の南側の団地内で、白バイを止めて、書類を記入している警察官に訪ねた事が有りました。祝祭日、右折禁止の枚方大橋北詰交差点、北行きの右折禁止は指導も検挙も、何故しないのですか?と。すると、白バイの警官曰く 「警察も忙しくて、手が回らないのですよ・・・」
検挙も指導もしないのでしたら、あの交差点、右折禁止を除外したらどうですか?  日曜・祭日の右折禁止の目的は何ですか? と尋ねると、「あ、それは私には判りません・・・」。
取締りが、如何になされていないのかは、右折禁止の日に、交差点の真ん中辺りまで入って右折しようとしている車両、その横を白バイが平然と通過するのですから、如何に違反を放置しているか良く分かると思います。
 違反の状況を自分で撮影してYouTubeに投稿しようと考えましたが、自宅から少し遠過ぎるのと、暑い日が続いているので、未だ撮影できていません。それよりも、報道関係に連絡すれば、取り上げて撮影して頂けると考え、毎日放送テレビの『VOICE』の『憤懣本舗』に取材して欲しい・・・と、今年の6月4日夕方にメールを入れましたが、未だ、全然返信も何も有りません。
 この暑い夏を過ぎて、毎日がもう少し涼しくなったら、仕方無いので自分で撮影に出掛けます。今年の様な、これ程迄の異常気象で無ければ、又、もう少し私が元気であれば、すぐにも行けるのですけど・・・。暫くお待ち下さい。この秋には必ず撮影します。又、もしこのブログをお読みになった方で、有志の方がいらっしゃいましたら、どうぞ、一日も早く撮影、アップロードして下さって結構です。
 

2013年7月16日火曜日

服用する薬にご注意、薬が原因で障害者に!!

先日修理した電気ケトル、その後は何のトラブルも無く、元気に稼働してくれています。機械は不具合な部品等を交換すれば、すっかり新品同様に復元できます。
 しかし、人間の身体は、一度不調になると元通りには戻せないのです。先日ここでお話ししました、私の大腿骨董壊死の件です。MRIで、大腿骨の先端のボール部分が壊死状態と解りました。大阪医大で手術を受ける前に、それまでの経過を、整形外科医に詳しくお話ししました。何十年も同じ整形外科医院に通っていて、そこの先生の指示通りに薬を服用していた事。その薬を、手術担当の先生にお見せしたところ、その薬の中から、原因は、この薬!!と、一つの薬を示されました。ステロイドでした。私が長年通っていた整形外科医院では、最近でも全て院内処方を実施しています。院内処方ですから、薬についての説明は、先生から伺うだけです。最近の様に院外処方でしたら、処方されたそれぞれの薬の効能と共に、注意点等も文章で示されています。しかし、院内処方でしたので、包装を解いて、1回分ずつにパッキングされた状態で受領していましたので、私は馬鹿正直にその薬を何十年も服用していたのです。手術担当の整形外科の先生は、もし必要でしたら、私が証言しても良いですよ、と迄、仰って下さいました。この薬が大腿骨董壊死の原因に間違い無い!と、断言して下さいました。しかし、私が長年お世話になっていた整形外科医院の先生は、私の身内の紹介で行った医院でしたので、いえ、私には裁判沙汰は、チョット出来ません。ありがとうございます。と、手術担当の先生にお礼を言いました。
 ステロイド系の薬は数多く有りますので、ステロイド系の薬が全て駄目、では有りません。たまたま、私には駄目だったのです。
 平成14年12月24日に手術を受けて、今年で11年経ちました。今日、一年振りにその定期健診を受けました。レントゲン写真を前に、先生に尋ねました。手術の時は、電動のこぎりで大腿骨を切断したのですか?  大腿骨に打ち込む時は、ハンマーで叩いて打ち込んだのですか?
そうや、ハンマーの音は廊下までも響いとったと思うよ・・・。私は思わず呟きました。全身麻酔で良かった・・・と。
 薬の事を書いたので、もう1件、やはり私の経験ですが、鎮痛解熱剤として『ロキソニン』という薬が有ります。これも医院からの処方で、私はいつも鎮痛解熱剤として使用していました。これは、毎日の服用では有りませんでしたが、腰が痛い時等は何の抵抗も無く、毎日服用もしていました。実に良く効く薬です。体温が38℃以上あっても、服用後30分もすれば平熱に治まるのです。しかし、この薬が原因で、腎臓を痛めました。早くそれに気付けば良かったのですが、腎臓の生体検査を実施、IGA腎症で免疫抑制剤等で治療を続けましたが、好転は無く、現在では週3回の血液透析のお世話になっております。
 私の場合だけかもしれませんが、ステロイド系の薬、ロキソニンでは、取り返しの付かない状態に陥っております。健康な皆さんは、いろいろの先生から処方された薬を服用する前に、ご自分に適合しているかどうか、良く、先生に確認して服用なさって下さい。私は薬剤師でも無いし、まして医師でも有りません。自分が服用して失敗したお話ですので、何か、必要な時には、何かの参考になさって下さい。私は大腿骨董壊死で障害者4級、腎不全の血液透析で障害者1級になりました。
 最近は、価格の安いジェネリック医薬品が出回っていますが、新聞報道によれば、充分な検査もしないままで発売されているジェネリック医薬品があると聞きました。今までは、全てジェネリックで通していましたが、今後は、主治医にお願いして、ジェネリック品は拒否する事にしました。

2013年7月13日土曜日

クロネコのメール便、4日目にやっと届きました

7月9日に電気ケトルの修理についてブログに記録しました。温度ヒューズをインターネットで探して、すぐその日に発注。翌日10日、購入先から発送しました…と、メールが入りました。私が購入したのは、埼玉県草加市のお店からの購入です。小さな部品ですが、2個で500円。慌てて探しましたので、最初に見付けたお店に即発注しました。運賃はメール便で80円、合計580円でしたので、飛び付いてのオーダーでした。
 でも、その後、色々と検索したところ、同一の部品が284円で販売されているのも発見しました。あっ、えらい損したな…と、思いましたが、送料は宅急便で360円とか。送料を考慮すれば、埼玉県のお店も決して高くはありません。ヤレヤレでした。ところが、発送は郵便局の郵便ではなくて、クロネコヤマトのメール便。郵便物でしたら、埼玉県からでしたら、翌日には届きます。しかし、送料は同じ80円でも、クロネコヤマトのメール便は届きませんでした。発送日の10日には確かに埼玉県で受付しました…との表示はありましたが、その後は宅配便と違って、荷物がどこまで届いているのか、全然追跡表示は出来ません。今日は来るか、今日は来るか・・・と、首を長くして待ちました。10日の発送日を入れて4日目、13日の朝、やっと大阪で受け付けたとのネットでの表示、本日配達予定・・・との事で、朝から待ちました。しかし、届いたのは午後4時前でした。小さな封筒に入っていましたので、郵便局でも定型の郵便、送料は全く同じですが、届く迄の日数は少なくとも2日は違いました。これからの発注時には、指定できる場合には、宅配便のメール扱いよりも、郵便でお願いしようと考えた次第です。
 さて、温度ヒューズが届きましたので、早速修理に掛かりました。修理は簡単でした。今まで付いていた、断線した温度ヒューズは圧着端子で止められていましたので、同じく圧着端子で接続、修理はそれだけです。後はバラバラにしたパーツ類を組み立てるだけ。プラスのドライバーだけで、最初から30分も掛かりませんでした。早速、内部を水洗いしてから水を注ぎ、スイッチを入れると、いつものランプがグリップの上部に点灯。しかし、これだけでは未だ目は離せません。5分位ですか、沸騰する音がしばらく聞こえた後に、パチンと、聞き慣れたスイッチの切れる音、お湯が沸いた音です。それで、電源が切れましたので、これで、OKです。2,000円もしない電気ケトルですが、合計380円で修理は完了しました。もし、次回又切れた場合には、温度ヒューズが予備としてもう1本有りますので、大丈夫…。到着までに日数が掛かったのが応えましたが、でも、これで無事一件落着・・・、となった次第です。ヤレヤレでした。

2013年7月9日火曜日

電気ケトル が 断線??

毎日毎日、35℃、36℃、37℃と、信じられない様な梅雨明け後の日本。例年では、エアコンは使用しても、午後2時以降から夕方まで・・・程度でした。しかし、今年の夏は夜の気温でさえ25℃以上、夜明けの5時頃の気温でさえも26度とか。電気料金の値上げが実行されている現在、消費電力を極力制限したいにも拘らず、毎日毎日、朝のテレビでも、熱中症には充分ご注意下さい。今日も、暫くは耐えて来ましたが、しかし、午前11時に31℃を超えた時、遂に耐え切れずにエアコンのスイッチを入れた次第です。昨日の夕方位から、気温の為かどうかは解りませんが、少し頭痛が出ていたので、用心の為もスイッチオン。電気代は掛かるでしょうが、これも生き延びる為には止むを得ないかな…と。
 昼食に備えてお湯を沸かそうと、テーブルの電気ケトルにスイッチを入れました。超小型のケトルですので一度に0.8リットルしか入りません。そこで、湧いたお湯を急須に注ぎ、もう一度、電気ケトルを水で一杯にして、再度スイッチオン。暫くすると、未だスイッチを入れて1分も経たないのに、自動的にスイッチが切れたのです。エッ? 何? と、スイッチをもう一度入れ直しましたが、スイッチは入れられるのですが、電源ランプは点灯しません。アレッ? 故障かな?・・・。
テスターを出して来て、点検の開始です。ポットをセットする台座には間違い無く100Vの電気は届いていました。従って、故障は、上部、電気ケトルの本体内と断定出来ました。念の為、ケトルの底、100Vの電源を接続する部分、その両端子間の抵抗を測ったところ、テスターの表示は「1」の表示です。テスターの表示、抵抗値を計測して「1」の表示の場合には、その端子間は電気が流れていない、つまり、断線している・・・と、いう事です。
 2,000円もしない電気ケトルですが、購入したのは昨年の11月、毎日、毎日、良く働いてくれました。ここで廃棄したのでは、余りにも申し訳ないので、原因調査を開始しました。道具はプラスのドライバーとマイナスのドライバー。プラスのドライバーはビスか、木ネジを回す為、マイナスのドライバーは、本体がプラスティック製の為、いろいろの個所でパチンと、かみ合わせで止めている部分が多いと思ったからです。ヒーター本体の断線の場合には、修理は不能ですから、その場合には買い替えも考えますが、スイッチ付近の故障でしたら、修理は可能・・・と、考えての作業開始でした。まず、最初は、外から見えるビス、木ネジの取り外し。底面に3本のビス。取り外しましたが、分解できる兆候は一切無し。ケトルの蓋を開いて、その蝶番部分、どうもプラスティックの突起で止まっているだけ。マイナスドライバーを慎重に当てて、蓋の取り外し。蓋を取り外すとグリップの一番上に木ネジが2本見えました。それを外して、それからは、マイナスドライバーの出番です。グリップの外カバーがスパッと外れました。それと同時に、底部分の周囲のカバーが外れ、中の部品はすっかりその姿を現したのです。後はテスターを要所、要所に当てて、何処が悪いのか部品のチェック。ヒーターの通電はOK。本体のヒーターは切断では有りませんでした。
 スイッチの通電、ON, OFFは可能か・・・?  これもOK。残る部品は1個、絶縁カバーに包まれたコンデンサーの様な形の部品、これが全然通電無し。断線の原因はこの部品と判明しました。しかし、ヒーターと直列に、コンデンサー等が入る事は、雑音防止でも有るまいし、考えられません。部品の周囲を見ると、169℃の表示が有り、これは温度ヒューズと判明しました。そこで、温度ヒューズの価格を通販で調べたところ、2本入りで500円。早速、通販で発注しました。ここからわざわざ日本橋まで電車地下鉄で出掛けると、往復960円掛かります。部品は、本当は1本有ればよいのですが、販売元も1本の郵送では、割が合わないのでしょうから、仕方ありません。部品到着まで、3~4日は掛かるでしょう。それ迄は、バラバラにしたケトルは、そのままの状態で留めネジだけは、それそれの位置に軽く止めて、組み立てはしないで袋に入れて保存しておきます。
部品が届いた時に、断線した温度ヒューズを、新しい温度ヒューズに取替えて、半田付けすれば、修理は完了します。ヤレヤレ、これで新しいケトルを買わなくても済みました。

2013年7月6日土曜日

MRI検査の結果 "治療方法は、手術しか無い!!"

私が初めての就職、未だ若かったです。23才の時、最初に与えられた仕事は、手書きの設計図を清書する仕事、トレーシングでした。手書きの設計図を下に置いて、その上に幅約1メートルのトレーシングペーパー。トレーシングペーパーの裏はツルツル、何も書けませんが、表はザラザラになっている樹脂製の用紙です。そこに、烏口、丸ペン等を使用しての清書です。最近ではコンビューターによるCADも有りますので、もしかすると、このトレースという業務は、もう存在しないのかもしれませんが、この当時は、国産のコンピューターなどは未だ発売されていない時代でしたので、図面の清書は手書きしか方法は有りませんでした。ボードを斜めにセットして、身体に無理な姿勢をしなくても良い様になっていますが、当時、その様な台は有りません。普通の事務用机を並べた上に、原稿とトレーシングペーパーを置いての写し書きでした。最初に取り組んだのは大阪府の伊丹空港付近から堺市まで走らせる予定の中央環状道路の図面でした。畑、建造物、斜面の記号、寸法の数字等、手書きの物、全ての青書でした。毎日毎日、前かがみになっての作業、時々、腰を延ばしてはポンポンと腰を叩いたり、腰を後ろに曲げたり・・・、腰の受ける負担は非常に大きいと感じてはいました。しかし、1か月を経た頃に、余りにも腰が痛いので、整形外科を受診したところ、「腰椎変形腰痛症」との事でした。早速、コルセットを作って頂き、その場は切り抜けました。それからの人生は、腰痛との戦いでした。症状の治まっている時は何も影響は無いのですが、毎年、2回から3回、ギックリ腰で、その都度コルセットを着用して凌いできました。大阪、中の島の整形外科医院に何十年もお世話になっていました。いつも院内処方で、帰宅する時には薬を沢山頂きましたが、それらは真面目に指示通りに服用を続けていたのです。腰の痛みのひどい時、月に1回程度は、腰椎に麻酔薬を打って頂いて楽になっていたのです。
 平成1410月でした。いつも通りに麻酔を打って頂いて、ベッドで約1時間休息、医院を出て会社に戻ろうと歩きだして約100メートル、そこで突然、今迄感じた事の無い足、腰の痛みで歩く事が困難になりました。医院に引き返そうにも、ビルの中、エレベーターに乗る事にも抵抗が有ったので、通りすがりのタクシーを止めて、兎に角、会社まで辿り着きました。会社内でも暫く休んで、どうにか帰宅しました。その帰宅時、どの様にして帰宅したのか、いま思い出そうとしても、全然記憶が有りません。兎に角、足、腰の痛みで、自力での歩行が出来ないのです。暫くは会社を休んで、治療に専念したかったのですが、都合の悪い事に、もうすぐ税務署の立ち入り調査が有るという事が、税務署から連絡が入っていたので、総務部長として、私が休むという事は絶対に不可能でした。翌日、会社への出勤は、歩行用に1本杖を購入はしたものの、僅かな歩行がやっとでしたので、電車通勤は諦めて、マイカーで出勤しました。当時はオートマでは無くて、ミッション形式のワゴン車に乗っていましたが、運転に影響は何も有りませんでした。しかし、痛みは日毎に増して来て、最後には、松葉杖での歩行を余儀なくされました。
 無事、税務署の調査を完了した翌日、会社の近くの大きな病院を訪ねました。整形外科の診察室に入ると、松葉杖姿の私を見て、先生は 「そんなに酷くなったのを、この俺に直せと言うのか??!!!」と、大声を出されました。午後から早速MRI検査、その結果を伺いに診察室に入ると 「えーかっ! 診断結果、病名を言うぞ!・・・  大腿骨董壊死 !! 手術しか治らん!」
簡単に治療できる物と考えて、会社の近くの病院に行ったのですが、入院手術となれば、自宅の近くが必要と話すと、高槻の大阪医科大学に行くよう勧められ、翌日は、その病院に行っての診察。患者が多く手術の予定は中々取れませんでしたが、1224日と決まりました。大腿骨の先端、ボール状になっている部分が壊死の状態なので、それを切断、セラミック製の人工骨を大腿骨に接続、治療が遅れた事から、骨盤側の関節も傷んでいるとの事で、骨盤側も樹脂の関節に取り替え。5時間の予定が7時間の大手術でした。全身麻酔でしたから、私は何も知りませんが、電動ノコギリ、ハンマー等を使った、大変な手術だったろうと思います。3ヵ日からは車椅子。1ヵ月で退院、松葉杖での電車通勤。勿論、リハビリも通いました。4月からは、自転車で市民プールに通って、水中歩行の自主トレーニング。その年の12月からは、職場に復帰しました。手術直後は脱臼を心配しましたが、それも無く、歩行も普通通り、このレントゲン写真以外では、人工関節とは誰も解りません。手術から11年経過しましたが、歩行等、行動に問題は全然ありません。
 本当は、この大腿骨董壊死の原因、その事について書きたかったのですが、余りにも永くなったので、次回、原因となった薬について詳しく書きたいと思います。

2013年7月2日火曜日

突然、一部のch、テレビが受信不能に!!

昨日、月曜日の昼過ぎの事ですが、テレビの7chと8chが受信出来なくなりました。衛星放送は何等問題無し。地上デジタルの一部が受信不能です。我が家の場合、BSパラボラとUHFアンテナを合流の上、1階と2階に分岐して、各部屋に配線しています。又、パソコンのチューナーにも接続していますが、パソコンのチューナーは、全チャンネルが受信不能となっていました。テレビのチューナーはパソコンのチューナーと比較しますと、非常に弱い電波でも受信できるようになっているので、今回のトラブルは受信電波の強度ダウンだと推察できました。すぐにテレビアンテナケーブルの状態の点検を実施。BS放送は問題が無いので、UHFのケーブル、接続等を点検しましたが、どこも問題無し。ところが、いろいろチェックしている時に、ホンの極く一時ですが、パラパラと、正常に受信できる時が有った事から、兎に角、接続部分を何度も何度も点検しました。しかしそれ以上の進行は無く、半分諦めて、夕食を終えました。
 地上デジタル放送のチャンネルは、あくまでテレビ受信機の受信番号の事で、実際の送信周波数は、地方によって様々です。ここ近畿地方、大阪では送信周波数は13chから18chの間、NHKの総合だけが少し周波数の高い24chで放送されています。テレビの7chと8chが受信出来ないのは実際には17chと18chの放送でした。
 一度は本日の作業はここまで・・・と、諦めたけど、それからもあれやこれやと頭をめぐり、とても寝付けません。そこで、もう一度、道具を出して再度点検。手許に電界強度計があれば、簡単なのですが、その様な物はアマチュア無線の関係以外では持っていませんので、一つ一つの点検するしか方法が有りません。接続に問題を見付けられなかったので、次に分配によるゲインロスをカバーする為にブースターをも入れているのですが、それを外して、ダイレクトに接続してみました。すると、今迄の受信不能が嘘みたいに、ピタッと受信できるようになりました。このブースター(写真)は、UHFの信号は何もしないで通過(実際には-3dB)、BS放送はゲインをアップする筈なのですが、原因は解りませんが、何かの影響(故障だと思いますが)で、UHF波が大幅にロスしていたと思われます。一時は、1階に下ろすケーブルの断線かと思い、4C-FBのケーブルを、途中で切断してのテストも行いましたが、問題が把握出来たので、今度はそのケーブルをもう一度接続しなくてはなりません。4C用のコネクターは何個も所持していましたが、F型中継接栓が手許には有りませんでした。アンテナケーブルを切断したままでは放置出来ませんので、道具箱をいろいろ探して、兎に角、同軸ケーブルを接続できるパーツ、壁面埋め込み型の接栓等を利用して、どうにか接続、雨等の影響の無い様、ビニールテープを巻いて、急場しのぎは一応完了しました。
 受信側のテレビは何も問題はありませんが、パソコンの受信機は、受信出来ません・・・と、一度記憶のchを全て消去してしまいましたので、それから改めてch設定。予定番組等を受信して、作業は一応完了しました。
 今日、お昼前に近くのホームセンターへ出掛けて、F型中継接栓を購入して来ました。昨日、無理矢理、接続したケーブルを、F型コネクター2個と、中継接栓を用いて完全な接続を実行しました。久し振りに作業したので、随分疲れたーーー。ヤレヤレ、お疲れ様でした。


2013年6月30日日曜日

模型飛行機 ライトプレーン



小学校5年と6年では、クラブ活動として模型クラブに入っていました。最初に作ったのはゴム動力のプロペラの付いた紙飛行機でした。1cmの角材を胴体にして、竹籤で作った翼に紙を貼って飛行機の完成。胴体の先端に付けた大きな木製のプロペラを人差指でクルクルと回して、ゴムを巻いて、それを空に飛ばしていました。胴体の長さでいろいろのサイズの飛行機が有りましたが、最初は40cm位からのスタートでしたが、段々と欲が出て来て、1m位の大型の飛行機も作りました。年に一度でしたが、校内で模型飛行機の大会も開催され、その時はクラブで作ったものとは別に、1.5m位の大型のグイダーを見本演技として、飛ばした事もありました。最近ゴム動力の紙飛行機は、見た事が有りませんが、現在ではもう販売されてないのですかね。最近は模型屋さんにもご無沙汰ですので、解りませんが・・・。今朝、インターネットで検索してみましたが、ほとんど販売されてないみたいでした。次に6年生になって始めたのは電動の鉄道模型でした。鉄道模型といっても、現代の物とは違います。当時の鉄道模型はレール幅が32mm<それも2線式のレールでは無く、中央にもう1本レールの付いた3線式のレールでした。左右の車輪が両輪共、車軸と繋がっていて、それが絶縁されていないので、車輪だけからでは+-の電気を受ける事が出来ないのです。そこでもう1本、中央にレールを設けて、又、車両側ではレールシューという部品を取り付けて、中央のレールと接触、それで電気を受けて走る方式でした。車輪も2個だけの方式の組み立てキットの電車でした。電車のボディも勿論附属はしてありましたが、真鍮製ですか、塗装などは勿論有りません。でも、クラブの全員が喜んで、制作に夢中になって取り組みました。モーターを下向きに付けて車軸のギャと直角に取り付けて、車輪を直接回す方式でした。組み立てが完了するまでは、自宅に持ち帰る事は許可されませんでしたので、一日も早く完成させようと、毎週、一生懸命に取り組みました。学校のレールで試運転をして、全員がやっと自宅に持ち帰る事を許可されました。自宅に持ち帰っても、自宅で走らせる事は出来ません。自宅にはレールも無かったのです。当時、子供達にその様な小遣いは与えられていませんでしたから、なかなか購入する事も出来ず、苦心した物でした。レールは、円形に繋がる1周出来る様にワンセットを買えば良いのですが、なかなか高価でしたので、私は1mの直線レールを2本買って、それを板の上に貼り付けて一応レールは、2mの長さですが、出来上がりました。レールに電気を流すには、変圧器が必要でした。そのスライダックス式のコントローラーが、又高価だったので・・・、公務員の父親に頼み込んで、そのスライダックス式のコントローラーを買って頂き、2mのレールを往復させる事が出来ました。最近の鉄道模型、HOゲージか、更に小型のNゲージになっていますが、直流電気を使用しています。家庭用の電気は100Vの交流ですから、それを直流に変換する整流器も必要になります。当時は電源は100Vの家庭電気、電圧を下げただけの、交流電源で走らせていました。ですから、コントローラーの操作だけでは、前進、後進の切り替えが出来なかったのです。確か、車体の横に、前進と後進を切り替えるスイッチが付いていたと思います。私は自宅の2mの線路の両端に、そのスイッチを自動的に切り替える装置を自作して、前後進の連続運転を出来る様にしていました。最近のNゲージはレール幅が確か9mmだったかと思いますが、それで有ればテーブルの上で走らせるような円形レールも、比較的簡単ですが、当時のOゲージのレイアウトを自宅に設置するなんて、特別の方しか出来ませんでした。それから考えると、最近は何でも、良くなりましたね。大人になってからですが、HOゲージのレイアウトを自宅で作りかけたました。ベニヤ板3枚、畳3枚分の大きさで、作りかけましたが、部屋が狭いので、やはり途中で諦めました。HOゲージの蒸気機関車も買っていたのですけど・・・。高校生の頃に、東京の交通博物館で見た大きなレイアウト、見るだけでも大変な感激でした。今でしたら、ホント、小さいけれど、レイアウトも組めますよね。ボヤキの連続ですが、兎に角、これが私の模型作りのスタートラインでした。

2013年6月22日土曜日

台風一過

台風の接近で久し振りに雨が降りました。ここ暫くは真夏以上に熱い日々が続いていましたが、久し振りの雨に草木もホッとした事と思います。本当に長い間、晴天、それも炎天の日々が続きましたので、毎日、朝晩の庭への散水が手を抜けず、大変でした。この季節、庭に出ると、草木の間からヤブ蚊が喜んで飛んで来ます。ホースを持つ手も、じっとしていたのでは、蚊に吸いつかれますので、反対の手で手の表面を払いながら、夏の散水はホント、ヤブ蚊対策で大変です。北海道のメル友からネットの付いた帽子を送って頂いた事も有りましたが、近所の手前、そこまでは出来ませんでした。蜜蜂を扱う時などに使う、あのネットの付いた帽子です。庭に水撒きをする時に、あのネットはチョット大袈裟で今も大切にしまってあります。台風が熱帯低気圧になった途端、ここ大阪地方では雨も上がり、風もすっかり治まった感じです。風はそれ程ひどくは無かったのですが、雨は凄く降りました。昨日の夜は大変な雨音で、二階のベランダの屋根、塩ビの屋根に降る雨の音の大きいのには驚きました。テレビの音が聞こえない位でした。今朝庭に出て見ると、庭に置いていたポリバケツ、雨が溜まって、一杯になっていました。ここでも総雨量は300mm以上は降ったという事です。和歌山の方では大雨の影響で、山が崩れたり、線路脇の木が倒れて列車が不通になったりと大変だった様ですが、こちらは雨がひどかっただけで、被害は特には無かった様です。
台風の接近で久し振りに雨が降りました。ここ暫くは真夏以上に熱い日々が続いていましたが、久し振りの雨に草木もホッとした事と思います。本当に長い間、晴天、それも炎天の日々が続きましたので、毎日、朝晩の庭への散水が手を抜けず、大変でした。この季節、庭に出ると、草木の間からヤブ蚊が喜んで飛んで来ます。ホースを持つ手も、じっとしていたのでは、蚊に吸いつかれますので、反対の手で手の表面を払いながら、夏の散水はホント、ヤブ蚊対策で大変です。北海道のメル友からネットの付いた帽子を送って頂いた事も有りましたが、近所の手前、そこまでは出来ませんでした。蜜蜂を扱う時などに使う、あのネットの付いた帽子です。庭に水撒きをする時に、あのネットはチョット大袈裟で今も大切にしまってあります。台風が熱帯低気圧になった途端、ここ大阪地方では雨も上がり、風もすっかり治まった感じです。風はそれ程ひどくは無かったのですが、雨は凄く降りました。昨日の夜は大変な雨音で、二階のベランダの屋根、塩ビの屋根に降る雨の音の大きいのには驚きました。テレビの音が聞こえない位でした。今朝庭に出て見ると、庭に置いていたポリバケツ、雨が溜まって、一杯になっていました。ここでも総雨量は300mm以上は降ったという事です。和歌山の方では大雨の影響で、山が崩れたり、線路脇の木が倒れて列車が不通になったりと大変だった様ですが、こちらは雨がひどかっただけで、被害は特には無かった様です。
過去には、我が家も浸水の経験はあるのです。あれは何年前でしたか、大分に転勤で行っていた時でした。夜、リビンクでテレビを見ていて、ふと気が付くと、ナント、庭に置いてあるプランター、空ではありません、中に土を入れて草花を植えてあるプランターが、移動しているのです。一瞬、目を疑いました。ひとりでプランターが移動するなんて考えられません。驚いて外を見ると、ナント、庭はすっかり水で覆われていたのです。その日は、大雨が降っていた訳でもないのです。慌てて玄関に行くと、玄関の靴もプカリブカリ。玄関の外へ出て見ると、庭は勿論、ガレージの車もホイールの真ん中辺りまで水に浸かっていました。大分に転勤してから新築した家でしたので、周囲の道路からは少しだけ高くなる様に土を入れていました。それで我が家は床下浸水で済みましたが、お隣は床上浸水だったと、その後伺いました。床下でしたから未だ良かったのですが、あれが床上まで浸水していたらと思うと、ホント、ゾッとしたものです。後から聞いた話では、付近を流れる川の水門調節を誤って浸水したとの事でした。大分では海に近い泉町に住んでいました。後日、市役所の方が被害調査にみえましたが、新築の際に、基礎の周りにも全てコンクリートを打っていましたので、特に被害としては有りませんでした。床上だけは勘弁してほしいです。現在の自宅でも、パソコン、カメラ等すべて一階に置いていますので、もし万一床上浸水だったら、泣くに泣けない、そんな気持ちになるでしょう。最後になりましたが、今回の台風でもし被害にあわれた方がいらっしゃいましたら、お見舞い申し上げます。

2013年6月18日火曜日

土日はブライダルのビデオカメラマン

何年前になりますか…、この写真にあります業務用のビデオカメラ、Sonyの DXC-M3Aを使用していました。現在ではCCDか、或いはCMOSの撮像素子のカメラになっていますが、この当時は真空管を使用していたのです。撮像用の真空管が三色用として3本、当時はそれを三管式と言っていました。電源はポータブルでしたら後部にバッテリーボックスが取り付け可能で、当時はまだニッカドのバッテリーでしたが、2本をセットする事が出来ました。この時代には、未だカメラにビデオはセットされていません。これはカメラ機能のみしか有りません。従って、動画記録をする為には、このカメラを別のビデオデッキにケーブル接続しないでは、記録する事は不可能です。移動しながらの撮影であれば、携帯用のビデオデッキを左の肩にかけて、カメラは右の肩の上、一人での移動撮影は今から思えば重労働でした。
ホテル等の結構式場からビデオ撮影の注文が入ったものを、私たち委託カメラマンが頂いて、撮影に向かいました。会場には、開始予定時刻の2時間前までには到着する事…と決められていましたので、土日の就業日は、朝早くからの出勤でした。出発前日までに、当日使用するビデオテープの頭部分にタイトル、『〇〇家 〇〇家 ご結婚式・ご披露宴』というタイトルだけを入れて会場に向かいました。会場に付くと、まずはカメラに電源を入れて、真空管を充分温める事から始めます。それから、タイトルに続いて表示されるよう、建物、会場の外観等を撮影、それで、テープの準備は出来ました。撮影会場に入ると、大型のビデオデッキ、私はビクターのVHSデッキ、BR-8600を使用していましたが、そのデッキとカメラをケーブルで接続しなくてはなりません。デッキは大型ですから、会場内を移動する事は不可能です。最近のテレビ局の移動撮影はカメラ、音声、照明、それとディレクターの方々が一緒に行動なさっていますが、ブライダルビデオは、撮影に関してはすべてを一人でカバーしなくてはなりません。私は移動用に30メートルのカメラケーブルを使用していました。長いケーブルを引っ張っての移動ですが、そのケーブルが、皆様の邪魔になる事の無い様に、細心の注意を払っての移動撮影でした。ケーブルは、一般のロープとは違いますので、ケーブルをまとめる時も、ロープをまとめる様にクルクルっとは出来ません。会場内にスペースがあれば、ケーブルを8の字風に巻いてスタンバイ。ケーブルを一方から引っ張ると、ねじれの無い状態で伸びて行く、その様な巻き方? 置き方を習得して、三脚に付けた照明付きのカメラで会場内を自由に移動しての撮影でした。結婚式が約30分、それから披露宴は会場等にもよりますが、おおよそ2時間半くらい。その間、途中での休憩などは一切有りません。常にカメラ操作です。しかし、本当はカメラの操作だけではありません。絶対に失敗は許されませんので、ビデオデッキは2台使用していました。カメラのスタート、ストップに従う物と、もう1台はストップ無し、つまり記録を常時継続しておくのです。こうしておけば、もし万一、カメラのスタート、ストップで撮影出来なかった場面があっても、最悪、修正が可能ですので、その様な方式で撮影を続けました。また、デッキの横には6インチのモニターも置いていました。現場での撮影が終わると、最後にエンドタイトルを入れ、また、お色直しで皆さんが会食のシーンには、BGMを入れて、それで納品用のビデオが完成していました。当時は、VHS、β方式の時代でしたので、極力ダビングをしての納品にならない様、オリジナルテープでの納品を心掛けていました。今は、6月ですよね。6月は結婚式が多いので、私達も大変でした。多い時には、1日で3組の撮影をする事も有りました。会場はほとんどの場合は、京都グランドホテル(今は名称が変わっています)、それから各地の市民会館、弥生会館等にも行きました。これは私にとっては、全て副業でしたから、普段は毎週1日の休みも有りませんでした。土日が仏滅になると、その日はお休みでした。今から思えば、ホント、若かったのでしょうね、休みなどは欲しいとも思いませんでした。当時のカメラ、VHSビデオデッキ等も未だ大切に保存していますが、もう使用する事もないでしょう。画質では、最近のカメラには勝てません。記念品として、大切に保管しています。

2013年6月9日日曜日

フレッツ光ネクスト に乗り換えました  

 今朝、庭の水撒きをしていた時、あまりの美しさに、カメラを持ち出しました。元気よく二輪、これでもかっ!といった感じで、圧倒されてしまう様な思いで撮影しました。庭の中から、二輪だけを浮かび上がらせる為、アングルは限定されましたが・・・。
この写真、A3ノビにプリントして部屋に飾っておきます。部屋の写真、暫く替えて無かったので。
パソコンの経験は、もう35年になりましたが、インターネットの経験はマダマダ新人です。国産で初めて発売されたキイボード式のパソコン、NECのPC-8001。お金を貯めて、日本橋まで買いに行きました。ディスプレイも同時に購入したので、結構、大きな荷物でしたが、電車で自宅まで持って帰りました。当時のディスプレイは勿論ブラウン管ですから、その重い事。キャリアーも何も無しで、手に提げて自宅まで辿り着きました。しかし、それからが大変でした。パソコンに電源を入れても、左上の隅っこでカーソルが点滅しているだけ。その当時、市販のソフトなんて有りませんでした。全て、自分でプログラムを組まなくては、パソコンは走りませんでした。毎晩遅くまで、BASICとの格闘。少しずつ慣れて、子会社の会計ソフトを作成して、そのプログラムを使用して税務申告まで実行した事も有りました。又、子会社として旅行代理店が出来た時は、その会社を通じて購入した切符、宿泊料等を会社の出張旅費として振替、親会社の経理システムに連動したデータに変換するソフトも作ったものです。インターネットをアクティブに使用し始めたのは、今年の春、YouTubeに動画を投稿して、それからです。それまでは、インターネットは、辞書代わりに使うとか、ま、メールは利用していましたが、今ほどアクティブに使用はしていませんでした。この春まではアナログ回線で充分だったのです。しかし、YouTubeの動画のアップロードに10時間以上も掛かる事を知って、光回線に変更したのです。それまでは最大1Mの速度でも不都合は無かったのです。これだけ早くなっても、更に早い回線も出て来るでしょうが、ま、私としては、現状で充分満足しています。