2013年11月10日日曜日

8ミリ映画のスタート、YASHICA 8-EⅢで

この当時は、家庭用のテレビも充分には普及していませんでした。私の家にも、未だテレビは有りません。動画といえば、映画館で見る映画、この時代は、中村錦之助さんとか東千代之助さんが中心になっていた、時代劇の時代でした。写真好きからの興味がどんどんと広がり、動画の世界に興味を抱いたのです。家庭用で、自作できる動画といえば、8ミリ映画でした。この当時には、9.5mmは、もう有りませんでした。最近では、ズームレンズは当たり前ですが、この時代には、ズームレンズはマダマダ一般的な物ではなく、シネ用のレンズは、ターレット式レンズの付いた基盤を回転させて、レンズ交換をやっていたのです。写真のカメラは『Yashica 8 EⅢ』。ターレット式の3本のレンズ交換式8ミリカメラです。レンズが全部で6本ありますが、小型のレンズはファインダー用のレンズです。フィルムはダブル方式、16mm幅のフィルム25ft巻きで、現像後半分の幅にカットして1本50ftに加工して現像所から返送されていました。現像はフィルムメーカーの工場宛てに発送して、完成返送されるまで、約1週間。現在のビデオカメラを考えると、ホント大変、手間と暇の掛かる代物でした。カメラでは撮影だけ、画像を見るには別途映写機が必要です。当初は、現像が上がる度に、カメラ店で映写機を拝借、画像の確認をしていました。編集といえば、原版のフィルムをカットして、それを接着剤で繋ぎ合せて、作品を作り上げていたのです。暫くしてから、フィルムの端に、マグネットを貼り付けて、そこに録音が出来る様にもなりましたが、それは数年後の事で、この当時は画像のみ、音声の記録は有りませんでした。作り上げた作品も、音は一切無し、無声映画で、画像だけで全てを表現したものです。
初めての作品、どの様な構成にするのか、随分考えました。参考書類、書籍は数多く読みました。ストーリーが有って、しかも、全てを自分で撮影出来る物で無くては、不可能ですので、 やはり俗に言うホームムービーしか出来ない・・・と、私を主役にしたホームビデオ、『鉄筆』に決定しました。この作品、『鉄筆』に付きましては、このブログ『6月6日』付けで詳細に置き込んでいますので、省きますが、この作品は『山陽新聞』『山陽放送テレビ(RSK-TV)』共催の8ミリ映画コンテストで、推薦に選ばれました。一般の方々を対象にしたコンテストに、全くの無名の高校生が推薦になったという事で、非常に大きな話題となり、新聞の朝刊に顔写真、テレビで放送等、地元岡山では、かなりの方に知られる存在になりました。テレビの放送では、映像を流しながら、バックでアナウンサーの方との対話を入れる事になり、その対話も、録音では無く、生音声を入れよう・・・と、放送時間に合わせて、テレビスタディオに向かったものでした。
 この当時は、テレビのニュース番組も、画像はフィルムによる物でした。マダマダ、ビデオは利用されていなかったのです。そのニュースフィルムの作成は『山陽映画社』が担当していましたが、その会社から私にお呼びが掛かったのです。カメラマンとして活動しませんか・・・と。将来は兎も角、アルバイト位はしても良いかな・・・と、夏休みの1ヶ月半、カメラマン、及び撮影補助として活動しました。カメラは8mmでは有りません。ワンランク上の16mmのカメラ(フィルモ)と、一般の映画館でも使用していた35mmのカメラ(アイモ)の2種類のカメラを使っての撮影でした。
 何も無い時は、会社内で色々やっていても、外でサイレンの音が聞こえると、すぐ支度して、会社を飛び出して事件の現場に駆け付けたものです。交通事故、火災等々、サイレンの音から、電話で警察、消防に確認、カメラと照明、三脚を持って現場に駆けつけました。火災の現場では、消防の放水の水を受けながらの撮影も経験しました。又、時には短編映画の撮影に、35mmカメラで蒜山高原に出掛けた事も有りました。夜間の照明には、直径7~80cmもあるライトで、噴水の頂上をバックから照明したり・・・。もっともっと、お話ししたいのですが、少し長くなりましたので、詳細は次回にします。

0 件のコメント :

コメントを投稿