2014年11月9日日曜日

初めてのヘリコプター搭乗 

(当時の写真ではありません。この写真は共有しました)
小学校1年か2年の時でした。確か『森永キャラメル』の懸賞募集が有り、早速応募したところ、ナント、ナント、当選したのです。賞品は、未だ出来たばかりの岡山県営球場で、ヘリコプターに搭乗できる・・・と、いう賞でした。未だ、その当時はヘリコプターも小型でしたし、現在程ヘリコプターも普及していませんでしたので、ヘリコプター自体が、未だ珍しい時代でした。最近のヘリコプターは、かなり大型の機種も開発されていますが、当時のヘリコプターは、写真の通り、前部、左右は透明なスタイルで、搭乗人数も、限られたものでした。
 懸賞に当選した時には、ホント、大喜びでした。確か、当選者数は10名程度だったかと記憶しています。当日は、家族揃って、岡山球場まで出掛けました。家族は、スタンドから、私はグランド内に呼び出されて、今か今かと、ヘリコプターの到着を待ったのです。グランド内で、かなりの時間、しゃがんで待たされました。搭乗予定の時間から1時間以上も待ったでしょうか、やっとヘリコプターが到着しました。飛行機にも当然乗った事はありませんでした。全くの初めて、しかも、遊び慣れた場所の上空に上がるのですから、非常に大きな期待を持っての搭乗でした。
 当時は未だ小型機でしたので、搭乗人数にも制限が有り、2~3人ずつがシートにベルトで絞め付けられて、順番に搭乗したのです。岡山市内を、グルーッと回ってくれるのか・・・と、大きな期待を掛けての搭乗でしたが、ナント、極端にいえば、県営球場の周囲を1周も回ったでしょうか?
乗った感覚としては、シートに縛り付けられて、上空に上がった・・・と、思ったら、地上に降りていました。実際に搭乗した私も、エーッ?、これだけーっ? と、言いたい位でしたが、見ていた家族も、えらい短い時間じゃったナー・・・と、いう位に、ホント、短い時間でした。予定時間から遅れての到着でしたので、又次の搭乗場所への移動を急がなくてはならなかったのでしょうが、チョット物足らない感じが有りました。ま、お土産のお菓子は、大きな一袋を頂きましたが、しかし、これはホントに期待外れでした。
 岡山県営球場のすぐ近くに、岡山県営プールが出来上がった時、私達3人兄弟と、私より4つ位上の近所のお兄さんと一緒に、泳ぎに出掛けた時の話です。出来たのは50メートルのプール、勿論大人用ですから、私の足は届きません。当時は、未だ泳げなかったので、中に入っても、周囲に寄り添っているとか、上に上がっては、プールサイドを走り回っていたのです。プールの周囲は未だ何の加工等もされず、山土が盛り上がっていたのを記憶しています。そのプールの周囲を走り回っていたところ、突然、「プールに来たんじゃろうがー、泳げー!!」と、全く知らない人が、私を抱き上げてプールの中に私を放り込んだのです。プールに入るのも初めての私をいきなり放り込まれたので、私は正直溺れました。両手を交互にパシャパシャするだけで、私自身ではどうにも出来ませんでした。それを見て、一緒に行ってた近所のお兄さんが、私を助けて下さいました。別に、水を飲むとかの被害は有りませんでしたが、当時は、ホント、今では考えられない様な事も平気で行われていたのです。中には、「水を飲んでしまいましたよ!!」と、その男性にクレームを付ける子もいましたが、そんなのは全然無視・・・という状態でした。その当時も、プールの監視員は当然居たとは思いますが、特に問題視はしていなかったようです。
 その後、犬かきから順に覚えて、その後は泳げる様にはなりましたが、いきなり放り込まれたのには驚きました。ま、当時は何かにつけて、この様な時代でした。

2014年11月8日土曜日

中学、入学早々のアクシデント

岡山市上伊福に有った岡山県庁が新築移転する事になり、県庁の中の職員用の住宅、県公舎から、門田文化町の県公舎に転宅。そのお陰で、それ迄は学校まで約6キロ、路面電車にも乗っての通学でしたが、転居後は学校まで6~7分の徒歩で行けるようになりました。小学校の時には、片道1時間以上かかっていましたので、ウソの様に楽な通学距離となりました。
 中学校に入学して1カ月が経った頃でした。午前中の体育の時間、体操服に着替えてグランドに出ました。しかし、いつまで待っても体育の先生がみえませんでした。聞くところによれば、先生の都合て゛、その日はお休みだとか。それでは・・・と、砂場の横に走り高跳びのスタンドをセット、竹のバーを置いて、どんどんと順番に跳んでいました。走り高跳びの練習では無く、まるで休憩時間の遊びの様に。私も走り高跳びの経験は全然有りませんでしたが、まるでゴム跳びの様なスタイルで何度か跳びました。ところが、砂場に着地した時に、バランスを崩して尻餅をついたのです。左手を後ろに伸ばして砂場に手をついたところ、エッ?、手首にカクンとショックを感じたのです。しかし、酷い痛みも無く、何かな…と、不思議に思っていたのです。ところが、その左手を腰に当てると、手首の関節よりも7~8センチ上が、ポコッと膨らむのです。これは何故かな?と、納得出来ませんでした。特別、痛みが酷いとかでも無く、しかし、右手で押さえてみると少し痛みは有りました。そこで、友達に「チョット養護室へ行ってくるわ・・・」と言って養護室に向かいました。養護室は小学校と中学校に一つしか有りませんでしたので、場所も又、養護教員をも知っていました。病院に行った方が良い、との指示で、岡山市の中心に有る川崎病院に電話連絡をして下さいました。体操服から制服に着替える為に、教室に戻ろうとしたところ、担任の先生がグランドで走り高跳びをしている生徒に、「教室で自習しなさい」と指示している姿が有りました。しかし、私に対して、腕の事を尋ねる事も無く、私は制服に着替えてから、徒歩と、路面電車を乗り継いで、更に電車を降りてから約1キロ徒歩で、左手は学生服のボタンとボタンの間に挟むようにして、歩いて病院に向かったのです。
 病院の受付で名前を告げると、受付の方がビックリして、「エーッ?  一人で来たの?  養護の先生は?~~ 」と、大声を出され、病院の中はたちまち大騒ぎになりました。早く早くとせかされて診察室に入り、医師の触診からレントゲン撮影室に直行でした。結果は簡単でした。左手首の骨折でした。すぐ副木を当てて、包帯で湿布、患部を固定して下さって、三角筋で首から吊るして左手を支えて下さいました。「大丈夫??一人で帰れる??」と、見送られて病院を後にしました。学校に戻ると、今日はもう帰宅しなさい、との指示で手提げかばんを右手に提げて、帰宅しました。帰宅すると、母と祖母が跳びあがらんばかりに驚いていた記憶が有ります。いくら昔の話とは言え、学校で骨折した生徒、中学1年生の子を単独で病院に行かせて、又、自宅にも何の連絡も無しで・・・。これが、もし最近でしたら、救急車までは行かなくても、せめてタクシーで付き添っても下さるでしょうね。
 その日の夜、床に就こうとして、ハタと考えました。病院でも慌てての処置でしたので、私は学生服を着たままで、腕まくりをして副木を当てて包帯してあるのです。学生服の上着が脱げないのです。素人が包帯を緩める事も出来ないので、上着は脱いだものの、左手は上着から抜けない為に、左手は上着の袖を通したまま、上着を横に置いて休みました。翌日、病院に出向いて、全員が大笑いで、上着から腕を抜いて、今度は上着の袖を通さない状態で。再度包帯で固定してもらいました。
 小学校時代には、たまにソフトボール等はやってましたが、本格的なスポーツは全然経験していませんでしたので、中学校の入りたてに、この様な無様な結果となりました。骨折の方は1カ月でギプスから解放され、2か月も経過すると、左腕に力を入れても、痛みの出る事は有りませんでした。
 中学校では、友人の誘いでバレーボール部に入りました。しかし、この当時のバレーボールは9人制てす。コートも体育館等の室内では有りません。コートは土の上です。私は身長が有りましたので、センターフォワード。セッターとして両サイドのアタッカーにトスもしましたが、私の一番得意としたのは、トゥーアタックで、自らが得点する事でした。中学校では、あらゆる種類のスポーツを経験し、又、体育委員長として、幼・小・中学校の合同運動会では、正面の壇上でラジオ体操をするなど、数多くの経験をしました。中学校の種々のお話は、次回に・・・。


2014年3月23日日曜日

和室の照明、蛍光灯を LEDに取り換え

 和室の照明は、今迄は蛍光灯、30W、32W、40Wの 合計102Wの照明。この和室は、昼間はもっぱら私専用の書斎? しかし、夜はこの部屋で、全員和室のテーブルで夕食を取っていました。最近、消費電力の少ないLEDが街の家電店には溢れていますが、和室用のこの手のランプは、2~3万円もする表示を見てビックリ。何とか安い経費でLED照明に替えられないものか・・・と考えていました。脱衣場とかトイレは40W相当のLED電球で充分な明るさでしたので、これならいけるかな・・・と、40W相当の電球、4個の照明にする事にしたのです。ネット通販で40W相当のLED電球を購入。消費電力は5.4W。これを4個点けた場合、消費電力は21.6W。現在の蛍光灯は103Wですので、1/4以下。そこで、テストもしないままに、蛍光灯からLED電球に取り換えたのです。LED電球の取付用にソケットを買って来て、それを中央に取付。電球の周囲が遊んでいるので、結線はしていませんが、32Wと40Wの蛍光灯は球のみを取りつけた形にセット。天井に取り付けて夜が来るのを待ってスイッチオン、忽ち家族からのブーイング。蛍光灯の時よりも手許が少し暗いとのクレーム。しかし、この方が電気代は安いから・・・と、その日は、その状態で休みました。しかし私自身も、少し暗いかな・・・と、思案。そこで次の日、今朝ですが午前4時に起床。再度工事に掛かりました。電気料は少し余分に消費するが、いっその事、32Wの蛍光灯の復活を試みたのです。もう、必要は無い・・・と、トランス等もすっかり取り外していたのですが、32Wだけ復活。再度、ハンダ付けする等、結構、手間は掛かりましたが、無事点灯。スイッチの切り替えで、大が32Wの蛍光灯と4個のLED電球、中が4個のLED電球のみ。小はLEDの豆球だけ。一度はすっかり部品を取り外していましたので、復活させるには、いろいろ大変でした。しかし、これで、やっと従来の明るさを取り戻しました。ヤレヤレです。見た目には、少し異様な組み合わせに見えるでしょうが、でも、2~3万円も掛ける位なら、ま、これでも良いか・・・と、一応は、家族共々、一応は納得しています。久し振りに手掛けた電気工事、坐ってする作業だけと違って、天井に上げ下げする作業も有ったので、運動不足の身体への負担はかなり大きな物が有りました。僅かな作業でしたが、足の痛み、特に膝上辺りに、かなりの筋肉痛を覚えています。でも、一応は家族の皆様のご了承も頂けましたので、ヤレヤレでした。あーあ、疲れた・・・。

( LED電球4個 +  32Wの蛍光灯 )

2014年3月13日木曜日

徐細動器(AED) 使用説明会の撮影依頼

最近では、公共施設、駅等にも携帯型の徐細動器が置かれる様にもなりましたが、病院にはもう少し大型の徐細動器が設置されています。これは、不整脈の治療に使われる器械で、心房細動(心房の収縮が無くなり、細かい波状に動く状態)、心室細動(心室の収縮が無くなり細かい波状に動く状態)を正常な動きに戻す時に用いられる補助人工臓器です。公共施設等に設置されているものについては、医学的な経験の無い方でも使用出来る様に、簡単な使用説明が添付されています。
近く、病院内において、緊急時の徐細動器の使用方法について説明会を開催するので、そのビデオ撮影をして欲しい・・・と、内科の部長から、総婦長を通じて依頼が有りました。説明会のアウトラインを伺ったところ、院内の医師、看護師を対象として、徐細動器の使い方を指導する。予定では4~5時間の予定・・・との事。使用方法は、比較的簡単なもので、左右の胸にパットを押し当てて、スイッチを入れるのが基本の動作との事。操作自体は、比較的簡単な事なのですが、その説明会に4~5時間もかけるという事は、一体どの様な講習会なのか、正直考えさせられました。
 今迄も、結婚式でしたら3時間近くの、ノーカット撮影等も経験はしていますが、それが、4~5時間にも及んだ場合、一人のカメラマンでは体力的に、手に負えません。ノーカットとなれば、三脚の下には車輪の付いたドリーで移動しますので、カメラを支える事に不安は有りませんが、どの様な位置、角度から撮影すればベストなのか、ノーカットで再生した場合に、どの様な画面になるか・・。凄く悩みました。今迄、作品等を造った経験が無ければ撮影には、何の抵抗も無かったかもしれません。単なる記念撮影程度のビデオの撮影でしたら、深く考える事も無いのですが、私自身が、一応はプロのビデオカメラマンの経験があるだけに悩みました。どの様な目的で、ビデオの記録を残すのか、又、そのビデオを再生する目的は、単なる行事の記録?、それとも、そのビデオを通じて徐細動器の使用方法を学ぶのが目的なのか・・・と、いろいろ考えました。内科部長にも伺いましたが、ビデオの撮影目的、その使用目的が今一つハッキリしません。撮影を受けた場合、当然の事ですが、そのビデオの使用目的に応じられるべく撮影、作品造りをするのですが、その目的が、今一つはっきりしない為、最終的には、撮影をお断りしました。今思い出しても、私自身は徐細動器の使用方法には興味が有りました。その講習会にも出席して、使用方法を伺いたい位の思いでしたが、ビデオの撮影をお断りをした関係で、その講習会にも出席は出来ませんでした。
 ビデオのプロカメラマン・・・と、自負もしないで、簡単な気持ちで、お受けした方が良かったのでしょうか? でも、その出来上がったビデオを見て、その出来上がりを非難されるのも嫌なものです。
やはり、お断りをして、私としては正解だったと、今も、その様に考えています。

2014年3月9日日曜日

音楽療法の集い、撮影を依頼されました

綜合病院の経理部に行き初めて半年ごろでした。新館3階の婦長からビデオ撮影の依頼が有りました。私がビデオが得意だと話していたのを総婦長辺りからでも聞いたのでしょう、病院の中、新館3階のロピーで開催される『音楽療法の集い』を撮影して欲しいとの事。ブライダルよりも手が掛からないから、まあ良いかと、即座にOKの承諾。しかし、いくら病院内、集会の撮影とはいえ絶対に失敗は許されません。そこで、撮影の装備はブライダルビデオと同様のシステムで・・・。ブライダルの当時は真空管式の3管式カメラを使用していましたが、カメラだけは新型に変更しています。ハイビジョンのカメラ、HDR-FX1を使用しました。カメラからは30メートルのビデオケーブルを使用して、押さえのテープ記録。カメラ内臓のテープではカメラのスタート、ストップに連動した記録ですが、30メートル先のデッキでは、ノンストップでの記録です。もし、途中で、スタート、ストップの遅れが有った場合には、押さえのテープから再編集が可能なシステムです。三脚の下には三脚用のドリーをセットして、移動しながらの撮影可能なシステムでスタンバイ。集いの予定時間は1時間程度と伺っていましたが、テープが不足してはまずいので、押さえのデッキは業務用機、ミニカセットならぬレギュラーサイズのテープを使用。
 機材の運搬は、ブライダルビデオの時と、全く同様でした。三段式のキャリアーにデッキ、カメラ、ケーブル等を車に積み込んで、救急車用の入り口からエレベータの近くに搬入。車はすぐ移動させて、機材を簡単に組み立てた後、3階まで移動。開始は午後1時30分の予定でしたが、私は30分前にセット開始。全ての機材に電源を入れて、準備OK。音楽療法の講師の方、演奏等の助手の方のお二人も間もなく到着。ご参加の方々は、ほとんどの方が車椅子ですので、前の方には椅子のセットは有りません。瀬尾婦長の開会のご挨拶の後、講師の方が自己紹介の後に、音楽療法の集いが開始されました。携帯オルガンの音に合わせて、皆さんのお名前をご紹介・・・。全員での合唱には、歌詞カードが欠かせません。正面のホワイトボードに、手書きの歌詞が掲示されて、全員での合唱。一つ歌が終えると、今度は全員にカスタネットの配布。歌に合わせて、カスタネットを叩き、その次は全員にスカーフの配布。流れた曲はメロディーだけですが、坂本九さんの見上げてごらん夜の星を。みなさん、両手を大きく伸ばしてスカーフを掴み、メロディに合わせて右に左に・・・。車椅子の方でも支障なく全員が参加できる様な配慮の中、1時間はすぐに経過しました。私は、その皆さん方のお姿を、カメラを移動させながら、全員、撮影しました。ブライダルよりも簡単・・・と、考えていましたが、全体の時間が少し短いだけで、カメラマンとしての負担は、何等変り無しの撮影でした。エンドミュージックの中、講師の方は参加者全員と握手を交わし、又、その様子を詰所から見た婦長が小走りに出て来て、エンディングのご挨拶。無事、音楽療法の集いは終える事が出来ました。後日、タイトル等も入れて、編集したテープと、ノーカットの連続撮影のテープを、1枚のDVDに入れて婦長にお渡ししました。この撮影は、あくまでボランティアですので、撮影料は当然ですし、使用したテープ、DVDディスク等も無償でのサービスでした。でも、これで皆さんが一日も早く、お元気になって頂ければ、有難いものです。
当日の記録は、YouTubeにアップロードしていますので、宜しければご確認下さい。
https://www.youtube.com/channel/UC1vRebGihrtYef0GCxRch0Q

2014年3月4日火曜日

救急患者は全て受け入れる事! 受け入れてから転送すれば良い!

平成14年12月24日に大腿骨董壊死症から大腿骨、骨盤の関節を人工に手術、それまでの職場は、3月31日付で定年退職。病院でのリハビリ療法も3月31日でもって完了。しかし、一般生活には未だ支障が有った為、市民プールに自転車で通って、水中歩行訓練を実行。手術から約1年後、12月には健常者とほぼ同一の行動が可能になりました。その時の年齢は60歳。未だもう少しは仕事をしたいな・・・と考えていた時、新聞広告で会計事務所の求人が目に止まりました。会計事務所は大阪ですが、勤務は私の地元の街の病院との事。早速応募して面接に伺いました。応募の方はかなり多いみたいで、応接室で暫く待機。私は予定時刻の5分前に入りましたが、前の方の面接終了まで、かなり待機させられました。面接は会計事務所の所長と、派遣先の病院の経理ご担当者のお二人。しかし、病院の方は発言は一切無し、全て会計士の方からの質問に素直に応答して、面接は特に何も無く終了。面接後、帰宅後すぐに電話連絡があり、月曜日から勤務を開始する様に・・・との事。自宅からは車で10分位。月曜日の朝は、毎週午前9時から職員の朝礼、病院の中の一室、大きさは学校の教室の2倍くらいの広さ、片隅に会議用テーブルが積み上げられていました。その当時の理事長の司会で進行する中、私も新任としてご挨拶。
これまで、病院とのお付き合いは、患者としてお世話になっただけで、その内側は全く何も知りませんでした。公的な病院は、又違うのでしょうが、この病院は理事長が設立したそうですが、病床は約220と伺いました。一応の規模は大きいかの如くに見えますが、中は完全に個人病院。実は、昭和55年頃でしたか、近所の内科医院からの紹介で、私の長女が入院した事が有りました。小学校の3~4年生の頃です。ある日、昼間です、見舞いに行きました。すると、病室には娘の姿も、ベッドも無く、娘の姿が有りません。近くの看護師の方に伺うと、ナント、驚きました。廊下の端、隅っこに置かれたベビーベッド、その中に娘が身体を小さくして休んでいました。新しい患者を迎える為の部屋移動、何方かが、退院のご予定だったのでしょう。その退院まで、空きベッドが無いので、娘はベビーベッドに寝かされて、廊下の隅っこ。娘は、病気で入院していたのですよ。
病院も外から見たのでは、内部の事は解りませんが、兎に角、この病院は設立者の声が全ての病院でした。一般の会社でも、ここまで酷いのは、見た事が有りません。医療系となると、師弟関係が一般の企業とは、又異なるのかもしれませんが・・・。朝の朝礼でのお言葉・・・『救急の連絡が有った場合は、一切断るな!! 必ず受ける事。受けて診察した後、他の病院に転送したら良い!!』
どこが採点をしているのかは知りませんが、救急を受け付けると、ポイントが+1、転送した場合の減点は無し。そこで、救急は全て受け入れて、ポイントを獲得。手に負えなかったら、転送したら良いと、当時の理事長、朝礼での発言です。その場では、誰も異議の発言は無し。驚きました。救急患者を何と心得ているのでしょうか。この件以降、身内には勿論、機会ある毎に、この病院にはお世話にはならない方が・・・と、お口添えしています。病院の全てがこんなだとは言いませんが、出来れば公の病院の方が信頼できるのかも知れません。今では、この病院の理事長は息子さんに替わっています。その後、改革がされているのかもしれませんが・・・??

2014年3月1日土曜日

水中歩行 一人で頑張った、リハビリの想い出

高槻市民プール 手前はジャグジー 後方は25mブール
12月16日に入院、手術に備えていろいろの準備期間の開始でした。それ迄、自宅では睡眠時にも水平に休む事が出来ず、ホームコタツと座イスで睡眠を取っていました。病院に入院して、水平のベッドで休めるかどうか・・・、でも実際に病室でベッドに転んでみたところ、ホント不思議でした。上を向いて、水平に休んでも痛みは出なかったのです。ベッドのスプリングのせいでしょうか、自分でも驚きました。12月24日の手術に備えて、全身のチェックを受けました。麻酔時に問題が生じるとまずい・・・との事で、歯の治療も受け、万全の態勢で手術を完了したのです。手術後、1週間目から、リハビリが始まりました。不思議ですね、ホント。左足に全然力が入らないのです。最初はベッドに横になって、左足を曲げたり伸ばしたり…。これも全て療法士の方のお手を煩わせての訓練でした。リハビリを始めてから1週間位でしたか、やっと両足で立てるようになりましたが、歩行はマダマダ。両サイドの手すりに捉まって、1歩1歩。3週間目には、両足での歩行が出来る様に回復しました。リハビリ室の周囲を、一人でグルーッと一周、療法士の方の指導に従って、やっと杖無しで、普通に歩行が可能になった頃、手術からは約1カ月が経過していました。一日も早く、会社に復帰したいとの思いから、1月29日には退院して、翌日には出勤しました。リハビリの際も、自転車のペダルを踏む様な運動もしていましたので、自宅から駅までは、自転車を利用しました。しかし、やはり手術前とは違って、左足の踏む力が全然足りません。リハビリ室では、何の苦労も無く、ペダルを踏んだのに・・・と思いましたが、多分、リハビリ室のペダルは、極く軽い負荷しか掛かって無かったのでしょう。実際に道路を走ると、平地は兎も角、ホンの僅かな登りでも、自転車が進まないのです。止む無く、自転車を降りて、その僅かな登りを押して、再度自転車に跨ったものでした。電車は摂津富田から梅田まで、約20分。電車通勤を再開して2~3日目の事でした。新大阪までは何の支障も無く吊革に捉まっていたのですが、新大阪を出た辺りで、急に気分が悪くなったのです。でも、5分足らずで大阪駅に着くから・・・と、じーっと耐えました。大阪駅に着いて、皆さんと一緒にホームに降りましたが、真っ直ぐな歩行が出来なくなって、階段横のフェンス、そのフェンスに捉まって、その場にしゃがみ込んだのです。暫くすると、それを見かねた一般の方が、立ち止まってお声をかけて下さいました。大丈夫です・・・多分、脳貧血ですから・・・と、答えてじっとしていると、駅員に方が階段を上ってみえて、休む場所として、駅員室に案内して下さいました。JR大阪駅には救護室の設備は無いそうです。事務用の椅子に座って10分位。その後、タクシーで会社に向かいました。
 その時の私の年齢は59歳。定年の60歳まで、あと僅か。4月24日が誕生日ですが、会社の勧めで3月31日の定年退職を選択、無事勤務を完了しました。しかし、身体はマダマダ本調子では有りません。自転車で10分位の所に、高槻市の市民プールが有りました。水中歩行で自力でリハビリを開始したのです。水泳は何年か振りでした。50メートルのプールに入って、クロールを始めたのですが、ほとんど前に進まないのには驚きました。深い50メートルプールは諦めて、室内の浅い25メートルのプールに移動。一番端のレーンは、水中歩行をなさる方の為に、空けられていましたので、その中に入って、何回も何回も25メートルを往復。周りは私よりもウンと歳の進んだ方ばかりでした。屋内のプールには、帽子を被らなくては駄目とか。初日は貸して頂きましたが、2日目からは自分の帽子で・・・。回数券を買いましたが、私は既に4級の身体障害者の認定を受けていましたので、料金は半額でした。水中歩行と、自転車の往復で、筋肉はやっと従来に復帰。手術から調度1年経過後、新しい職場に就く事が出来ました。自宅から車で10分位、綜合病院の経理指導として毎日勤務を始めました。ベッド数は220床、高槻市内では比較的大きな病院でした。調度その様な時でした。マイカーでの通勤でしたが、ある日、帰りに車に乗ったところ、ラジオから次から次とお名前を読み上げる放送が続いていました。途中から聞いたので、最初は何の放送か理解出来なかったのですが、後で解った事です。尼崎のJR福知山線の事故の犠牲者の方のお名前でした。今、思い出せば、ホント、いろいろな事が有りました。

2014年2月27日木曜日

自宅の庭に アライグマ、ラスカル!!

ここは大阪府高槻市、この付近は住宅地、新旧の住宅に囲まれた一帯で、田畑等からも随分離れた場所になります。近くの山までは、10キロ近くという、平地の住宅地です。そこに、アライグマが現れたのです。今日、フト、そのアライグマと面会した事を思い出しました。
 月日が経つのは早い物で、あれは平成14年12月でした。昨年の7月頃のブログにも書きましたが、この当時、大腿骨董壊死症の診断を受けて、手術に備えて、待機をしていた頃でした。大腿骨の関節部分の痛みから、診断書を提出して、会社は休んでいました。夜、休む時も、水平に転ぶと痛みが酷くて、床に付けなかったのです。止む無く、1階の和室でホームコタツに座イスを置いて、座イスにもたれて睡眠を取っていたのです。夜明け間近で、周囲は未だ暗い様な状態でしたが、ライトは付けなくても見える位の明るさでした。障子を開けて、ガラス戸越しに外を眺めていた時、お隣のブロック塀の上を移動する動物に気が付きました。ブロック塀の上から、我が家側のフェンスの上に降りようとして、前脚を下に伸ばしました。お隣のブロック塀よりも、我が家のフェンスは、60センチ位、低い場所になるのですが、その前脚を揃えて、下に伸ばして、フェンスの上に全身を下ろし、フェンスの上を横にスルスルッと移動して、更に別のお隣のお宅側に姿を消しました。ガラス戸越ですが、私との距離は3メートル位。当然私の姿も見えていたとは思いますが、何の抵抗も無く、堂々とした移動でした。野生では無く、ペットとして飼われていたものかもしれません。
 最初に、その顔を見た時、アレッ、タヌキだ!と思ったのです。こんな場所にもタヌキがいるんだ・・・と、ビックリもしたものです。その後起きて来た家族と話していた時、その様子を色々と話していると、突然、娘が、尻尾がリング状に白黒になって無かった?と言いだし、そこで初めて気が付きました。確かに尻尾には白黒の模様が有った・・・と話すと、それはラスカルやーー。ホント、確かに尻尾の模様は有りました。アライグマが、この辺りには決して生息はしていません。ペットが逃げ出したか、或いは、何方かが放置なさったのか・・・。アライグマの出現は、各地で発生している・・・とは、知っていましたが、まさか、我が家まで・・・。ホント、珍しい経験をしました。それ以降の面会は一度も有りません。一回だけでしたが、アライグマ。私に警戒心も見せないで、堂々とした行動でした。各地では放置したペットの被害等も報じられていますが、私も実際に、動物園以外で、その姿を見る事が出来たとは・・・。身体に痛みの酷い手術待ちの状態の中で、初めて見たアライグマ、ラスカル、何か、今でも凄く懐かしい様な想い出として、頭に深ーく、記憶しています。

2014年2月25日火曜日

一斉摘発 大阪日本橋 違法DVD

大阪浪速区 日本橋
今日、テレビの報道で日本橋の違法DVD販売業者5社が摘発されたそうです。修正無しのアダルトビデオとか、コピーをしただけの海賊版、大きな段ボール箱に収めたDVD、警察の小型車が載せきれない位の量の様子でした。
昔の日本橋と言えば、ホント、デンキのマチでした。小さな部品の一つから販売していましたので、地下鉄で良く通いました。4階建ての店舗の場合、私が行くのはその最上階、4階のパーツ売り場でした。プリント基板を自作して、そこに色々なパーツを組み立てて、マイカーにはアンプ等も作成、又、シフトレバーに各種の切り替えスイッチを取りつけて、アマチュア無線の運用等
大阪日本橋さんには、本当にお世話になりました。しかし、そういえば最近は日本橋には出掛けて無いですね。大分に赴任していた時には、大分では何も手に入らなかったので、出張で大阪に来た時には、必ず日本橋に行ったのですが・・・。
 最後に日本橋に行ったのは何年前ですかね。10年以上、もう行って無いですね。最近では、各種パーツはインターネットの通販で、送料さえ辛抱すれば、何でも手に入りますし、日本橋まで行く交通費を考えると、通販で送料を支払った方が安いかもしれません。
それと、話に聞くところでは、最近の大阪日本橋は、ガールズパートとか、今日取締の有った違法DVDの販売店とか、どうも雰囲気が従来とは変ってしまったみたいです。私も最近は、出掛けて無いから、それ以上の事は解りませんが・・・。
最近、私が電器の量販店に出掛けるのは、高額商品の場合には、現物の操作等を確認の為。最近のテレビも、全て通販を利用しました。テレビは、リビングと和室、それぞれ37インチです。これも通販です。アンテナ等は自分でやりました。でも、エアコンだけは、私も経験ないので、自宅近くの量販店のお世話になりましたが・・・。エアコンの取付も、一度経験すれば、自分でも出来るのですが、未だ、トライはしていません。ホースの中のガスを本体に戻す操作等、原理は解っているのですが、実際には手を出してないので・・・。
 私が今、一番悔しいのが、年を取ってから、2階の屋根の上に上がれなくなった事です。古いVHFのテレビアンテナが上がったままなのです。イエ、梯子をかけて、どうしても上がれ!!となれば、覚悟をして上がりますが、でも、若い時とはチョット違うので、今は、自重しています。ま、その方が安全ですよね。

2014年2月22日土曜日

MCA無線機の導入

MCA無線車載機
この当時、携帯電話は既に発売はされていました。しかし、その当時の携帯電話は、非常に高価であり、また、その大きさも並大抵の物では無かったのです。持ち運びも出来ましたが、バッテリーと一式、ショルダータイプの物でした。受話器も、固定電話と同じ様な形の物でした。しかし、余りの大きさと重さの為、一般的にはショルダータイプよりも、車のセンターコンソールに設置してご利用になっているのは、時々、見かけた事は有りました。私の赴任した会社では、未だ携帯電話の利用はしていませんでした。その代わり、ポケットベルを全員が携行して、営業活動をしていたのです。
一方、私の趣味はアマチュア無線でしたので、マイカーにも取り付け、又、ハンディ機も使用していましたので、近距離で有れば、アマチュア無線で自宅との連絡に使用していました。大分に赴任してからですが、家内もサンアイ無線の講習会に出席して、アマチュア無線の資格を取得して貰っていたのです。自宅との連絡は非常に便利でしたが、一方、会社ではポケットベルだけの利用でしたので、外出している社員との連絡は、非常に苦労しました。ポケットベルを鳴らして、その社員からの電話連絡を待って、それでやっと連絡が付く状態でした。そこで、社内でも無線システムの利用を考えました。1社だけで利用する無線システムも有りましたが、それには専従の有資格者を置く等の条件が有りましたが、何社かで同一の電波を利用するタイプ、MCA無線で有れば、簡単に設置できる事が解りました。何社かで共同の利用とはいえ、やはり業務用ですので、無線機は結構高い物でした。同じ様な周波数のアマチュア無線機であれば、私も何台かは所有していましたが、アマチュア無線で業務を行っては違法です。そこで、了解を頂いてMCA無線を導入する事になりました。社長用車、営業車、配達用車それぞれと、本社には基地局を設置。各車両には50㎝程のホイップアンテナをルーフトップに上げ、本社屋上には5/8λのGPアンテナを挙げました。随分便利になりました。〇〇本社より〇〇何号車、応答願います・・・と、本社から移動局を呼び出せば、即座に返事が有ります。会社の活動範囲は、大分県は中津、佐伯までありましたが、本社のGPアンテナからは、そこ迄は届きませんでした。しかし、大分市の周辺までは、充分使用出来ました。2~3社が共同で使用する…と、聞いていましたが、他社の方の声は、ほとんど聞いた事は無く、まるで、当社専用の様な感覚で使用したものです。例え車を離れている場合には、呼び出しをセットすれば、無線機から呼び出し音が流れますので、連絡に苦労する事は解消されました。本社のアンテナ設置には、業者の方もみえましたが、屋上への設置、5D2Vのケーブルの引き込み、M型コネクターのハンダ付け等は、私も充分経験していますので、勿論、お手伝いもしました。最近では、MCA無線もデジタル方式になっているのですね。各社が同一の周波数の電波を使用しても、その内容は他社には届かない様になっているのでしょう。詳しくは知りませんが・・・。
 現在の、携帯、スマホの時代からは考えられない事ですが、ホント、昔はポケットベル、あれは便利でしたよね。出来た頃は、誰もが称賛したのですが・・・。今、思い出すと懐かしいですね。                                

会社内部のリニューアルオープン


現在の会社全景(現在は全国組織の支店になっています) 
大分に転勤して数カ月、大分の生活にも少しずつ慣れて来ました。会社の建物は鉄骨造りで、周囲は一見、鉄筋コンクリート造りの様に見えますが、内部の配置等は、年月を経た、古い作りのままでした。正面の入口から中に入った印象では、机が何組かに向きあった、正直古臭ーい、昔ながらの事務所のイメージでした。このイメージを、もう少し、スッキリして、お越しになる方に、もう少し良い印象の事務所にしたいと考え始めたのです。しかし、〇〇大分販売㈱の本社ですが、株主は親会社のメーカーと、地元のガソリン販売会社が、それぞれ50%を保有していました。株主の方の同意を得て、内部のリニューアルを進める事にしたのです。施工は従来からの取引先、中央広告さんにお願いする事にしました。中央広告の社長、当社の社長と共に、改造のプランを色々と検討しました。狭い事務所部分をもう少し広げて、床はリノリウムのパネル張り、天井は高い釣り天井で、内部を明るく、すっきりと。タイヤ交換の作業場所、それ迄はタイヤ交換の際には、ガレージジャッキを用いて、車両を持ち上げていたのですが、地下に埋め込み型のリフトアップ式とする事にしました。まず最初に手掛けたのが、一番の大工事となる、作業場の埋め込み型のリフトアップの取付。。従来のコンクリートの床を破って、地下を掘り下げなくてはなりません。コンクリートの床を削岩機で破るのですから、非常に大きな騒音が出るのは間違いありません。その騒音対策として、表のシャッターは閉めた状態で作業する事にはしましたが、しかし、それでも周囲には大変な騒音です。周囲には住宅も有りましたので、工事に先立って、手土産を持って一軒一軒、お断りに伺いました。勿論、これは管理部長の私の仕事です。初めてのお宅に、順番に伺いました。昼間は誰も居ないから構いません、というお宅が多かったのですが、中にはお子さんの小さい方が、いらっしゃるご家庭も有りました。大きな騒音は一日だけで終わらせますので・・・と、みなさんのご了解を頂く事が出来ましたので、早速工事の開始。実に大きな音でした。作業場のコンクリートは約20センチの厚みが有りましたが、その全てを破って、小型のユンボで深く掘り下げての工事でした。作業場のシャッターは、従来は横棒が連なった様なタイプの物でしたが、中の見えない普通タイプのシャッターに交換する事にしました。ところが、それ迄は、シャッターの間からツバメが入って、巣を造っていたのですが、それが出入りが出来なくなります。そこで、横の柱の部部近くに、ツバメが通れるように、従来のシャッターも少し残して・・・。
ツバメの為に、シャッター、入口を考えるとは、やはり都会とは違う事を認識させられました。
 事務所内は、全く見違える様な造り、まるでビル内の一室の様になりました。事務所の奥を広げて、全員の机を正面の入口に向けて着席する様に配列、その最後列に管理部門の席を設けて、大型金庫もその一角に設置。社長室は、2階に別室を設けました。入口サイドには、お客様用にソファー等も3組設置。又、応接室も1か所設置出来ました。今迄とは、ホント、見違える様な事務所が完成したのです。
リノリウムを貼り付ける時に業者の方に伺ったところ、定期的に磨かなければ、汚れが取れない・・とか。事務所内を美しく保つ為に、定期的に床磨き・・・。これで、又、私の仕事が大きく増えようとは・・・。その時は、ナントも考えていなかったのですが・・・。

2014年2月21日金曜日

やっと来た 春

庭のサクラ草が、やっと優しい花を開きました。大雪で道路が遮断されて孤立の方もいらっしゃるとか、お見舞いを申し上げます。
2月21日金曜日、月日の経つのがこんなに早いとは・。
仕事から退いて、約1年半、毎週3日、往復の時間も含めると、約6時間掛かって透析治療を受けていますが、透析の4時間は、テレビを眺めながら、非常に永い4時間です。透析以外は自宅内で過ごしているのですが、1週間が、アッという間に過ぎ去ってしまっています。今年、新年を迎えたばっかりみたいな感覚ですが、でも既に2月も終わりに近付いています。会社勤めをしている時は、5日、10日毎にそれぞれの数字をチェックして、又、その数字から1カ月の予測を立てて、いろいろと手を打ったものですが・・・。今は、庭にチョコッと出て、カメラのシャッターを押す位だけ。若い頃と違って、年齢と共に体調を崩しているせいでもありますが、しかし、本当に信じられない位に、日が経つのが早く感じられます。病院に通うのもタクシーでの往復ですので、今年の冬、防寒具を着て外に出た事は、一度も有りません。ワイシャツに紺のブレザーが、私の外出着。ネクタイはしていません。電車通勤の頃は、その上にコートを着用していましたが・・・。
 若かりし頃と、大きな変化は、今、帽子を被っている事です。私が帽子を被ったのは高校を卒業する迄でした。その後は、セットが崩れる・・・と、帽子は一切使用しませんでした。でも、年齢と共に、有るべき物の数が、段々と減少。出先で写された自分の姿を見て、何度もビックリしたものです。普段見ている自分の顔は、鏡に向かった時の正面の姿しか知りませんでした。スナップとして写された写真は、正面では無くて、おおよそ横顔の写真。初めて見た時は、エーエッ? これ、誰??と思いもしました。頭が段々薄くなって、正面からだと特に何とも思わないのですが、横から見ると、髪の隙間、切れ目がまともに見えるのです。こんな頭、これが私の姿??と、最初は驚きました。信じられない思いでした。
 そこで、帽子を被る事にしたのです。しかし、野球帽を被る訳にもゆかないし、どんな帽子にしようかと、随分悩んだものです。今迄、スーツしか着た事の無い私が、ハンティング、野球帽は被れません。そこで、ネット等でいろいろ探しまわった挙句、七折れ帽を選択しました。でも、テレビで見た某国の元外務大臣の様に、帽子を斜めに被ったりはしません。まるで、ハイキング用の帽子を被るかの如く、真っ直ぐに被っています。最近は、必ず帽子を被っての外出ですが、でも、女性と違って男性は、帽子を脱ぐのが礼儀の場所も有りますよね。そんな時、ホントは被り続けたいのですが、仕方ありません。脱がざるを得ませんが、ホントは脱ぐのは嫌です。運転免許にも、マークが有る様に、帽子の利用にも、年齢を表示して、脱がなくても良い・・・とか、無理ですよね、そんなのは。そうかといって、髪を短く、丸坊主みたいにするのも嫌だし・・・。この様な悩みも、いつまで続けられるか・・・、あと何年髪が有るのかな・・・。

2014年2月16日日曜日

大阪へ出張の時は、必ず行きました。 電気の街 日本橋

大阪市浪速区日本橋商店街
昭和47年9月にアマチュア無線局を開局しました。その当時は大阪府枚方市に住んでいましたので、京阪電車、地下鉄を乗り継いで日本橋には、ほとんど毎週通いました。購入目的が有る時は、その部品を探し求めて、端から端まで、何往復もして、部品を探した事もありました。購入目的が無い時でも、日本橋の各店を訪問すると、必ず何か新しいものを発見して。欲しい物、型式が決まると、今度は、一番安い販売店を探して、再度、端から端まで。最後は疲れ切って、恵美須町の地下鉄にやっと乗った経験もあります。
 この当時は、現代の様に、通信販売は発展していませんでした。電気に関する小物、部品等は大阪では日本橋、東京では秋葉原でしか、販売されていなかったのです。大分に転勤してから、2か月に1回は大阪まで、本社会議の為に出張する事が有りました。その時には、必ず日本橋まで足を延ばして、ホント、半日は日本橋で過ごしていました。購入予定の部品リストを手に、次から次と部品専門店を尋ねたものでした。その当時、大分にも電子部品を各種揃えている店は、1軒だけありました。40メートル道路に面した所の『サンアイ無線』でした。特殊な部品でしたが、買い求め様とサンアイ無線を尋ねた際、どうしても店内で見付ける事が出来なかったのです。そこで、店の方にお伺いしました。すると、帰って来たお返事は 「ああ、それは内には置いていません!」。取り寄せましょうか?のお言葉は無しです。アリマセン!!の一言。従って、出張の度に、大阪日本橋の専門店に、必ず寄っていたのです。
 最近では、全国ネットで通信販売が盛んになりましたので、特殊な部品でも、小さな部品でも、送料さえ負担すれば、買い求められますが、その当時は、通販はそこまで盛んでは無かったので・・。
その後、大分市でも春日町の交差点近くに、無線機専門のお店も出来ました。そのお店で、400MHzとか、144MHzの無線機を何台か購入し、又、自宅にアンテナを上げる際には、応援もお願いしました。ナガラ電子の400MHz、25エレメントのスタック。長さ5メートル近いアンテナを2本、約1.5メートルの間隔位でマストに上げて、下に付けたモーターでアンテナを回転させている物でした。そのアンテナを通じて、神戸市東灘区の方々とも、通信は可能でした。大分から神戸といえば、400MHzでは遠距離通信になります。その為、短時間の積りで声を出しても、次から次と神戸付近の方々から、お呼びが掛かって、なかなか、無線機の前から離れられなかったものです。1時間か2時間の時間が空いた時しか、無線機の前には座れなかったものです。車にも勿論セットしていました。新車のタウンエース、納車と同時に、天井の真ん中に穴を開けて、144MHzと400MHzの共用ホイップアンテナ。右前の窓枠に付けたマイクを口元に持って来て、スタンバイ、周波数変更のスイッチはシフトレバーに自作して取り付けたものです。床下には小型のスピーカーも取り付けて・・・。
大分市内の何社かが集まっての野球大会の開始に当たっては、グランドの近くに停車した私の車のスピーカーを使って、車載アンプからマイクを引っ張って、開会式をやった事もありました。勿論、走行中にも、活動しましたよ。違反車が有ると、手許のマイクから、注意もしたものでした。

2014年2月14日金曜日

雪にも負けず…

2月14日、天気予報では大雪とか。朝6時、小雨でした。それが、時間と共に小雨から雪に・・。
朝の7時には、草の上、ブロックの上には、少しずつ雪が積もり始めたのです。
8時頃には既に積雪約1センチ。予約しているタクシーが、やっと8時15分に到着。自宅前に停車したタクシーに、傘は持たないで乗り込みました。上は紺色のブレザー、僅か10秒程度でしたが、雪で真っ白。シートに座ってから、手で払い落しました。ここ、大阪でこれ程までに激しい雪は見た事が無い位、強い風と共に、いつ道路にまで積雪が残っても不思議では無い状態。ワイパーを一杯に動かしても、前方確認が困難な状態。道路は、未だ白くはなっていませんでした。しかし、タクシーが左折しようと、横断歩道の手前で一端停止、歩行者の横断を確認して、発進しようとした時、横断歩道の塗装の上だったのでしょう。後輪が空転して、僅かですが、スピンしたのを感じました。雪が降って、決して道路は白くはなっていませんでしたが、気温も低い為、道路上で凍結に近い状態になっている様子が伺えました。アスファルトの舗装の上でしたら未だ良いのですが、アスファルトの上の塗装部分は、凍結し易い様です。車だけでは無く、歩行時等にも、凍結しかけている様な状態ですので、一歩一歩、大股では無く、小股で歩く事が重要だと初めて教えられた、今朝の体験でした。
 午後2時過ぎに自宅まで帰着、雪は相変わらず激しく降り続いていました。門を通って、玄関前までは、踏み石の上が白くなっていましたので、最大限の注意を払って、滑って転倒の無い様に、気を付けて歩行。やっと玄関前に到着、玄関前の一段高くなったタイルの上、白くはなっていません。雪は多分溶けたのでしょう。透明な水で濡れた様に見えたタイルの上、その上に足を乗せると、ツルっと、ホンの僅かですが、足が滑るのを感じました。見ただけでは、単に濡れているだけとしか見えなかったのですが、凍結って怖いですね。見ただけでは、単に濡れているだけ・・・としか見えないのですが、凍結していました。最大限の注意を払って、無事、帰着。
 部屋の中から庭をみると、先日、『春はそこまで・・・』で撮影したサクラ草、雪にも負けず、一輪だけですが、花を開いていました。雪が溶けて、水滴となり、その重みで頭を下げてはいましたが、元気一杯な様子でした。
 今日から明日に掛けて、日本各地は大雪だとか・・・。大きな被害が出ない事を願っております。

2014年2月11日火曜日

春は そこまで・・・

庭のサクラ草、先日、遠くから見ていて、咲いたのかと思ったら、未だ咲いて無かったのが、今月1日の事でした。その日は、未だしっかりと蓋を閉じたままでした。それから10日、先週末の全国的な冷え込みと、大雪を乗り越えて、蕾は今にも開きそうな状態にまで成長して来ました。開花まで、、あと1日?それとも2日?
庭のあちこちからサクラ草が元気に頭を持ち上げています。今迄、葉のほとんど見えなかったクレソンも、元気一杯に大きな葉を伸ばしています。例年になく、寒気が日本を包んでいた為に、各地で予想外の積雪になってはいますが、庭の花達は春がそこまで近付いている事を、身をもって感じているのでしょう。
各地からは、早咲き梅の開花の便りも有ります。我が家の梅の木、マダマダしっかりした蕾ですが、もうすぐ開いて春を呼び込むでしょう。

ソチの冬季オリンピック現地では暖気に覆われて、雪不足の状態とか・・・。
日本には未だ届いて無い金メダル、その金メダルと共に、春がきっと近付く事でしょう。日本、ガンバレー!!

2014年2月6日木曜日

大分港で覚えた、小アジのサピキ釣り

今迄、釣りといえば海岸から遠投をして釣り上げる、投げ釣りが中心でした。波止場から浮き釣りをした事も有りましたが、投げ込みで、カレイ等を狙うのが中心でした。若かりし頃、その当時は枚方市に住んでいましたが、京阪電車の始発で出掛けて、大阪の反対側、南海電車の淡輪まで出掛けて、投げ釣りをやっていました。
朝から夕方まで、釣れたのは体長7センチ位、まるで透けて見える様な感じのカレイ1匹だけでした。離してあげれば良かったのですが、自宅まで持って帰って、煮つけにしたものでした。子供の頃には、岡山の児島湾で、チヌ、15センチ位でしたか、海岸から釣った事もありましたが・・・。岡山の宝殿海水浴場では、カレイ、タコ等も投げ込みで釣りました。
 大分港を眺めに出掛けたところ、皆さん、籠を付けたサビキ釣りで小魚を次から次と、休みなく釣り上げる姿を拝見しました。こんなに簡単な釣り方法、釣具店で伺って、早速籠と、小さな釣針が連続して取り付けられているサビキ針、餌として冷凍アミを買い求めて、私も早速港に引き返しました。仕掛けは図の通り、本当に簡単な仕掛けで、餌として籠の中に冷凍網アミを入れて、海水に入れるだけ。
入れればすぐに、グッグッグッと、あたりが有ります。すぐ引き揚げれば、そこに小魚、小アジが針に釣れているのです。下の籠の中の冷凍アミが流れ出して、そのアミと同じように見えるサビキの針に小アジが来るのです。春先、最初の内は本当に小さなアジですが、季節と共に成長して、初夏の頃には10センチ位の小アジが釣れ出すのです。小アジは、家で簡単に南蛮漬けとして、美味しく頂く事が出来ます。30分か1時間も有れば、充分過ぎる位の釣果でした。それ以上に沢山持って帰ると、叱られるのです。から揚げする手間が大変だった様で・・・。
この釣り方法を覚えてからは、暇を見つけては大分港に向かいました。大分港はサビキ釣りの方で、岸壁は埋まっていますが、その中に隙間を見つけて、竿を延ばす事が出来ました。このサビキ釣りは、釣竿を振りまわす事も有りませんので、僅かな隙間が有れば、割り込んで竿を出す事が可能なのです。会社が終わって、残業等の無い時は、自宅迄5分、釣竿等を積み込んで大分港まで5分の走行。餌を籠に詰めて、すぐ開始。沢山の小アジが、ホント、すぐ一杯になっていました。
餌のオキアミは、冷凍状態で販売されています。金額は安いのですが、大きな塊では一度には使い切れないから無駄・・・と思って、小さい塊の物を買ったのです。金額も安いものでしたが、大きな安い塊よりも小さい塊の方が、アミの体長は大きなアミでした。使い切れないから・・・と、わざわざ、小さな塊を買って行ったのですが、大分港で通りかかったオバチャンからは、馬鹿にされた様に、「マア、こんなに大きな餌を使って・・・、無駄な事をなさっとるワ・・・」と、言われてしまいました。大きな声でしたので、当然聞こえてはいましたが、聞かないフリして・・・。その時、わざわざ事情を説明しても、無駄な事・・・と、敢えて、聞こえない振りをしたのです・・・。
 大分港では、この当時、アジはこの大きさ辺りまでは良く釣れました。しかし、アジが成長すると共にその生息域が南に下る様で、大分よりも南の臼杵辺りですと、もう少し大きくなったアジが波止めからも釣れると聞きました。しかし、出掛けるのが面倒で、結局、臼杵までアジ釣りに行く事は有りませんでした。臼杵といえば、ドライブで出かけた時に海岸で大きな釣り堀を見つけました。色々の種類の小魚は3つ程の生けすで自由に釣れますが、タイとブリは専用の大きな生簀が有りました。タイは上から、大きさで狙いを付けて、その目的のタイの鼻先に針を落とせば、すぐ釣れました。一方、ブリは大変です。呼吸をする為に、大きなプールを右回りで勢い良く、泳ぎ続けていましたが、針を入れると、すぐさま飛び付いて来るのです。小さな子供さんが、横の通路を歩いている時に、うっかりその針をブリのプールに落とした時、すぐ、ブリが飛びついて、子供さんはプールの中に引き込まれそうになったのです。係りの方が慌てて飛んで来られて、そのブリを離していました。ブリの体調は7~80センチでしたが、力は強いものです。年末には、正月用の魚を求めに、又来なくては・・・と、その日は、小魚だけで帰宅しました。


2014年2月2日日曜日

佐賀関灯台にドライブ

大分市での生活にも慣れて、やっと平穏な生活が送れるようになりました。ある日の日曜日、チュッとドライブでも行こうか・・・と、佐賀関方面に向かいました。中島十条の交差点から広い臨海産業道路を東へ。別府大分毎日マラソンのコースでもある、この40メートルの道路、大野川の大橋を渡った先で、この広い道路は行き止まり。右折して細い道を抜けて197号バイパス、豊後街道、あとは一本道。途中、この道路沿いに『吉田会館』も有りますが、今日はそのまま通過。佐賀関のフェリーターミナルを通り過ぎて、次の信号、金山交差点の信吾から左に入って佐賀関の港も過ぎ、地蔵寺を過ぎたところで、右折。道路は登山コースに入りますが、未だ道路幅も有って、大丈夫です。しかし、これから少しずつ狭くなって、私の車はタウンエースですが、対向車があるとすれ違うのに一苦労する道路になってしまいます。対向時にうっかり左に切り過ぎると、斜面から脱落する様な、大変狭い道路です。普通車のセダンの方と対抗した時には、私は窓を大きく開いて、相手の方に大きな指示を叫んで、無事対向した時も有りました。
 その先には駐車場も有りましたが、そこに駐車している車はその時には、1台も有りませんでした。車を止めて、灯台の方に向かいましたが、そこで思わず立ち止りました。ビックリしたのです。灯台に向かう道路、山の中の幅2メートル位でしたか、その道路に、大きなミミズ?、体長が30センチ以上有ったと思いますが、大きな虫が道路一杯に動いていたのです。足の踏み場が無い程では有りませんが、あれは気持ち悪かったですよ。すぐ傍を歩いても、跳び付いて来るとかの動作は見られませんので、そーっと、踏み付けない様に気を付けて歩きましたが、これには驚きました。灯台の足元には広場もあり、そこには変な生物はいませんでした。豊後灘を一望出来て、気分もスッキリ。灯台は無人の様で、立ち入りは出来ませんでした。
 帰り道は、駐車場の先へ進む道も有りましたが、その先は行った事が無かったので、来た道を引き返しました。帰り道には対向車と出会う事も無く、山を転げ落ちる心配もしなくで済みました。
 この佐賀関には取引先のガソリンスタンドが有る為、私も急ぎ便の時には会社から走った事も有りましたので、佐賀関の港付近までは、何度か走った事も有りました。しかし、佐賀関の街から裏山の灯台付近にまで走ったのは初めてでした。途中、普通車同士では対向困難な場所が有るとも知りませんでした。これから、車で向かわれる際には、その点をよくご承知の上、運転には気を付けて行かれる様、お勧めします。
 だけど、その山道に居た、大きなミミズ??、あれは一体何ていう名前の生物だったのでしょうか。その当時、会社の方にも伺ってみましたが、正確なお答えは得られませんでした。これは、今でも、何か信じられない様な、まるで別世界に行った様な、そんな思いが残っています。もし、ご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えて下さい。お願いします。

雨が降った翌朝、コーナー部分の大きな穴にビックリ!!

引っ越しを完了して、玄関前の植え込み、門扉、ガレージのアコーディオンフェンスの取付も終わり、やっと家らしくなりました。敷地の南側の庭には、業者の方に野菜等を植えたいと伝えたところ、黒い火山灰の入った土を、車1台分入れて下さいました。
 入居してから1週間位の時でしたか、大雨が降ったのです。別に、何とも思っては無かったのですが、翌朝、家の外に出てみてビックリ、住宅地の裏側、コーナー部分に水が溜まって、それが地中に流れ込んだのでしょう、土地が削られて、深い穴が出来ていたのです。このまま放置していると、更に穴は大きく深く、周囲の土が流されてしまうと思われますので、慌てて、新築をして頂いた業者の方に電話を掛けました。外部の下水道に連結する枡は1個だけは設置してありますが、屋内の排水用の雨水枡は全然取り付けていない・・・との事。屋根からの雨水は、敷地内に流されていたのです。一般の方でも取付は簡単に出来ますから・・・と、約30センチ角のコンクリート製の枡を7個と、10センチ位の塩ビのパイプを数本、持って来て下さいました。パイプの設置方等を教えて下さったので、後は家族4人でスコップ片手に、家の周囲に排水用の枡とパイプを設置しました。屋根から降りている雨どいの水を枡に入れて、それを次の枡に流して・・・・。全部で7個の枡を取付ました。この雨水を流す枡等の設置も、当然新築工事に含まれていると考えていましたが、私の会社の社長にお願いして、お知り合いの大工さんに新築をお願いしたので、どなたでも出来ますから・・・との事で、私達が作業をする事になったのです。ま、工事その物は、何の技術も不要で、水が流れる様に、少し高い位置に穴をあけて、次の枡には、少し低い所に取付けをすれば、雨水は自然とパイプを流れて、宅地の外に出せます。基本は簡単ですが、しかし、スコップで、雨水枡の大きな穴、パイプを埋め込む用の掘り下げ穴。普段、その様な工事はした事が無かったので、正直、大変でした。しかし、数時間かけて、家の周囲を一周するように、雨水枡、排水パイプを取りつけて、屋外に繋がっている枡に取り付ける事が出来ました。穴掘りの前に、庭に入れていた小石を表面に戻して、工事は完了しました。でも、屋根に降る雨水の勢いは凄いのですね。排水コースが無ければ、柔らかい部分を見つけて、地中に流れ込む為に、周囲の土を流して、大きな水路を地中に開けて・・・。その部分には、業者の方が、土を運んで来て下さったので、簡単に蓋は出来ました。裏のコーナー部分。柔らかい土が入ったところでしたので、そこには茗荷を植え込んで、一見落着。もうこれで、雨が降っても心配は不要です。雨水に、これ程の威力が有るとは知りませんでした。良い勉強をさせて頂きました。

2014年1月30日木曜日

庭の透明ガラスの外に、突然、だれか姿が・・・

大阪からの10トン車一杯の荷物も、アート引越センターの、その道のプロの方々のお手配で引っ越しは無事完了しました。引っ越しの時には未完成だった玄関前、入口の門扉、ガレージのアコーディオンも取付完了。やっと家族揃って大分での生活がスタートしました。娘の中学校は道路1本南側ですので、通学の心配も有りません。今迄、7ヶ月間とはいえ、初めての単身生活は、なかなか大変でした。スーパーはすぐ近くには有りましたが、やはり自炊というのは、ホント、考えていたよりも手間のかかるものでした。家族が一緒に生活となれば、仕事だけに集中できますので・・・。
単身の間、上司に連れられて、週の内、半分は大分の繁華街、都町で過ごしてはいましたが、それは、家族が大分に来ても、大きな変化は有りませんでした。でも、回数は以前よりは少なくはなりました。しかし、本社、九州支店等から、色々の方々が大分に来社される度に、私と社長で都町のご案内?  なかなか、大変でした。
 家族にも、初めての大分を教えようと、『割烹ほりかわ』をスタートに、スナックを数店、はしごもしました。そんな時でした、家内と娘を連れてスナックに行っていた時に、数人のお客が来店。その姿を見て、娘が声をひそめて「学校の先生やワ・・・」。両親が一緒やから、ま、良いか・・・と、カラオケを暫く楽しんで帰りました。勿論、先生方にも夫婦でご挨拶しました。だけど先生方も、ご両親とご一緒ですから・・・と、特にお咎めは無し。でも、後日、授業中に、又行ってるか? とか、言われたとか・・・。
 玄関は敷地の北側。鍵はかけてはいませんが、入口の扉、アコーディオンフェンスも取り付けて、勿論テレビインターフォンも取り付けていました。でも、やはり大分は、大阪とは少し違っていました。初夏の暑い日の夕方、風呂上がりで、敷地南側のリビングで、熊本産のスイカを食べていた時の事です。庭に面したガラス戸、塀に囲まれた庭側ですので、全面が透明のガラス戸でしたが、そこに突然、人の歩く姿が・・・。ナント、向かいの奥さん、お年は70は超えていましたが、その方が、近所で貰ったから・・・と、手にイッパイのトマトを持って来て下さったのです。慌てましたよ。お風呂上がりで、下着のまま、家内は入浴前でしたので、まだ助かりましたが・・・。表の入り口から入って来られたのでしょう。家の横を回って、南側の庭から突然みえたので、ホント、驚きました。ま、向かいの方ですから、チャイムは鳴らさなくても、せめて玄関辺りで一声かけて頂きたかった・・・と。
子供の頃は、岡山で生活していましたが、岡山でも、チョット、お声掛けはしてから入って来られたのですが・・・。それからは、例え風呂上がりでも、すぐにパジャマを着るとか、或いは南側にはレースのカーテンを引いておくとか・・・。ホント、最初の時はビックリしました。でも、少しずつ大分にも慣れて、休日には親子4人でトキハにも、又、時には少しだけ足を延ばして、吉田会館でお造り等を頂いたりしたものでした。


2014年1月28日火曜日

大分への引っ越しは 『0123』で・・・


 大分市泉町の新築工事、昭和63年3月半ばには住宅本体の工事が完了しました。玄関前の庭の工事等は未完成でしたが、入居は差し支えないとの事。単身赴任の住宅は民間の賃貸マンションでしたので、3月末迄には引っ越しを完了させようと考え、3月最後の日曜日の転宅を計画しました。若い頃の近距離の引っ越しは何度か経験していましたが、大阪から大分まで、子供達も中学生以上に成長してからの本格的な引っ越しは、全く初めての経験でした。当時テレビで流されていたコマーシャルは『0123』だけ。本格的な引っ越しは、ここしか知りませんでした。3月最後の日曜日に大阪で搬出、月曜日に大分へ搬入の計画で、『0123』に依頼。家族の移動も有る為、前々日の夕方、別府港からマイカーと共に『さんふらわー』で出発。翌朝、南港で下船、南港大橋を渡った辺りで、後部のガラスに異常を感じました。アレッ?と、ワイパーを掛けましたが、全然効果無し。ナント、驚きました。後部のガラスが割れていたのです。船中で何かトラブルが有ったのかもしれませんが、下船時には気が付かなかったので、仕方ありません。大阪の自宅に到着後、近くのカローラ店でガラスの修理を依頼。修理はその日に終わりました。割れた原因は、全く解らず、不本意では有りましたが、私の点検不足でしたので、仕方ありません。
 引っ越し荷物は、ある程度の準備は出来ていましたが、屋根の上のアマチュア無線のアンテナはそのまま。帰宅後、早速作業は屋根の上。ベランダに脚立を立てる事で、屋根の上には簡単に上がれましたので、当日は一人での作業でした。ルーフタワーに乗ったHFの2エレ、50MHzの5エレ、144MHzのスタック、7C2Vのケーブル等を取り外して、比較的簡単に終えました。取付時と違って、途中の測定等は不要ですので、スムーズに終了。引っ越しの当日、引越専門だけに、食器類等の専用ケース等で、全てお任せ・・・の状態で、どちらかといえば、見ているだけ・・・みたいな感覚でした。積み込み完了後は、手許用品だけをマイカーに積み込んだ上で、ご近所に、ご挨拶。再び、向かったのは大阪南港。午後7時の出航時、家族みんなでタラップからテープが投げられる風景を眺めていましたが、単身での出発時とは大違い。出航の寂しさは、この時は全然有りませんでした。1人の時とは大違いでした。いつもと違って、船室も定員4人の部屋。僅かでしたが、畳もあり、家族でゆっくり。私以外は全員が『さんふらわー』は初めてでしたので、船内を私が案内。ホント、一人の時とは大違い、その時、家族って良いな・・・と、思ったものでした。みんな一緒に、神戸港の乗下船風景を眺め、又、瀬戸大橋通過をも確認しました。
 翌朝、別府港でマイカーに乗って下船してからは、7ヶ月間走った道路、運転をしながらまるでバスガイド。何しろ、私以外は、全員が別府から大分へは初めて。右や左を眺めながら、泉町の新居に到着。引っ越しトラックの到着を待ったのです。ところが、大変な事になりました。自宅前の道路は4m道路。ナント、10トントラックが入って来られないのです。どうしようか・・・と、私達は慌てましたが、やはり餅屋は餅屋。便利屋さんの軽トラックが2台、駆け付けて下さったのです。30m程手前に止まったトラックから、折り返し運転をして下さって、全て無事に搬入は完了しました。最後に、請求書を出されて、これは会社宛に請求します・・・との言葉に、何も知らない私は、今、支払いましょうか?・・・、幾らですか?・・・。70万円・・・の言葉を聞いて、そんなの今は持って無いわ。請求して・・と、慌てて言ったものでした。距離を考えずに、安易に、良くも言ったものです。家具等は設置予定の場所に全て配置済みですので、後は比較的ユックリ。家族揃って初めての大分の夜。歌って踊って・・・(そこ迄はホントはナシ)。泉町での生活がスタートしました。

2014年1月24日金曜日

大分でも新築、設計図は自作しました。

昭和62年1月に、大阪で新築住宅に入居したばかりでした。そこに突然7月に転勤命令。7月に1週間の引き継ぎを完了、8月には、マイカー1台分の家財と共に、大分市に単身赴任を完了。一応会社からの指示では、4年間の大分勤務の予定でしたが、家族会議の結果、翌年、昭和63年の春家族全員で、大分に転居と決定。新築したばかりの大阪の自宅、如何にするか検討しましたが、売却する事にしました。短期間の転勤では有りますが、大分市でも新築しよう…と、早速、宅地を探したところ、十条近くの不動産屋さんで、50坪弱の宅地を進められ、泉町の宅地を購入。大分の50坪は、大分の方々には狭い宅地かもしれませんが、大阪の感覚では、充分な面積でした。早速、住宅の設計にかかり、別府市の一級建築士の方に設計をお願いしましたが、出来た設計では、部屋数が少なく、親子4人が生活するには耐えられないものでした。そこで、方眼紙を購入して、私が図面を描いたのです。LDKは16畳の広さですが、それ以外の部屋は6畳の部屋を4室、各階にトイレ、私の書斎は変形の4畳。この設計図を一級建築士の方に見て頂いたところ、これは良いわ・・・と、お褒めのお言葉を頂きました。ところが、私の書いた設計図、根本に誤りが有ったのですが、それは、基礎工事等が終わった段階で初めて気付いたのです。
私はA4の方眼紙、1cmを3尺として図面を作成しました。1間は6尺、1間は180cmである・・・と、認識の誤りが有りました。大阪では、それで充分通用していたのです。しかし、後から聞いたところ、1間は182cmで建築する…との事。関西間とか、江戸間、団地サイズとか、いろいろありますが、大分では182cm。この結果、裏側に設けたキッチンの裏口、ドアを開けると、通路一杯になってしまいました。地方毎に、畳1枚の大きさを、良く聞いておくべきでした。しかし、普段はあまり使わない裏口でしたので、大きな問題では有りませんでしたが・・・。
 玄関は純和風の構え、屋根は、入母屋にしたかったのですが、ご近所との釣り合いが悪い・・・との事で、寄棟にしました。表の駐車場は広く、又、玄関前には植え込みも出来る様。
3月末には入居が出来る様、1月の成人の日、家族も大分に招いての棟上げを完了。それからは日曜日毎に、建築の進行状況をビデオ撮影して、ビデオレターとしてテープを送付、着々と工事は進みました。又、2か月に1回は、大阪の本社で会議が有りましたので、その時にも家族に報告、春の全員の転居を楽しみに、飛行機で大分の職場に向かっていました。伊丹空港を1番機で出発すれば、会社の始業と同時位に到着できましたので、大阪の自宅での宿泊を楽しみにしていたものです。初めての遠距離の引っ越しでした。1軒、全ての引っ越しですので、10㌧トラック1杯になる予定で、その頃、テレビ等で良くコマーシャルを流していた引越専門の方にお願いしました。

2014年1月18日土曜日

突然、私の目の前で昏倒・・・・、 今週月曜日の出来事・・・

昨年の4月から、大阪医科大学、腎臓内科の先生の指示により、血液透析を始めています。最初は2時間でしたが、周囲の方々とペースを合わせる事も必要になり、現在では毎回4時間、毎週月、水、金曜日の午前8時45分から。各ベッドには、個人専用に小型のテレビが設置されており、イヤフォンで時間を過ごしています。最初に血液透析用に2本の注射針を刺して、透析器を経由して再び体内に戻す、その透析行為、4時間、じっと辛抱しています。1時間おきに血圧を測定して異常が有れば、直ちに中止して、回復を図る・・・といったものです。透析によって、血液中の、本来であれば腎臓で抜き取られる筈の不純物、主として水分ですが、それを透析によって除去しているのです。症状の酷い方ですと、毎回4キロ以上の除去をしているとか・・・。私の場合には、未だ症状が軽い為、毎回1キロ未満の除去ですが、4キロも除去されると、大変な負担だろうと思います。一度に4,000ccもの血液を抜かれると考えると、ホント、震え上がる思いがします。
 今週の水曜日、15日でした。透析を終えてロッカールームに戻って、パジャマから着替えていた時の事です。私のロッカーは入り口側に有りますが、そのロッカーの裏側、コトコトと、時たま弱い音がしていましたが、ああ、何方か、着替えていらっしゃるのだな・・・と考えていました。私の着替えがほぼ終えかけた時に、別の患者さんが更衣室に入って来られて、ロッカーの裏側に行かれました。そこで、暫くした時に突然、「アンタ、どないしたん? 大丈夫か? 手を貸そうか・・・?」と、大きな声がロッカーの裏側から聞こえました。その次の瞬間、ドターッ!!と、何かが落ちた様な音がしたので、私も驚いて音の方向をみると、ナント、驚きましたよ。そこに、人が倒れて来たのです。倒れても全然動く気配無し。続いて大きな声で『誰か呼んで!!  誰か読んで!!』との叫び声で、私は咄嗟に、入り口横に有った非常ボタンを押しました。すぐ、女性の看護師さんが飛び込んで来られて、顔を叩きながら、お名前を呼んでおられましたが、「先生を呼んで!!」と、悲痛な叫び。すぐ、二階の先生に連絡、先生も飛び込んで来られました。診察室へ・・・との事で、その患者さんと先生、看護師の皆さんは診察室へ移動して、更衣室は、やっと静かになりました。診察室へ向かう時、先生は脱いだ靴を履く暇も無かったのでしょう。靴は更衣室の入り口に脱いだままの状態で残されていました。
 私も着替えを終えて、更衣室の入り口で靴を履いている時に、先生がそこに戻って来られて、無言のまま、ご自分の靴を履いて出て行かれました。その先生のお姿を拝見して、ああ、亡くなったんだな・・・と、感じました。そうでなければ、心臓マッサージ等で、靴を履きに戻ってみえる余裕は無い筈です。表の待合所に行った時に、受付の方が消防署でしょう、電話をなさっていました。救急車の手配でした。腎臓内科のクリニックでは、死亡の判定まではなさらないのかどうか。私達が迎えのタクシーに乗った時に救急車がサイレンの音もけたたましく、走って来ましたが、クリニックの正面には停車しないで、一本先の道路を曲がって行きました。エッ、何故ここに止まらないの?と、思いましたが、あっ、そうか、そういう配慮か・・・と、気が付きました。いくら、小さなクリニックであれ、正面に救急車を止める事には抵抗が有って、裏口に行ったのか・・・と。
 昨日、透析開始の際に、その看護師に尋ねたところ、やはり駄目だったそうで。83歳の方だったそうです。
 私の目の前で、突然亡くなる方を見ましたが、全く初めての事で、やはり、色々な事を考えさせられました。今迄も、葬儀等での対面は経験していますが、その現場の経験は初めての事です。私も何時、この様な事になるのか・・・と。年齢は、もう少しは有るものの、いつ、そうなっても悔いの残らないようにしないと・・・と、ホント、考えさせられました。今回は、過去の想い出話では無く、強烈な出来事が有りましたので、ここに、書かせて頂きました。次回からは、再び、前回に続く内容で書かせて頂きますので、宜しくお願い致します。

2014年1月11日土曜日

朝、宿泊していた本社の社員が行方不明!!

大分パークインホテル
大分販売に着任して暫くした頃でした。大分市、中津市、佐伯市に営業所が有りましたが、日曜日を利用して全社員が集合、営業会議を催す事になりました。全社の営業会議ですので、オブザーバーとして、親会社の本社、タイヤ営業部の課長と、今年入社したばかりの若い方、2名の方が、営業会議の前日、遠路、大分にお越しになりました。その日は、歓迎の宴、都町の割烹ほり川で食事の後、スナックを数軒、スナック小林、スナック津軽をまわった後、社長は代行運転で帰宅、私はタクシーで、お二人をパークインホテルにお送りした後、私のマンションに帰りました。翌日の会議は、午前9時からの予定でしたので、8時過ぎにはお迎えに伺います・・・と、お伝えしての帰宅でした。
翌日は朝から良い天気に恵まれました。お二人をお迎えに、社長専用車のセダンでお迎えに、サニーストんホテルまで出掛けました。お二人をお迎えした後、一度会社に戻って、車を社長に返してから、私は別の車両で会議の会場に向かう予定でした。前日に約束した8時でしたが、ロビーにはお二人の姿は未だ有りませんでした。でも、もうみえる事と、私はロビーで暫く待っていたのですが、一向にお二人が出て来られないのです。フロントの方にお願いして、お部屋に電話を掛けて頂いたのですが、一向に応答なし。そうしているところへ、課長がお一人だけでロビーに出て来られました。若いA君の姿が見えない・・・との事です。お二人はシングルの部屋を利用していましたので、お部屋は別々でした。再び、フロントの方にお願いしてA君の部屋に電話を掛けて頂きましたが、応答は無し。朝食中かも…と、地下に有るレストランにまで行ってみましたが、どこにも姿は有りません。係の方に尋ねても、朝食を取った形跡も有りませんでした。会社では、私が迎えから戻って来るのを待っている筈です。会社宛に電話連絡もしました。A君の姿が見えないので、今探している・・・。少し時間が掛かるかも知れないので、会議の会場までは、こちらから直接向かうので、社長はそちらの車で向かって下さい・・・と。
これ以上、探す所も無い・・・との事で、フロントの方にお願いしてA君の部屋のドアを開けて頂いたのです。部屋に入って、ビックリ! ナントA君がベッドの横、床の上に転がっていたのです。頭をドアの方に向けた状態で、浴衣の前をはだけた状態で、目は開いていました。二日酔いかと、一瞬思いました。しかし、話しかけても応答は一切無し。目は動いていましたので、肩を軽く叩いて、どないしたん?・・・と、声を掛けましたが、相変わらず返答は有りません。部屋の中、周囲の壁にまで嘔吐したのでしょう、汚物がまき散らされた様な状況になっていたので、余計に驚きました。これは一大事!!と、ホタルの方に救急車をお願いしました。会社宛にも再度電話を掛けましたが、ここまでの非常事態は想像も出来無かったのでしょう。会議に遅れるなよ!!と、きつく叱られる始末。
A君には課長が救急車で同行して、私は取り敢えずは、会議会場に向かいました。
営業会議は一応、予定通りに始まりました。始まってから30分もしない所へ。A君に同行していた課長から電話連絡。『くも膜下出血』で、緊急手術をする。輸血の必要もあるかも知れないので、『B』型の血液の人は集まって欲しい・・・との事。その段階で、営業会議は中止となり、私は血液型は違いますが、病院にまで駆けつけました。手術に備えて、A君の頭髪は剃りあげられて、丸坊主になっていました。手術には身内の方の了解が必要…との事で、病院から、ご両親に電話で了解を頂いたとか。非常時には、裏の方法が有るのでしょう、私達全員、A君の自宅電話番号等は知りませんでした。手術の日の夕方には、A君のお母さんが大分に来られました。一日や数日では退院できないと想像出来ましたので、お母さんのお考えを確認した後、私は滞在できる所を探しました。ホテル住まいでは大変ですので、病院から近くの賃貸マンションを探し出して、取りあえずの生活が出来る様、布団等も家内の応援も得て、準備する事が出来ました。
 それから毎日、面会時間には必ずICUにお伺いしましたが、一向に回復の兆しは有りませんでした。それから、10日以上後だったと思いますが、やっと意識が回復して、数ヵ月後には退院、大阪へ帰って行かれました。
 職場復帰は難しいかと思っていましたが、6年後、私の転勤で大阪本社に帰った所、部門は化成品に移ってはいましたが、元気なA君と言葉を交わす事が出来ました。ホント、この様な大変な事も経験しました。

2014年1月10日金曜日

会社が休みの日、話し相手を求めて・・・

中春日町の交差点、中央は豊和銀行本店
大分市中春日町、賃貸マンションの一室での、単身生活がスタートしました。学生の頃には、下宿等の経験は有りましたが、結婚してからの一人住まいは初めての経験でした。会社を終えて、帰宅の途中、スーパーで夜の食事、総菜等を持ってレジに行くと、「今日もお疲れさまでした・・・」と、レジの方からお声掛けを頂いていました。一応、自炊生活でしたので、野菜、肉、魚等も買って帰宅したものです。会社の業務は、私の得意とする分野でしたので、特に苦労とか感じる事も無く、平穏に過ごしていたのです。平日は、会社でも色々と当然会話も有るので、別に何とも思ってはいなかったのですが、休日となると話し相手は、誰一人有りません。休日の一日、朝から一言も口を利かないでいると、何か非常に寂しい思いを抱いてしまいます。そこで、朝からその日、及び一週間の献立をある程度考えて、調理等、準備を終えた段階で、買い物に出掛けていました。中春日町から大分駅前までは、歩いても10分位でしたか、国道10号線を駅の方に向かいました。パークインホテルの裏辺りでしたか、若草公園、確かここには蒸気機関車の展示が有ったと記憶しているのですが、どうも、現在では無くなっているみたいです。
その若草公園の東側に百貨店では無いですが、スーパーよりも大きな店、長崎屋?。記憶は正確では有りませんが、そのお店に入って、色々と物色、何か、あっ、これ良いな・・・と思ったら、その品物に付いて店員の方に説明を求めるのです。あれやこれやと、丁寧に教えて頂きました。時には、その品物を買う事も有りましたが、説明して頂くだけで、帰る事も有りました。店員さんと、僅かですが会話をする事で、何となく心が休まる思いがしていたのです。休みの日、一日中、誰とも話さないでは、何か、頭がおかしくなる様な、そんな感覚も抱いたものでした。店員さんにとっては、ご面倒をお掛けしましたが、でも、時には実際に購入もしましたので、お許し頂ける事と思います。
 当時、アマチュア無線もやっていましたので、ベランダに144MHzのホイップアンテナを立ててみましたが、どうも、私の関西なまりが嫌われている様で、お友達は中々出来ませんでした。144MHzで、近畿地方との交信は、アンテナ等が不充分でしたので、交信は不能でしたし、長距離用のHF帯の無線機も手許には有りましたが、ベランダからは、その大型アンテナを立てる事は不可能でしたので、HF帯は通信不能でした。
 自炊では、休日にシチュー類を良く作りました。シチューは作るのも簡単だし、少し多めに作っておけば、温めるだけで食べられるので、重宝しました。最近では、シチューを作るのにも、シチュー用のルーが販売されているので便利になりましたね。この当時は、シチュー用、カレー用共、ルーを自分で作っていたのです。市販のルーなんて、未だ販売はされていませんでした。フライパンで小麦粉を油で炒めて・・・。作ったルーが、粉の塊にならない様に、丁寧に作ったものです。
会社帰りに、お造りでも買い足せば、それだけで充分。昼食は出前か、時にはすぐ西側に有ったファミレス(ジョイフル)に行く事も有りましたが、どちらかといえば、近くの中華専門のお店からの出前で済ませていました。炊事場には、買って来た根の付いた三つ葉、グラスに入れて、毎朝のみそ汁に2,3枚ずつ使用。朝食はみそ汁、漬物、時には焼き魚とか・・・。
 大阪の家を新築したばかりでしたが、家族も翌年の4月には、全員で大分に転居する事になりました。新しい家、転居後どうしようかと考えましたが、この次大阪に転居する時、元の家に戻るのも嫌だ・・・と、大阪の家は売却する事に決めたのです。短期間だけの駐在では有っても、ここ、大分で新築しよう…という事になったのです。どこにするか・・・、探し回りました。駅から遠ければ、価格は安いけど、地理不案内の場所では困るし…と。不動産屋さんを何件も回って・・・、決めました。
大分市泉町・・・。48坪。大分では狭いかもしれませんが、大阪の感覚では、広過ぎる位でした。

2014年1月9日木曜日

大分の想い出、ナント言っても『うどん博士』

柳通りの『うどん博士』本店です
大分の新しい住いには、日曜日の朝、別府経由で到着。新たな職場からは歩いて5分も掛からない位の距離、一つ目の信号の所でした。その当時、プールが運営されていたビルの4階、引っ越し荷物はタウンエース1台分ですので、入口近くに車を止めて、エレベーターを使って一人で運びました。若かりし頃には、下宿もアパートも経験していましたが、結婚してからの一人住まいは初めてでした。休めるだけの整理をした後、国道10号線の向かい側、当時はそこにスーパー、ラッキーだったと思いますが、食事の材料を求めに行きました。自宅では完全な自炊生活の始まりでした。しかし、当然、昼食は外食でしたが、ある日、社長に誘われて昼食に出掛けました。『うどん』でも良いですか?と尋ねられましたが、特に嫌いでも好きでも無かったので、初めてのうどん店に向かいました。着いたお店は『うどん博士』、この時は中島十条交差点から少し南に入った所のお店で、本店では有りませんでした。昼食としてうどんだけで済ませた事は、それ迄、一度も経験が無かったので、メニューを見ても、何をお願いしたら良いのか解らなかったのですが、それなら・・・と『特性うどん』を発注して頂きました。まあ、一度食べてみて下さい・・・との事でしたが、配膳された『特性うどん』を一目見てビックリ。普通のうどんを考えていたのですが、その丼の大きさに、まずビックリ。丼の直径がまるでラーメン用の丼位の大きさで、下が深く丸くなった丼、そこに、山芋の一杯入ったうどん。
思わず「ウワーッ! こんなに沢山、食べられへんわ・・・」と言ったのですが、まあ食べてみて下さい・・・。思い切って箸を付けましたが、そのうどんの美味しい事、美味しい事。平気で食べ尽くしました。社長はこのうどんが好きで、良く食べに通っているとか。なるほどなあ・・・と、そのうどんの美味しさには、ホント、私自身初めての出会いでしたので、驚きました。柳通りの本店のほか、もう一軒、大分市内には全部で3店の『うどん博士』が有ると伺いました。今迄、昼食はご飯をメインにして、うどんを軽く食べていたのですが、このうどんには、ご飯などは不要です。うどんだけでホント十分でした。量が多いだけでは無くて、その味わい深さに感銘を受けたのです。暫くしてからですが、私も『うどん博士』の虜になってしまいました。私が常に注文したのは『かま揚げ』でした。茹で上げのうどんを大きな平鉢に一杯の大盛り、それがあっという間に無くなる位にホント、美味しかったです。その『釜揚げうどん』は、大きな平鉢に盛り上げての配膳でしたので、普通の方でしたら、それだけで皆さん、満足なさるでしょうが、社長と私の二人が一緒に出掛けた際には、その『釜揚げ』のお代わりをしたのです。お代わりを注文したのは誰や・・・と、お店の方がわざわざ、私達の顔を確認に見えた事も有った位です。ちなみに、『釜揚げうどん』のお代わりは無料だったのです。大分を離れた今でも、『釜揚げうどん』の美味しさを思い出して、自宅でうどんを茹でて、釜揚げとして食べる事が良く有ります。しかし、その麺は、探し抜いた揚句、岡山の『かも川うどん』の太麺が私にはベストだと考えています。茹で上げた段階で、普通は水洗いしますが、水洗いをしないで、湯を切っただけで、つけ汁て食べるのです。今日、Googleの地図で『うどん博士』本店を探した所、今も従来の構えで存在していましたので、安心しました。しかし、今から20年以上前でしたので、大分市内も大きく変化をしているみたいでした。日豊本線が高架になっていたのでビックリです。大道の高架橋などは、その姿が全然有りませんでした。今、大分市を尋ねて行っても、多分、道に迷うでしょう。
もしこの次に大分市に行く機会が有れば、もう一度、是非『うどん博士』に行きたいと考えています。従来は別大マラソンのコース沿いだったのですが、マラソンコースが変更になったので、テレビで『うどん博士』の姿を見えなくなったので、残念な事です。それから、舞鶴橋の所の西鉄グランドホテル、無くなったのですね。会社の催し等で、何度も利用させて頂いていたのですが・・・。向かい側の商工会議所はそのままでした。この商工会議所も、業務の関係で、何度か出掛けましたが・・・。

2014年1月7日火曜日

関西汽船で、車一台の荷物と共に大分へ

関西汽船のさんふらわあ 当時はもう一代前の型でした
新たな勤務地での引き継ぎ、1週間を終えて、帰途は初めてのホーバークラフト。大分川下手のホーバー基地まで社長の車で送って頂いて大分空港へ向かいました。飛行機は今回で二回目の利用でした。でも、空港のゲートを通ってから、実際に機内に案内されるまでの、その時間の長いのには参りました。ゲートから中に入って・・・、でも何もする事は無く、ただベンチに座っているだけ。空港を離陸すると、窓の外はすぐに海の上でした。最短距離の瀬戸内海縦断かと思っていましたが、南に回って高知県の土佐湾辺りを経由して、紀伊半島から伊丹空港に向けて着陸態勢。高知県から和歌山の海岸線など、頭の中の日本地図を思い出しながらの飛行でした。今から思えば、1週間という短い間でしたが、出張等で2日以上。家を空けた事は初めての経験でしたので、久し振りの帰宅で、ホント、ヤレヤレ。
次の日からは、本社経理部での引き継ぎ開始。この当時は、全社の経理システム関係を担当していましたので、システム部等との引き継ぎもあり、中々大変でした。この当時の経理システムが起動する時には、そのシステムに登録する取引先コード等は私の担当でしたので、5桁の取引先コード、約10万件近くを、私一人で入力変更。全社システムが無事に立ち上がっていましたので、その点は助かりました。稼働前でしたら、ホント大変でしたが・・・。
 自宅内では、単身赴任に備えての準備が始まりました。賃借のマンションですので、当然ながら賄いは有りません。自炊用の包丁、まな板等を買い揃え、又、電子レンジ、トースター等も新たに購入しました。この当時は、タウンエースに乗っていましたので、引っ越し便は無し。1台の車に全てを積み込んでの赴任でした。赴任は、長距離運転では無く、関西汽船を利用しました。関西汽船の利用も初めてでしたが、地図の上で、大阪南港の付近を頭の中に叩き込んでの出発でした。港まで見送りに行こうか・・・と、家内の提案も有りましたが、自宅までの帰りが大変だから・・・と、見送りはキャンセル。初めての大阪南港は遠くに感じられました。南港大橋に辿り着いた時には、ヤレヤレと思った程です。フェリーに乗るのも、全くの初めて。車を載せて、指定されたペッドに付きましたが、同室の皆さんは、勿論未知の方々でした。出航時はデッキに出て港を眺めていると、定刻、ドラが
鳴らされて、岸壁に向けてテープが投げられました。今迄、出航は、宇高航路でも経験は有りますが、高いデッキから岸壁を眺めながらの出航は初めてでした。その時、思いました。見送りを断っていて良かった・・・と。もし、見送りに来ていたら、テープを投げて、多分泣いただろーな・・・と。出航の寂しさを、凄く感じたのです。知り合いは誰もいませんでしたが、離れる岸壁の写真は撮影しました。出航後、部屋には一時戻ったものの、初めての方々と話す事も無く、ベッドに転んでいましたが、神戸到着との事で再度甲板へ。大阪南港から乗って、神戸で下船する方も多いのですね。乗用車が何台も降りて行きました。再び出航しましたが、周囲は真っ暗の闇の中。ベッドに戻ってもする事も無いし、調度この頃開通した瀬戸大橋を眺めよう・・・と、甲板で待つ事にして、持参した144MHzのアマチュア無線のハンディ機で交信を試みてみたり。しかし、普段話している方々とは遠過ぎて交信は不可能でした。神戸から岡山の瀬戸大橋まで、すぐだろう・・・と考えていたのですが、真っ暗の中、凄く遠くに感じました。遠かったですよ、ホント。午前0時を過ぎて、やっと瀬戸大橋の下を通過、照明も無い真っ暗な瀬戸大橋をやっと通過して、ベッドに入りました。ひと眠りして、今度は是非、日の出を見よう・・・と、早めに起き出して甲板へ。豊後水道に掛かって、その先に九州の地が見え始めたのですが、長い時間が掛かりました。別府港に接岸する状態を確認したかったのですが、ドライバーは車に乗る様にとの船内放送で、止む無く車へ。初めての別府港、フェリーの桟橋から降りて、国道10号線に乗った時、引き継ぎの時に走った時とはまた違った、新天地に付いた・・・といった感激を味わったものでした。ホント、初めての単身赴任でしたから、その思いは大きな物が有りました。別府港内から国道10号線に出た時、別府市内から別大の海岸線に入った時。全く初めての地に入る様な深刻な感じを抱いたものでした。4年間との期限付きの赴任でしたが・・・。

2014年1月5日日曜日

管理部長引き継ぎ! 営業以外は全てが私の担当!!

和食の懐石料理、大分都町の 割烹ほり川でした
私の勤務していた会社は、自動車用タイヤの製造をメインとする企業で、世界中に拠点を設けていましたが、国内では各都道府県別にタイヤ販売の子会社が設立されていました。入社当初の4年間は、タイヤの知識を学ぶ為に、近畿地区のタイヤ販売会社に出向して、タイヤの営業を経験。実際に店頭でのタイヤ交換、ホイルバランスの調整、冬用のタイヤにスパイクを打ち込む等の作業、ガソリンスタンド、タクシー会社、大手運送会社等への営業活動等、タイヤ販売に関する全てを習得しました。その後、本社財務部で4年、兵庫県の工場で4年、京都の販売会社で総務課長を務めた後、本社経理部から大分販売への転勤です。この大分販売は、メーカーからの出向者は私一人だけ。他は全ての方が現地、大分の方々です。私の業務は、タイヤ営業以外の全てが私の担当でした。役職名は管理部長。会社の業務は営業をメインとする会社ですが、その中で営業以外を処理するのは、私と、若い女子事務員の方一人だけでしたので、それは大変でした。県庁、市役所、税務署、法務局、職安、会計事務所、警察等々、との折衝、全てが私の業務でした。銀行との折衝等については、本社財務部で、全部で36行の銀行と取引が有りましたので、その点はマスターしていましたが、それ以外は、全く初めてでしたので、本当に大変でした。でも、これも私の経験ですので、一週間の引き継ぎには、本当に真面目に取り組みました。
 今迄も、何ヵ所かの転勤は経験ありましたが、それは全てが関西地区内でした。初めての九州で、その慣習、生活内容の違いには、驚く物が有りました。赴任初日は、ご同行して頂いた九州支店の支店長と共に、現地の社長と3人で、料亭での食事でした。懐石料理で充分に満足したのですが、それだけでは終わりませんでした。近くのスナックを数軒、お伴をさせられました。初めてのホテルに入ったのは、深夜を回っていました。ま、初日だから仕方ないか・・・と、考えていたのですが一日だけでは有りませんでした。次の日、支店長は1泊だけで、次の日は姿が有りませんでしたが毎晩、毎晩、私の夕食はいつも現地の社長とご一緒。スナックもご一緒。私からの支払いは一切無し。驚きました。毎晩外食で、毎晩スナック、バー、ラウンジ等で過ごさせて頂いたのです。大分では、繁華街は都町。大分市内のほぼ中心部で、駅からも近い場所で、全てが揃っていました。毎晩、食事、飲食の後、社長の通勤車は代行運転で帰宅。私はホテルまでタクシーで帰着。驚きました。それ迄、関西では外食といえば、忘年会か新年会等、特別な日に限られていたのですが、本当に毎晩。参りました。それと、スナック等では、カラオケが付き物です。私は、それ迄カラオケ等は全く経験していませんでした。でも、覚えざるを得ない状況。一つしか知らなかった歌、香山雄三さんのお嫁においでよ。強引に歌わされました。いつの間にか、カラオケがセットされ、ホント、初めて歌わされました。又、スナック等でも、キープするのは洋酒では無くて、一升瓶の焼酎。雰囲気が関西とは全く異なりましたが、少なくとも、約束の転勤期間、4年間を無事まっとうする為に、努力しなければ・・・と、覚悟を決めたのでした。(これは昭和62年の想い出のお話です。ブログ上、前回から継続のつもりで、時期を書いていませんでした。現在のお話では有りません)