2014年1月11日土曜日

朝、宿泊していた本社の社員が行方不明!!

大分パークインホテル
大分販売に着任して暫くした頃でした。大分市、中津市、佐伯市に営業所が有りましたが、日曜日を利用して全社員が集合、営業会議を催す事になりました。全社の営業会議ですので、オブザーバーとして、親会社の本社、タイヤ営業部の課長と、今年入社したばかりの若い方、2名の方が、営業会議の前日、遠路、大分にお越しになりました。その日は、歓迎の宴、都町の割烹ほり川で食事の後、スナックを数軒、スナック小林、スナック津軽をまわった後、社長は代行運転で帰宅、私はタクシーで、お二人をパークインホテルにお送りした後、私のマンションに帰りました。翌日の会議は、午前9時からの予定でしたので、8時過ぎにはお迎えに伺います・・・と、お伝えしての帰宅でした。
翌日は朝から良い天気に恵まれました。お二人をお迎えに、社長専用車のセダンでお迎えに、サニーストんホテルまで出掛けました。お二人をお迎えした後、一度会社に戻って、車を社長に返してから、私は別の車両で会議の会場に向かう予定でした。前日に約束した8時でしたが、ロビーにはお二人の姿は未だ有りませんでした。でも、もうみえる事と、私はロビーで暫く待っていたのですが、一向にお二人が出て来られないのです。フロントの方にお願いして、お部屋に電話を掛けて頂いたのですが、一向に応答なし。そうしているところへ、課長がお一人だけでロビーに出て来られました。若いA君の姿が見えない・・・との事です。お二人はシングルの部屋を利用していましたので、お部屋は別々でした。再び、フロントの方にお願いしてA君の部屋に電話を掛けて頂きましたが、応答は無し。朝食中かも…と、地下に有るレストランにまで行ってみましたが、どこにも姿は有りません。係の方に尋ねても、朝食を取った形跡も有りませんでした。会社では、私が迎えから戻って来るのを待っている筈です。会社宛に電話連絡もしました。A君の姿が見えないので、今探している・・・。少し時間が掛かるかも知れないので、会議の会場までは、こちらから直接向かうので、社長はそちらの車で向かって下さい・・・と。
これ以上、探す所も無い・・・との事で、フロントの方にお願いしてA君の部屋のドアを開けて頂いたのです。部屋に入って、ビックリ! ナントA君がベッドの横、床の上に転がっていたのです。頭をドアの方に向けた状態で、浴衣の前をはだけた状態で、目は開いていました。二日酔いかと、一瞬思いました。しかし、話しかけても応答は一切無し。目は動いていましたので、肩を軽く叩いて、どないしたん?・・・と、声を掛けましたが、相変わらず返答は有りません。部屋の中、周囲の壁にまで嘔吐したのでしょう、汚物がまき散らされた様な状況になっていたので、余計に驚きました。これは一大事!!と、ホタルの方に救急車をお願いしました。会社宛にも再度電話を掛けましたが、ここまでの非常事態は想像も出来無かったのでしょう。会議に遅れるなよ!!と、きつく叱られる始末。
A君には課長が救急車で同行して、私は取り敢えずは、会議会場に向かいました。
営業会議は一応、予定通りに始まりました。始まってから30分もしない所へ。A君に同行していた課長から電話連絡。『くも膜下出血』で、緊急手術をする。輸血の必要もあるかも知れないので、『B』型の血液の人は集まって欲しい・・・との事。その段階で、営業会議は中止となり、私は血液型は違いますが、病院にまで駆けつけました。手術に備えて、A君の頭髪は剃りあげられて、丸坊主になっていました。手術には身内の方の了解が必要…との事で、病院から、ご両親に電話で了解を頂いたとか。非常時には、裏の方法が有るのでしょう、私達全員、A君の自宅電話番号等は知りませんでした。手術の日の夕方には、A君のお母さんが大分に来られました。一日や数日では退院できないと想像出来ましたので、お母さんのお考えを確認した後、私は滞在できる所を探しました。ホテル住まいでは大変ですので、病院から近くの賃貸マンションを探し出して、取りあえずの生活が出来る様、布団等も家内の応援も得て、準備する事が出来ました。
 それから毎日、面会時間には必ずICUにお伺いしましたが、一向に回復の兆しは有りませんでした。それから、10日以上後だったと思いますが、やっと意識が回復して、数ヵ月後には退院、大阪へ帰って行かれました。
 職場復帰は難しいかと思っていましたが、6年後、私の転勤で大阪本社に帰った所、部門は化成品に移ってはいましたが、元気なA君と言葉を交わす事が出来ました。ホント、この様な大変な事も経験しました。

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