昭和62年1月に、大阪で新築住宅に入居したばかりでした。そこに突然7月に転勤命令。7月に1週間の引き継ぎを完了、8月には、マイカー1台分の家財と共に、大分市に単身赴任を完了。一応会社からの指示では、4年間の大分勤務の予定でしたが、家族会議の結果、翌年、昭和63年の春家族全員で、大分に転居と決定。新築したばかりの大阪の自宅、如何にするか検討しましたが、売却する事にしました。短期間の転勤では有りますが、大分市でも新築しよう…と、早速、宅地を探したところ、十条近くの不動産屋さんで、50坪弱の宅地を進められ、泉町の宅地を購入。大分の50坪は、大分の方々には狭い宅地かもしれませんが、大阪の感覚では、充分な面積でした。早速、住宅の設計にかかり、別府市の一級建築士の方に設計をお願いしましたが、出来た設計では、部屋数が少なく、親子4人が生活するには耐えられないものでした。そこで、方眼紙を購入して、私が図面を描いたのです。LDKは16畳の広さですが、それ以外の部屋は6畳の部屋を4室、各階にトイレ、私の書斎は変形の4畳。この設計図を一級建築士の方に見て頂いたところ、これは良いわ・・・と、お褒めのお言葉を頂きました。ところが、私の書いた設計図、根本に誤りが有ったのですが、それは、基礎工事等が終わった段階で初めて気付いたのです。
私はA4の方眼紙、1cmを3尺として図面を作成しました。1間は6尺、1間は180cmである・・・と、認識の誤りが有りました。大阪では、それで充分通用していたのです。しかし、後から聞いたところ、1間は182cmで建築する…との事。関西間とか、江戸間、団地サイズとか、いろいろありますが、大分では182cm。この結果、裏側に設けたキッチンの裏口、ドアを開けると、通路一杯になってしまいました。地方毎に、畳1枚の大きさを、良く聞いておくべきでした。しかし、普段はあまり使わない裏口でしたので、大きな問題では有りませんでしたが・・・。
玄関は純和風の構え、屋根は、入母屋にしたかったのですが、ご近所との釣り合いが悪い・・・との事で、寄棟にしました。表の駐車場は広く、又、玄関前には植え込みも出来る様。
3月末には入居が出来る様、1月の成人の日、家族も大分に招いての棟上げを完了。それからは日曜日毎に、建築の進行状況をビデオ撮影して、ビデオレターとしてテープを送付、着々と工事は進みました。又、2か月に1回は、大阪の本社で会議が有りましたので、その時にも家族に報告、春の全員の転居を楽しみに、飛行機で大分の職場に向かっていました。伊丹空港を1番機で出発すれば、会社の始業と同時位に到着できましたので、大阪の自宅での宿泊を楽しみにしていたものです。初めての遠距離の引っ越しでした。1軒、全ての引っ越しですので、10㌧トラック1杯になる予定で、その頃、テレビ等で良くコマーシャルを流していた引越専門の方にお願いしました。
私はA4の方眼紙、1cmを3尺として図面を作成しました。1間は6尺、1間は180cmである・・・と、認識の誤りが有りました。大阪では、それで充分通用していたのです。しかし、後から聞いたところ、1間は182cmで建築する…との事。関西間とか、江戸間、団地サイズとか、いろいろありますが、大分では182cm。この結果、裏側に設けたキッチンの裏口、ドアを開けると、通路一杯になってしまいました。地方毎に、畳1枚の大きさを、良く聞いておくべきでした。しかし、普段はあまり使わない裏口でしたので、大きな問題では有りませんでしたが・・・。
玄関は純和風の構え、屋根は、入母屋にしたかったのですが、ご近所との釣り合いが悪い・・・との事で、寄棟にしました。表の駐車場は広く、又、玄関前には植え込みも出来る様。
3月末には入居が出来る様、1月の成人の日、家族も大分に招いての棟上げを完了。それからは日曜日毎に、建築の進行状況をビデオ撮影して、ビデオレターとしてテープを送付、着々と工事は進みました。又、2か月に1回は、大阪の本社で会議が有りましたので、その時にも家族に報告、春の全員の転居を楽しみに、飛行機で大分の職場に向かっていました。伊丹空港を1番機で出発すれば、会社の始業と同時位に到着できましたので、大阪の自宅での宿泊を楽しみにしていたものです。初めての遠距離の引っ越しでした。1軒、全ての引っ越しですので、10㌧トラック1杯になる予定で、その頃、テレビ等で良くコマーシャルを流していた引越専門の方にお願いしました。
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