岡山市上伊福に有った岡山県庁が新築移転する事になり、県庁の中の職員用の住宅、県公舎から、門田文化町の県公舎に転宅。そのお陰で、それ迄は学校まで約6キロ、路面電車にも乗っての通学でしたが、転居後は学校まで6~7分の徒歩で行けるようになりました。小学校の時には、片道1時間以上かかっていましたので、ウソの様に楽な通学距離となりました。
中学校に入学して1カ月が経った頃でした。午前中の体育の時間、体操服に着替えてグランドに出ました。しかし、いつまで待っても体育の先生がみえませんでした。聞くところによれば、先生の都合て゛、その日はお休みだとか。それでは・・・と、砂場の横に走り高跳びのスタンドをセット、竹のバーを置いて、どんどんと順番に跳んでいました。走り高跳びの練習では無く、まるで休憩時間の遊びの様に。私も走り高跳びの経験は全然有りませんでしたが、まるでゴム跳びの様なスタイルで何度か跳びました。ところが、砂場に着地した時に、バランスを崩して尻餅をついたのです。左手を後ろに伸ばして砂場に手をついたところ、エッ?、手首にカクンとショックを感じたのです。しかし、酷い痛みも無く、何かな…と、不思議に思っていたのです。ところが、その左手を腰に当てると、手首の関節よりも7~8センチ上が、ポコッと膨らむのです。これは何故かな?と、納得出来ませんでした。特別、痛みが酷いとかでも無く、しかし、右手で押さえてみると少し痛みは有りました。そこで、友達に「チョット養護室へ行ってくるわ・・・」と言って養護室に向かいました。養護室は小学校と中学校に一つしか有りませんでしたので、場所も又、養護教員をも知っていました。病院に行った方が良い、との指示で、岡山市の中心に有る川崎病院に電話連絡をして下さいました。体操服から制服に着替える為に、教室に戻ろうとしたところ、担任の先生がグランドで走り高跳びをしている生徒に、「教室で自習しなさい」と指示している姿が有りました。しかし、私に対して、腕の事を尋ねる事も無く、私は制服に着替えてから、徒歩と、路面電車を乗り継いで、更に電車を降りてから約1キロ徒歩で、左手は学生服のボタンとボタンの間に挟むようにして、歩いて病院に向かったのです。
病院の受付で名前を告げると、受付の方がビックリして、「エーッ? 一人で来たの? 養護の先生は?~~ 」と、大声を出され、病院の中はたちまち大騒ぎになりました。早く早くとせかされて診察室に入り、医師の触診からレントゲン撮影室に直行でした。結果は簡単でした。左手首の骨折でした。すぐ副木を当てて、包帯で湿布、患部を固定して下さって、三角筋で首から吊るして左手を支えて下さいました。「大丈夫??一人で帰れる??」と、見送られて病院を後にしました。学校に戻ると、今日はもう帰宅しなさい、との指示で手提げかばんを右手に提げて、帰宅しました。帰宅すると、母と祖母が跳びあがらんばかりに驚いていた記憶が有ります。いくら昔の話とは言え、学校で骨折した生徒、中学1年生の子を単独で病院に行かせて、又、自宅にも何の連絡も無しで・・・。これが、もし最近でしたら、救急車までは行かなくても、せめてタクシーで付き添っても下さるでしょうね。
その日の夜、床に就こうとして、ハタと考えました。病院でも慌てての処置でしたので、私は学生服を着たままで、腕まくりをして副木を当てて包帯してあるのです。学生服の上着が脱げないのです。素人が包帯を緩める事も出来ないので、上着は脱いだものの、左手は上着から抜けない為に、左手は上着の袖を通したまま、上着を横に置いて休みました。翌日、病院に出向いて、全員が大笑いで、上着から腕を抜いて、今度は上着の袖を通さない状態で。再度包帯で固定してもらいました。
小学校時代には、たまにソフトボール等はやってましたが、本格的なスポーツは全然経験していませんでしたので、中学校の入りたてに、この様な無様な結果となりました。骨折の方は1カ月でギプスから解放され、2か月も経過すると、左腕に力を入れても、痛みの出る事は有りませんでした。
中学校では、友人の誘いでバレーボール部に入りました。しかし、この当時のバレーボールは9人制てす。コートも体育館等の室内では有りません。コートは土の上です。私は身長が有りましたので、センターフォワード。セッターとして両サイドのアタッカーにトスもしましたが、私の一番得意としたのは、トゥーアタックで、自らが得点する事でした。中学校では、あらゆる種類のスポーツを経験し、又、体育委員長として、幼・小・中学校の合同運動会では、正面の壇上でラジオ体操をするなど、数多くの経験をしました。中学校の種々のお話は、次回に・・・。
中学校に入学して1カ月が経った頃でした。午前中の体育の時間、体操服に着替えてグランドに出ました。しかし、いつまで待っても体育の先生がみえませんでした。聞くところによれば、先生の都合て゛、その日はお休みだとか。それでは・・・と、砂場の横に走り高跳びのスタンドをセット、竹のバーを置いて、どんどんと順番に跳んでいました。走り高跳びの練習では無く、まるで休憩時間の遊びの様に。私も走り高跳びの経験は全然有りませんでしたが、まるでゴム跳びの様なスタイルで何度か跳びました。ところが、砂場に着地した時に、バランスを崩して尻餅をついたのです。左手を後ろに伸ばして砂場に手をついたところ、エッ?、手首にカクンとショックを感じたのです。しかし、酷い痛みも無く、何かな…と、不思議に思っていたのです。ところが、その左手を腰に当てると、手首の関節よりも7~8センチ上が、ポコッと膨らむのです。これは何故かな?と、納得出来ませんでした。特別、痛みが酷いとかでも無く、しかし、右手で押さえてみると少し痛みは有りました。そこで、友達に「チョット養護室へ行ってくるわ・・・」と言って養護室に向かいました。養護室は小学校と中学校に一つしか有りませんでしたので、場所も又、養護教員をも知っていました。病院に行った方が良い、との指示で、岡山市の中心に有る川崎病院に電話連絡をして下さいました。体操服から制服に着替える為に、教室に戻ろうとしたところ、担任の先生がグランドで走り高跳びをしている生徒に、「教室で自習しなさい」と指示している姿が有りました。しかし、私に対して、腕の事を尋ねる事も無く、私は制服に着替えてから、徒歩と、路面電車を乗り継いで、更に電車を降りてから約1キロ徒歩で、左手は学生服のボタンとボタンの間に挟むようにして、歩いて病院に向かったのです。
病院の受付で名前を告げると、受付の方がビックリして、「エーッ? 一人で来たの? 養護の先生は?~~ 」と、大声を出され、病院の中はたちまち大騒ぎになりました。早く早くとせかされて診察室に入り、医師の触診からレントゲン撮影室に直行でした。結果は簡単でした。左手首の骨折でした。すぐ副木を当てて、包帯で湿布、患部を固定して下さって、三角筋で首から吊るして左手を支えて下さいました。「大丈夫??一人で帰れる??」と、見送られて病院を後にしました。学校に戻ると、今日はもう帰宅しなさい、との指示で手提げかばんを右手に提げて、帰宅しました。帰宅すると、母と祖母が跳びあがらんばかりに驚いていた記憶が有ります。いくら昔の話とは言え、学校で骨折した生徒、中学1年生の子を単独で病院に行かせて、又、自宅にも何の連絡も無しで・・・。これが、もし最近でしたら、救急車までは行かなくても、せめてタクシーで付き添っても下さるでしょうね。
その日の夜、床に就こうとして、ハタと考えました。病院でも慌てての処置でしたので、私は学生服を着たままで、腕まくりをして副木を当てて包帯してあるのです。学生服の上着が脱げないのです。素人が包帯を緩める事も出来ないので、上着は脱いだものの、左手は上着から抜けない為に、左手は上着の袖を通したまま、上着を横に置いて休みました。翌日、病院に出向いて、全員が大笑いで、上着から腕を抜いて、今度は上着の袖を通さない状態で。再度包帯で固定してもらいました。
小学校時代には、たまにソフトボール等はやってましたが、本格的なスポーツは全然経験していませんでしたので、中学校の入りたてに、この様な無様な結果となりました。骨折の方は1カ月でギプスから解放され、2か月も経過すると、左腕に力を入れても、痛みの出る事は有りませんでした。
中学校では、友人の誘いでバレーボール部に入りました。しかし、この当時のバレーボールは9人制てす。コートも体育館等の室内では有りません。コートは土の上です。私は身長が有りましたので、センターフォワード。セッターとして両サイドのアタッカーにトスもしましたが、私の一番得意としたのは、トゥーアタックで、自らが得点する事でした。中学校では、あらゆる種類のスポーツを経験し、又、体育委員長として、幼・小・中学校の合同運動会では、正面の壇上でラジオ体操をするなど、数多くの経験をしました。中学校の種々のお話は、次回に・・・。
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