2014年3月1日土曜日

水中歩行 一人で頑張った、リハビリの想い出

高槻市民プール 手前はジャグジー 後方は25mブール
12月16日に入院、手術に備えていろいろの準備期間の開始でした。それ迄、自宅では睡眠時にも水平に休む事が出来ず、ホームコタツと座イスで睡眠を取っていました。病院に入院して、水平のベッドで休めるかどうか・・・、でも実際に病室でベッドに転んでみたところ、ホント不思議でした。上を向いて、水平に休んでも痛みは出なかったのです。ベッドのスプリングのせいでしょうか、自分でも驚きました。12月24日の手術に備えて、全身のチェックを受けました。麻酔時に問題が生じるとまずい・・・との事で、歯の治療も受け、万全の態勢で手術を完了したのです。手術後、1週間目から、リハビリが始まりました。不思議ですね、ホント。左足に全然力が入らないのです。最初はベッドに横になって、左足を曲げたり伸ばしたり…。これも全て療法士の方のお手を煩わせての訓練でした。リハビリを始めてから1週間位でしたか、やっと両足で立てるようになりましたが、歩行はマダマダ。両サイドの手すりに捉まって、1歩1歩。3週間目には、両足での歩行が出来る様に回復しました。リハビリ室の周囲を、一人でグルーッと一周、療法士の方の指導に従って、やっと杖無しで、普通に歩行が可能になった頃、手術からは約1カ月が経過していました。一日も早く、会社に復帰したいとの思いから、1月29日には退院して、翌日には出勤しました。リハビリの際も、自転車のペダルを踏む様な運動もしていましたので、自宅から駅までは、自転車を利用しました。しかし、やはり手術前とは違って、左足の踏む力が全然足りません。リハビリ室では、何の苦労も無く、ペダルを踏んだのに・・・と思いましたが、多分、リハビリ室のペダルは、極く軽い負荷しか掛かって無かったのでしょう。実際に道路を走ると、平地は兎も角、ホンの僅かな登りでも、自転車が進まないのです。止む無く、自転車を降りて、その僅かな登りを押して、再度自転車に跨ったものでした。電車は摂津富田から梅田まで、約20分。電車通勤を再開して2~3日目の事でした。新大阪までは何の支障も無く吊革に捉まっていたのですが、新大阪を出た辺りで、急に気分が悪くなったのです。でも、5分足らずで大阪駅に着くから・・・と、じーっと耐えました。大阪駅に着いて、皆さんと一緒にホームに降りましたが、真っ直ぐな歩行が出来なくなって、階段横のフェンス、そのフェンスに捉まって、その場にしゃがみ込んだのです。暫くすると、それを見かねた一般の方が、立ち止まってお声をかけて下さいました。大丈夫です・・・多分、脳貧血ですから・・・と、答えてじっとしていると、駅員に方が階段を上ってみえて、休む場所として、駅員室に案内して下さいました。JR大阪駅には救護室の設備は無いそうです。事務用の椅子に座って10分位。その後、タクシーで会社に向かいました。
 その時の私の年齢は59歳。定年の60歳まで、あと僅か。4月24日が誕生日ですが、会社の勧めで3月31日の定年退職を選択、無事勤務を完了しました。しかし、身体はマダマダ本調子では有りません。自転車で10分位の所に、高槻市の市民プールが有りました。水中歩行で自力でリハビリを開始したのです。水泳は何年か振りでした。50メートルのプールに入って、クロールを始めたのですが、ほとんど前に進まないのには驚きました。深い50メートルプールは諦めて、室内の浅い25メートルのプールに移動。一番端のレーンは、水中歩行をなさる方の為に、空けられていましたので、その中に入って、何回も何回も25メートルを往復。周りは私よりもウンと歳の進んだ方ばかりでした。屋内のプールには、帽子を被らなくては駄目とか。初日は貸して頂きましたが、2日目からは自分の帽子で・・・。回数券を買いましたが、私は既に4級の身体障害者の認定を受けていましたので、料金は半額でした。水中歩行と、自転車の往復で、筋肉はやっと従来に復帰。手術から調度1年経過後、新しい職場に就く事が出来ました。自宅から車で10分位、綜合病院の経理指導として毎日勤務を始めました。ベッド数は220床、高槻市内では比較的大きな病院でした。調度その様な時でした。マイカーでの通勤でしたが、ある日、帰りに車に乗ったところ、ラジオから次から次とお名前を読み上げる放送が続いていました。途中から聞いたので、最初は何の放送か理解出来なかったのですが、後で解った事です。尼崎のJR福知山線の事故の犠牲者の方のお名前でした。今、思い出せば、ホント、いろいろな事が有りました。

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