2014年2月14日金曜日

雪にも負けず…

2月14日、天気予報では大雪とか。朝6時、小雨でした。それが、時間と共に小雨から雪に・・。
朝の7時には、草の上、ブロックの上には、少しずつ雪が積もり始めたのです。
8時頃には既に積雪約1センチ。予約しているタクシーが、やっと8時15分に到着。自宅前に停車したタクシーに、傘は持たないで乗り込みました。上は紺色のブレザー、僅か10秒程度でしたが、雪で真っ白。シートに座ってから、手で払い落しました。ここ、大阪でこれ程までに激しい雪は見た事が無い位、強い風と共に、いつ道路にまで積雪が残っても不思議では無い状態。ワイパーを一杯に動かしても、前方確認が困難な状態。道路は、未だ白くはなっていませんでした。しかし、タクシーが左折しようと、横断歩道の手前で一端停止、歩行者の横断を確認して、発進しようとした時、横断歩道の塗装の上だったのでしょう。後輪が空転して、僅かですが、スピンしたのを感じました。雪が降って、決して道路は白くはなっていませんでしたが、気温も低い為、道路上で凍結に近い状態になっている様子が伺えました。アスファルトの舗装の上でしたら未だ良いのですが、アスファルトの上の塗装部分は、凍結し易い様です。車だけでは無く、歩行時等にも、凍結しかけている様な状態ですので、一歩一歩、大股では無く、小股で歩く事が重要だと初めて教えられた、今朝の体験でした。
 午後2時過ぎに自宅まで帰着、雪は相変わらず激しく降り続いていました。門を通って、玄関前までは、踏み石の上が白くなっていましたので、最大限の注意を払って、滑って転倒の無い様に、気を付けて歩行。やっと玄関前に到着、玄関前の一段高くなったタイルの上、白くはなっていません。雪は多分溶けたのでしょう。透明な水で濡れた様に見えたタイルの上、その上に足を乗せると、ツルっと、ホンの僅かですが、足が滑るのを感じました。見ただけでは、単に濡れているだけとしか見えなかったのですが、凍結って怖いですね。見ただけでは、単に濡れているだけ・・・としか見えないのですが、凍結していました。最大限の注意を払って、無事、帰着。
 部屋の中から庭をみると、先日、『春はそこまで・・・』で撮影したサクラ草、雪にも負けず、一輪だけですが、花を開いていました。雪が溶けて、水滴となり、その重みで頭を下げてはいましたが、元気一杯な様子でした。
 今日から明日に掛けて、日本各地は大雪だとか・・・。大きな被害が出ない事を願っております。

2014年2月11日火曜日

春は そこまで・・・

庭のサクラ草、先日、遠くから見ていて、咲いたのかと思ったら、未だ咲いて無かったのが、今月1日の事でした。その日は、未だしっかりと蓋を閉じたままでした。それから10日、先週末の全国的な冷え込みと、大雪を乗り越えて、蕾は今にも開きそうな状態にまで成長して来ました。開花まで、、あと1日?それとも2日?
庭のあちこちからサクラ草が元気に頭を持ち上げています。今迄、葉のほとんど見えなかったクレソンも、元気一杯に大きな葉を伸ばしています。例年になく、寒気が日本を包んでいた為に、各地で予想外の積雪になってはいますが、庭の花達は春がそこまで近付いている事を、身をもって感じているのでしょう。
各地からは、早咲き梅の開花の便りも有ります。我が家の梅の木、マダマダしっかりした蕾ですが、もうすぐ開いて春を呼び込むでしょう。

ソチの冬季オリンピック現地では暖気に覆われて、雪不足の状態とか・・・。
日本には未だ届いて無い金メダル、その金メダルと共に、春がきっと近付く事でしょう。日本、ガンバレー!!

2014年2月6日木曜日

大分港で覚えた、小アジのサピキ釣り

今迄、釣りといえば海岸から遠投をして釣り上げる、投げ釣りが中心でした。波止場から浮き釣りをした事も有りましたが、投げ込みで、カレイ等を狙うのが中心でした。若かりし頃、その当時は枚方市に住んでいましたが、京阪電車の始発で出掛けて、大阪の反対側、南海電車の淡輪まで出掛けて、投げ釣りをやっていました。
朝から夕方まで、釣れたのは体長7センチ位、まるで透けて見える様な感じのカレイ1匹だけでした。離してあげれば良かったのですが、自宅まで持って帰って、煮つけにしたものでした。子供の頃には、岡山の児島湾で、チヌ、15センチ位でしたか、海岸から釣った事もありましたが・・・。岡山の宝殿海水浴場では、カレイ、タコ等も投げ込みで釣りました。
 大分港を眺めに出掛けたところ、皆さん、籠を付けたサビキ釣りで小魚を次から次と、休みなく釣り上げる姿を拝見しました。こんなに簡単な釣り方法、釣具店で伺って、早速籠と、小さな釣針が連続して取り付けられているサビキ針、餌として冷凍アミを買い求めて、私も早速港に引き返しました。仕掛けは図の通り、本当に簡単な仕掛けで、餌として籠の中に冷凍網アミを入れて、海水に入れるだけ。
入れればすぐに、グッグッグッと、あたりが有ります。すぐ引き揚げれば、そこに小魚、小アジが針に釣れているのです。下の籠の中の冷凍アミが流れ出して、そのアミと同じように見えるサビキの針に小アジが来るのです。春先、最初の内は本当に小さなアジですが、季節と共に成長して、初夏の頃には10センチ位の小アジが釣れ出すのです。小アジは、家で簡単に南蛮漬けとして、美味しく頂く事が出来ます。30分か1時間も有れば、充分過ぎる位の釣果でした。それ以上に沢山持って帰ると、叱られるのです。から揚げする手間が大変だった様で・・・。
この釣り方法を覚えてからは、暇を見つけては大分港に向かいました。大分港はサビキ釣りの方で、岸壁は埋まっていますが、その中に隙間を見つけて、竿を延ばす事が出来ました。このサビキ釣りは、釣竿を振りまわす事も有りませんので、僅かな隙間が有れば、割り込んで竿を出す事が可能なのです。会社が終わって、残業等の無い時は、自宅迄5分、釣竿等を積み込んで大分港まで5分の走行。餌を籠に詰めて、すぐ開始。沢山の小アジが、ホント、すぐ一杯になっていました。
餌のオキアミは、冷凍状態で販売されています。金額は安いのですが、大きな塊では一度には使い切れないから無駄・・・と思って、小さい塊の物を買ったのです。金額も安いものでしたが、大きな安い塊よりも小さい塊の方が、アミの体長は大きなアミでした。使い切れないから・・・と、わざわざ、小さな塊を買って行ったのですが、大分港で通りかかったオバチャンからは、馬鹿にされた様に、「マア、こんなに大きな餌を使って・・・、無駄な事をなさっとるワ・・・」と、言われてしまいました。大きな声でしたので、当然聞こえてはいましたが、聞かないフリして・・・。その時、わざわざ事情を説明しても、無駄な事・・・と、敢えて、聞こえない振りをしたのです・・・。
 大分港では、この当時、アジはこの大きさ辺りまでは良く釣れました。しかし、アジが成長すると共にその生息域が南に下る様で、大分よりも南の臼杵辺りですと、もう少し大きくなったアジが波止めからも釣れると聞きました。しかし、出掛けるのが面倒で、結局、臼杵までアジ釣りに行く事は有りませんでした。臼杵といえば、ドライブで出かけた時に海岸で大きな釣り堀を見つけました。色々の種類の小魚は3つ程の生けすで自由に釣れますが、タイとブリは専用の大きな生簀が有りました。タイは上から、大きさで狙いを付けて、その目的のタイの鼻先に針を落とせば、すぐ釣れました。一方、ブリは大変です。呼吸をする為に、大きなプールを右回りで勢い良く、泳ぎ続けていましたが、針を入れると、すぐさま飛び付いて来るのです。小さな子供さんが、横の通路を歩いている時に、うっかりその針をブリのプールに落とした時、すぐ、ブリが飛びついて、子供さんはプールの中に引き込まれそうになったのです。係りの方が慌てて飛んで来られて、そのブリを離していました。ブリの体調は7~80センチでしたが、力は強いものです。年末には、正月用の魚を求めに、又来なくては・・・と、その日は、小魚だけで帰宅しました。


2014年2月2日日曜日

佐賀関灯台にドライブ

大分市での生活にも慣れて、やっと平穏な生活が送れるようになりました。ある日の日曜日、チュッとドライブでも行こうか・・・と、佐賀関方面に向かいました。中島十条の交差点から広い臨海産業道路を東へ。別府大分毎日マラソンのコースでもある、この40メートルの道路、大野川の大橋を渡った先で、この広い道路は行き止まり。右折して細い道を抜けて197号バイパス、豊後街道、あとは一本道。途中、この道路沿いに『吉田会館』も有りますが、今日はそのまま通過。佐賀関のフェリーターミナルを通り過ぎて、次の信号、金山交差点の信吾から左に入って佐賀関の港も過ぎ、地蔵寺を過ぎたところで、右折。道路は登山コースに入りますが、未だ道路幅も有って、大丈夫です。しかし、これから少しずつ狭くなって、私の車はタウンエースですが、対向車があるとすれ違うのに一苦労する道路になってしまいます。対向時にうっかり左に切り過ぎると、斜面から脱落する様な、大変狭い道路です。普通車のセダンの方と対抗した時には、私は窓を大きく開いて、相手の方に大きな指示を叫んで、無事対向した時も有りました。
 その先には駐車場も有りましたが、そこに駐車している車はその時には、1台も有りませんでした。車を止めて、灯台の方に向かいましたが、そこで思わず立ち止りました。ビックリしたのです。灯台に向かう道路、山の中の幅2メートル位でしたか、その道路に、大きなミミズ?、体長が30センチ以上有ったと思いますが、大きな虫が道路一杯に動いていたのです。足の踏み場が無い程では有りませんが、あれは気持ち悪かったですよ。すぐ傍を歩いても、跳び付いて来るとかの動作は見られませんので、そーっと、踏み付けない様に気を付けて歩きましたが、これには驚きました。灯台の足元には広場もあり、そこには変な生物はいませんでした。豊後灘を一望出来て、気分もスッキリ。灯台は無人の様で、立ち入りは出来ませんでした。
 帰り道は、駐車場の先へ進む道も有りましたが、その先は行った事が無かったので、来た道を引き返しました。帰り道には対向車と出会う事も無く、山を転げ落ちる心配もしなくで済みました。
 この佐賀関には取引先のガソリンスタンドが有る為、私も急ぎ便の時には会社から走った事も有りましたので、佐賀関の港付近までは、何度か走った事も有りました。しかし、佐賀関の街から裏山の灯台付近にまで走ったのは初めてでした。途中、普通車同士では対向困難な場所が有るとも知りませんでした。これから、車で向かわれる際には、その点をよくご承知の上、運転には気を付けて行かれる様、お勧めします。
 だけど、その山道に居た、大きなミミズ??、あれは一体何ていう名前の生物だったのでしょうか。その当時、会社の方にも伺ってみましたが、正確なお答えは得られませんでした。これは、今でも、何か信じられない様な、まるで別世界に行った様な、そんな思いが残っています。もし、ご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えて下さい。お願いします。

雨が降った翌朝、コーナー部分の大きな穴にビックリ!!

引っ越しを完了して、玄関前の植え込み、門扉、ガレージのアコーディオンフェンスの取付も終わり、やっと家らしくなりました。敷地の南側の庭には、業者の方に野菜等を植えたいと伝えたところ、黒い火山灰の入った土を、車1台分入れて下さいました。
 入居してから1週間位の時でしたか、大雨が降ったのです。別に、何とも思っては無かったのですが、翌朝、家の外に出てみてビックリ、住宅地の裏側、コーナー部分に水が溜まって、それが地中に流れ込んだのでしょう、土地が削られて、深い穴が出来ていたのです。このまま放置していると、更に穴は大きく深く、周囲の土が流されてしまうと思われますので、慌てて、新築をして頂いた業者の方に電話を掛けました。外部の下水道に連結する枡は1個だけは設置してありますが、屋内の排水用の雨水枡は全然取り付けていない・・・との事。屋根からの雨水は、敷地内に流されていたのです。一般の方でも取付は簡単に出来ますから・・・と、約30センチ角のコンクリート製の枡を7個と、10センチ位の塩ビのパイプを数本、持って来て下さいました。パイプの設置方等を教えて下さったので、後は家族4人でスコップ片手に、家の周囲に排水用の枡とパイプを設置しました。屋根から降りている雨どいの水を枡に入れて、それを次の枡に流して・・・・。全部で7個の枡を取付ました。この雨水を流す枡等の設置も、当然新築工事に含まれていると考えていましたが、私の会社の社長にお願いして、お知り合いの大工さんに新築をお願いしたので、どなたでも出来ますから・・・との事で、私達が作業をする事になったのです。ま、工事その物は、何の技術も不要で、水が流れる様に、少し高い位置に穴をあけて、次の枡には、少し低い所に取付けをすれば、雨水は自然とパイプを流れて、宅地の外に出せます。基本は簡単ですが、しかし、スコップで、雨水枡の大きな穴、パイプを埋め込む用の掘り下げ穴。普段、その様な工事はした事が無かったので、正直、大変でした。しかし、数時間かけて、家の周囲を一周するように、雨水枡、排水パイプを取りつけて、屋外に繋がっている枡に取り付ける事が出来ました。穴掘りの前に、庭に入れていた小石を表面に戻して、工事は完了しました。でも、屋根に降る雨水の勢いは凄いのですね。排水コースが無ければ、柔らかい部分を見つけて、地中に流れ込む為に、周囲の土を流して、大きな水路を地中に開けて・・・。その部分には、業者の方が、土を運んで来て下さったので、簡単に蓋は出来ました。裏のコーナー部分。柔らかい土が入ったところでしたので、そこには茗荷を植え込んで、一見落着。もうこれで、雨が降っても心配は不要です。雨水に、これ程の威力が有るとは知りませんでした。良い勉強をさせて頂きました。

2014年1月30日木曜日

庭の透明ガラスの外に、突然、だれか姿が・・・

大阪からの10トン車一杯の荷物も、アート引越センターの、その道のプロの方々のお手配で引っ越しは無事完了しました。引っ越しの時には未完成だった玄関前、入口の門扉、ガレージのアコーディオンも取付完了。やっと家族揃って大分での生活がスタートしました。娘の中学校は道路1本南側ですので、通学の心配も有りません。今迄、7ヶ月間とはいえ、初めての単身生活は、なかなか大変でした。スーパーはすぐ近くには有りましたが、やはり自炊というのは、ホント、考えていたよりも手間のかかるものでした。家族が一緒に生活となれば、仕事だけに集中できますので・・・。
単身の間、上司に連れられて、週の内、半分は大分の繁華街、都町で過ごしてはいましたが、それは、家族が大分に来ても、大きな変化は有りませんでした。でも、回数は以前よりは少なくはなりました。しかし、本社、九州支店等から、色々の方々が大分に来社される度に、私と社長で都町のご案内?  なかなか、大変でした。
 家族にも、初めての大分を教えようと、『割烹ほりかわ』をスタートに、スナックを数店、はしごもしました。そんな時でした、家内と娘を連れてスナックに行っていた時に、数人のお客が来店。その姿を見て、娘が声をひそめて「学校の先生やワ・・・」。両親が一緒やから、ま、良いか・・・と、カラオケを暫く楽しんで帰りました。勿論、先生方にも夫婦でご挨拶しました。だけど先生方も、ご両親とご一緒ですから・・・と、特にお咎めは無し。でも、後日、授業中に、又行ってるか? とか、言われたとか・・・。
 玄関は敷地の北側。鍵はかけてはいませんが、入口の扉、アコーディオンフェンスも取り付けて、勿論テレビインターフォンも取り付けていました。でも、やはり大分は、大阪とは少し違っていました。初夏の暑い日の夕方、風呂上がりで、敷地南側のリビングで、熊本産のスイカを食べていた時の事です。庭に面したガラス戸、塀に囲まれた庭側ですので、全面が透明のガラス戸でしたが、そこに突然、人の歩く姿が・・・。ナント、向かいの奥さん、お年は70は超えていましたが、その方が、近所で貰ったから・・・と、手にイッパイのトマトを持って来て下さったのです。慌てましたよ。お風呂上がりで、下着のまま、家内は入浴前でしたので、まだ助かりましたが・・・。表の入り口から入って来られたのでしょう。家の横を回って、南側の庭から突然みえたので、ホント、驚きました。ま、向かいの方ですから、チャイムは鳴らさなくても、せめて玄関辺りで一声かけて頂きたかった・・・と。
子供の頃は、岡山で生活していましたが、岡山でも、チョット、お声掛けはしてから入って来られたのですが・・・。それからは、例え風呂上がりでも、すぐにパジャマを着るとか、或いは南側にはレースのカーテンを引いておくとか・・・。ホント、最初の時はビックリしました。でも、少しずつ大分にも慣れて、休日には親子4人でトキハにも、又、時には少しだけ足を延ばして、吉田会館でお造り等を頂いたりしたものでした。


2014年1月28日火曜日

大分への引っ越しは 『0123』で・・・


 大分市泉町の新築工事、昭和63年3月半ばには住宅本体の工事が完了しました。玄関前の庭の工事等は未完成でしたが、入居は差し支えないとの事。単身赴任の住宅は民間の賃貸マンションでしたので、3月末迄には引っ越しを完了させようと考え、3月最後の日曜日の転宅を計画しました。若い頃の近距離の引っ越しは何度か経験していましたが、大阪から大分まで、子供達も中学生以上に成長してからの本格的な引っ越しは、全く初めての経験でした。当時テレビで流されていたコマーシャルは『0123』だけ。本格的な引っ越しは、ここしか知りませんでした。3月最後の日曜日に大阪で搬出、月曜日に大分へ搬入の計画で、『0123』に依頼。家族の移動も有る為、前々日の夕方、別府港からマイカーと共に『さんふらわー』で出発。翌朝、南港で下船、南港大橋を渡った辺りで、後部のガラスに異常を感じました。アレッ?と、ワイパーを掛けましたが、全然効果無し。ナント、驚きました。後部のガラスが割れていたのです。船中で何かトラブルが有ったのかもしれませんが、下船時には気が付かなかったので、仕方ありません。大阪の自宅に到着後、近くのカローラ店でガラスの修理を依頼。修理はその日に終わりました。割れた原因は、全く解らず、不本意では有りましたが、私の点検不足でしたので、仕方ありません。
 引っ越し荷物は、ある程度の準備は出来ていましたが、屋根の上のアマチュア無線のアンテナはそのまま。帰宅後、早速作業は屋根の上。ベランダに脚立を立てる事で、屋根の上には簡単に上がれましたので、当日は一人での作業でした。ルーフタワーに乗ったHFの2エレ、50MHzの5エレ、144MHzのスタック、7C2Vのケーブル等を取り外して、比較的簡単に終えました。取付時と違って、途中の測定等は不要ですので、スムーズに終了。引っ越しの当日、引越専門だけに、食器類等の専用ケース等で、全てお任せ・・・の状態で、どちらかといえば、見ているだけ・・・みたいな感覚でした。積み込み完了後は、手許用品だけをマイカーに積み込んだ上で、ご近所に、ご挨拶。再び、向かったのは大阪南港。午後7時の出航時、家族みんなでタラップからテープが投げられる風景を眺めていましたが、単身での出発時とは大違い。出航の寂しさは、この時は全然有りませんでした。1人の時とは大違いでした。いつもと違って、船室も定員4人の部屋。僅かでしたが、畳もあり、家族でゆっくり。私以外は全員が『さんふらわー』は初めてでしたので、船内を私が案内。ホント、一人の時とは大違い、その時、家族って良いな・・・と、思ったものでした。みんな一緒に、神戸港の乗下船風景を眺め、又、瀬戸大橋通過をも確認しました。
 翌朝、別府港でマイカーに乗って下船してからは、7ヶ月間走った道路、運転をしながらまるでバスガイド。何しろ、私以外は、全員が別府から大分へは初めて。右や左を眺めながら、泉町の新居に到着。引っ越しトラックの到着を待ったのです。ところが、大変な事になりました。自宅前の道路は4m道路。ナント、10トントラックが入って来られないのです。どうしようか・・・と、私達は慌てましたが、やはり餅屋は餅屋。便利屋さんの軽トラックが2台、駆け付けて下さったのです。30m程手前に止まったトラックから、折り返し運転をして下さって、全て無事に搬入は完了しました。最後に、請求書を出されて、これは会社宛に請求します・・・との言葉に、何も知らない私は、今、支払いましょうか?・・・、幾らですか?・・・。70万円・・・の言葉を聞いて、そんなの今は持って無いわ。請求して・・と、慌てて言ったものでした。距離を考えずに、安易に、良くも言ったものです。家具等は設置予定の場所に全て配置済みですので、後は比較的ユックリ。家族揃って初めての大分の夜。歌って踊って・・・(そこ迄はホントはナシ)。泉町での生活がスタートしました。

2014年1月24日金曜日

大分でも新築、設計図は自作しました。

昭和62年1月に、大阪で新築住宅に入居したばかりでした。そこに突然7月に転勤命令。7月に1週間の引き継ぎを完了、8月には、マイカー1台分の家財と共に、大分市に単身赴任を完了。一応会社からの指示では、4年間の大分勤務の予定でしたが、家族会議の結果、翌年、昭和63年の春家族全員で、大分に転居と決定。新築したばかりの大阪の自宅、如何にするか検討しましたが、売却する事にしました。短期間の転勤では有りますが、大分市でも新築しよう…と、早速、宅地を探したところ、十条近くの不動産屋さんで、50坪弱の宅地を進められ、泉町の宅地を購入。大分の50坪は、大分の方々には狭い宅地かもしれませんが、大阪の感覚では、充分な面積でした。早速、住宅の設計にかかり、別府市の一級建築士の方に設計をお願いしましたが、出来た設計では、部屋数が少なく、親子4人が生活するには耐えられないものでした。そこで、方眼紙を購入して、私が図面を描いたのです。LDKは16畳の広さですが、それ以外の部屋は6畳の部屋を4室、各階にトイレ、私の書斎は変形の4畳。この設計図を一級建築士の方に見て頂いたところ、これは良いわ・・・と、お褒めのお言葉を頂きました。ところが、私の書いた設計図、根本に誤りが有ったのですが、それは、基礎工事等が終わった段階で初めて気付いたのです。
私はA4の方眼紙、1cmを3尺として図面を作成しました。1間は6尺、1間は180cmである・・・と、認識の誤りが有りました。大阪では、それで充分通用していたのです。しかし、後から聞いたところ、1間は182cmで建築する…との事。関西間とか、江戸間、団地サイズとか、いろいろありますが、大分では182cm。この結果、裏側に設けたキッチンの裏口、ドアを開けると、通路一杯になってしまいました。地方毎に、畳1枚の大きさを、良く聞いておくべきでした。しかし、普段はあまり使わない裏口でしたので、大きな問題では有りませんでしたが・・・。
 玄関は純和風の構え、屋根は、入母屋にしたかったのですが、ご近所との釣り合いが悪い・・・との事で、寄棟にしました。表の駐車場は広く、又、玄関前には植え込みも出来る様。
3月末には入居が出来る様、1月の成人の日、家族も大分に招いての棟上げを完了。それからは日曜日毎に、建築の進行状況をビデオ撮影して、ビデオレターとしてテープを送付、着々と工事は進みました。又、2か月に1回は、大阪の本社で会議が有りましたので、その時にも家族に報告、春の全員の転居を楽しみに、飛行機で大分の職場に向かっていました。伊丹空港を1番機で出発すれば、会社の始業と同時位に到着できましたので、大阪の自宅での宿泊を楽しみにしていたものです。初めての遠距離の引っ越しでした。1軒、全ての引っ越しですので、10㌧トラック1杯になる予定で、その頃、テレビ等で良くコマーシャルを流していた引越専門の方にお願いしました。

2014年1月18日土曜日

突然、私の目の前で昏倒・・・・、 今週月曜日の出来事・・・

昨年の4月から、大阪医科大学、腎臓内科の先生の指示により、血液透析を始めています。最初は2時間でしたが、周囲の方々とペースを合わせる事も必要になり、現在では毎回4時間、毎週月、水、金曜日の午前8時45分から。各ベッドには、個人専用に小型のテレビが設置されており、イヤフォンで時間を過ごしています。最初に血液透析用に2本の注射針を刺して、透析器を経由して再び体内に戻す、その透析行為、4時間、じっと辛抱しています。1時間おきに血圧を測定して異常が有れば、直ちに中止して、回復を図る・・・といったものです。透析によって、血液中の、本来であれば腎臓で抜き取られる筈の不純物、主として水分ですが、それを透析によって除去しているのです。症状の酷い方ですと、毎回4キロ以上の除去をしているとか・・・。私の場合には、未だ症状が軽い為、毎回1キロ未満の除去ですが、4キロも除去されると、大変な負担だろうと思います。一度に4,000ccもの血液を抜かれると考えると、ホント、震え上がる思いがします。
 今週の水曜日、15日でした。透析を終えてロッカールームに戻って、パジャマから着替えていた時の事です。私のロッカーは入り口側に有りますが、そのロッカーの裏側、コトコトと、時たま弱い音がしていましたが、ああ、何方か、着替えていらっしゃるのだな・・・と考えていました。私の着替えがほぼ終えかけた時に、別の患者さんが更衣室に入って来られて、ロッカーの裏側に行かれました。そこで、暫くした時に突然、「アンタ、どないしたん? 大丈夫か? 手を貸そうか・・・?」と、大きな声がロッカーの裏側から聞こえました。その次の瞬間、ドターッ!!と、何かが落ちた様な音がしたので、私も驚いて音の方向をみると、ナント、驚きましたよ。そこに、人が倒れて来たのです。倒れても全然動く気配無し。続いて大きな声で『誰か呼んで!!  誰か読んで!!』との叫び声で、私は咄嗟に、入り口横に有った非常ボタンを押しました。すぐ、女性の看護師さんが飛び込んで来られて、顔を叩きながら、お名前を呼んでおられましたが、「先生を呼んで!!」と、悲痛な叫び。すぐ、二階の先生に連絡、先生も飛び込んで来られました。診察室へ・・・との事で、その患者さんと先生、看護師の皆さんは診察室へ移動して、更衣室は、やっと静かになりました。診察室へ向かう時、先生は脱いだ靴を履く暇も無かったのでしょう。靴は更衣室の入り口に脱いだままの状態で残されていました。
 私も着替えを終えて、更衣室の入り口で靴を履いている時に、先生がそこに戻って来られて、無言のまま、ご自分の靴を履いて出て行かれました。その先生のお姿を拝見して、ああ、亡くなったんだな・・・と、感じました。そうでなければ、心臓マッサージ等で、靴を履きに戻ってみえる余裕は無い筈です。表の待合所に行った時に、受付の方が消防署でしょう、電話をなさっていました。救急車の手配でした。腎臓内科のクリニックでは、死亡の判定まではなさらないのかどうか。私達が迎えのタクシーに乗った時に救急車がサイレンの音もけたたましく、走って来ましたが、クリニックの正面には停車しないで、一本先の道路を曲がって行きました。エッ、何故ここに止まらないの?と、思いましたが、あっ、そうか、そういう配慮か・・・と、気が付きました。いくら、小さなクリニックであれ、正面に救急車を止める事には抵抗が有って、裏口に行ったのか・・・と。
 昨日、透析開始の際に、その看護師に尋ねたところ、やはり駄目だったそうで。83歳の方だったそうです。
 私の目の前で、突然亡くなる方を見ましたが、全く初めての事で、やはり、色々な事を考えさせられました。今迄も、葬儀等での対面は経験していますが、その現場の経験は初めての事です。私も何時、この様な事になるのか・・・と。年齢は、もう少しは有るものの、いつ、そうなっても悔いの残らないようにしないと・・・と、ホント、考えさせられました。今回は、過去の想い出話では無く、強烈な出来事が有りましたので、ここに、書かせて頂きました。次回からは、再び、前回に続く内容で書かせて頂きますので、宜しくお願い致します。

2014年1月11日土曜日

朝、宿泊していた本社の社員が行方不明!!

大分パークインホテル
大分販売に着任して暫くした頃でした。大分市、中津市、佐伯市に営業所が有りましたが、日曜日を利用して全社員が集合、営業会議を催す事になりました。全社の営業会議ですので、オブザーバーとして、親会社の本社、タイヤ営業部の課長と、今年入社したばかりの若い方、2名の方が、営業会議の前日、遠路、大分にお越しになりました。その日は、歓迎の宴、都町の割烹ほり川で食事の後、スナックを数軒、スナック小林、スナック津軽をまわった後、社長は代行運転で帰宅、私はタクシーで、お二人をパークインホテルにお送りした後、私のマンションに帰りました。翌日の会議は、午前9時からの予定でしたので、8時過ぎにはお迎えに伺います・・・と、お伝えしての帰宅でした。
翌日は朝から良い天気に恵まれました。お二人をお迎えに、社長専用車のセダンでお迎えに、サニーストんホテルまで出掛けました。お二人をお迎えした後、一度会社に戻って、車を社長に返してから、私は別の車両で会議の会場に向かう予定でした。前日に約束した8時でしたが、ロビーにはお二人の姿は未だ有りませんでした。でも、もうみえる事と、私はロビーで暫く待っていたのですが、一向にお二人が出て来られないのです。フロントの方にお願いして、お部屋に電話を掛けて頂いたのですが、一向に応答なし。そうしているところへ、課長がお一人だけでロビーに出て来られました。若いA君の姿が見えない・・・との事です。お二人はシングルの部屋を利用していましたので、お部屋は別々でした。再び、フロントの方にお願いしてA君の部屋に電話を掛けて頂きましたが、応答は無し。朝食中かも…と、地下に有るレストランにまで行ってみましたが、どこにも姿は有りません。係の方に尋ねても、朝食を取った形跡も有りませんでした。会社では、私が迎えから戻って来るのを待っている筈です。会社宛に電話連絡もしました。A君の姿が見えないので、今探している・・・。少し時間が掛かるかも知れないので、会議の会場までは、こちらから直接向かうので、社長はそちらの車で向かって下さい・・・と。
これ以上、探す所も無い・・・との事で、フロントの方にお願いしてA君の部屋のドアを開けて頂いたのです。部屋に入って、ビックリ! ナントA君がベッドの横、床の上に転がっていたのです。頭をドアの方に向けた状態で、浴衣の前をはだけた状態で、目は開いていました。二日酔いかと、一瞬思いました。しかし、話しかけても応答は一切無し。目は動いていましたので、肩を軽く叩いて、どないしたん?・・・と、声を掛けましたが、相変わらず返答は有りません。部屋の中、周囲の壁にまで嘔吐したのでしょう、汚物がまき散らされた様な状況になっていたので、余計に驚きました。これは一大事!!と、ホタルの方に救急車をお願いしました。会社宛にも再度電話を掛けましたが、ここまでの非常事態は想像も出来無かったのでしょう。会議に遅れるなよ!!と、きつく叱られる始末。
A君には課長が救急車で同行して、私は取り敢えずは、会議会場に向かいました。
営業会議は一応、予定通りに始まりました。始まってから30分もしない所へ。A君に同行していた課長から電話連絡。『くも膜下出血』で、緊急手術をする。輸血の必要もあるかも知れないので、『B』型の血液の人は集まって欲しい・・・との事。その段階で、営業会議は中止となり、私は血液型は違いますが、病院にまで駆けつけました。手術に備えて、A君の頭髪は剃りあげられて、丸坊主になっていました。手術には身内の方の了解が必要…との事で、病院から、ご両親に電話で了解を頂いたとか。非常時には、裏の方法が有るのでしょう、私達全員、A君の自宅電話番号等は知りませんでした。手術の日の夕方には、A君のお母さんが大分に来られました。一日や数日では退院できないと想像出来ましたので、お母さんのお考えを確認した後、私は滞在できる所を探しました。ホテル住まいでは大変ですので、病院から近くの賃貸マンションを探し出して、取りあえずの生活が出来る様、布団等も家内の応援も得て、準備する事が出来ました。
 それから毎日、面会時間には必ずICUにお伺いしましたが、一向に回復の兆しは有りませんでした。それから、10日以上後だったと思いますが、やっと意識が回復して、数ヵ月後には退院、大阪へ帰って行かれました。
 職場復帰は難しいかと思っていましたが、6年後、私の転勤で大阪本社に帰った所、部門は化成品に移ってはいましたが、元気なA君と言葉を交わす事が出来ました。ホント、この様な大変な事も経験しました。