2013年12月10日火曜日

山の斜面に建てられた料亭、エレベーターは無し。1階から6階・・

( 三脚は1段、膝をついての撮影でした )
ブライダルビデオのカメラマンとして、数年経過した頃。京都駅のすぐ西側の大きなホテル、今では名前が変りましたが、その当時は京都グランドホテル。ここの2階の宴会場が、私が担当するメインの会場となっていました。自宅からも車で約1時間、調度手頃な距離でも有りました。ところがある時、枚方公園の近く、山の斜面に有る大きな料亭で開かれる結婚式の撮影を受けたのです。初めての会場でしたので、その前日に下見をさせて頂きました。小山の斜面に建てられていて、玄関は最上階。玄関のフロアから1階降りた所に大きな畳の宴会場。椅子席では有りません。座イスのセットされた完全な和室でした。窓には暗幕がセットされていて、披露宴の始めは暗幕を閉めているとの事。一回目のお色直しの際に、カーテンを開けて、外の景色も見て頂く・・・との事。当時のビデオカメラは真空管式でしたので、感度が低い為、ライトの照明を欠いては、満足な撮影は出来ません。そこに、外からの自然光が入った場合、実にカメラマン泣かせの光線です。室内のライトは3200度K(ケルビン)、外光は5500度Kか5600度Kですので、カメラの調整をしないでは、室内光は赤っぽく、外光が入ると青っぽくなってしまいます。撮影する被写体によって、カメラ側の撮影する色温度を調整しなくては、綺麗には残せません。しかし、仕事を受けた以上、プロとしてこなさなくては駄目です。
次に、結婚式場を見せて頂きました。これ又、驚きでした。山の斜面を利用して5階から6階建の方式になっていましたが、結婚式場は、その最も下の階に有ったのです。山の斜面に沿って建てられていますので、エレベーターの設備は有りません。これには、正直参りました。ビデオ機材、当時はビクターのBR-8600とBR-7700、どちらも据え置き型の大型ビデオです。カメラも大型、 それに三脚、5インチのモニター、大型三脚、30メートルのカメラケーブル。普段は、これらを三段式のキャリアカーで運搬して移動をしていたのです。これらの接続ケーブルを外して、バラバラの状態にして、手に提げて階段を上り下りするしか方法は有りません。当日は、いつも通り、予定の2時間前に到着、一番下の結婚式場まで階段を下りて、撮影はスタンバイ。無事、結婚式は完了しました。ご出席の皆さん、それぞれ上階の披露宴会場に向かわれました。私も階上に向かうべく、機材のケーブルを外しにかかっていたところ、ご出席の方が、それをご覧になって、この機材を上に運ぶんですか?・・・。助かりました。ホントに助かりました。ご出席の数人の若い方々が、三段のキャリアーに乗せたままで、階段を一緒に登って下さったのです。もし、この援助が無かった場合、私一人で、6~7回、階段を上り下りしなくてはならなかったのです。それも、2階や3階では有りません。6階です。これは本当に助かりました。カメラマンの手当てを半分位は差し上げても良い位の思いでした。
 和室での披露宴も初めての経験でした。三脚にカメラはセットしていますが、三脚の足は全然伸ばさないで、最下段での撮影。私は膝をついての撮影でした。膝をついての大きなパンニングには一苦労しました。足を伸ばして立っている時は、そーっと回転移動しながらのパンニングが可能ですが、膝を付いている場合には、パン棒に身体が付いて行きません。大きなパンニングには、身体はそのままで、カメラのモニターだけを見ながらのカメラの回転でカバーしました。新郎新婦がお色直しで退場すると、仲居さんが周囲のカーテンを全開。ワーッと、晴天の外景に大きな歓声。山の斜面に建っている料亭ですから、窓の外は大阪平野を一望、すぐ手前には淀川が大きく流れていました。ご出席の皆さまは、その景色に感激なさっていましたが、私は大慌てです。それ迄は、カメラ側のハロゲンランプだけでの撮影でしたので、カメラも3200度Kに調整していました。そのままでは、外光で真っ青になりますので、それからは、撮影する内容によって、カメラ側の色温度を調整する必要が有ります。最近の液晶式のカメラでしたら、ライトは不要なのですが・・・。しかし、その温度調節は、開始前に予測出来ましたので、カメラには、ライトと外光の二つの光源の色温度に設定してありましたので、どうにか、満足に撮影する事が出来ました。人間の目は、外光に対して自然と、色温度を組み替えてくれますが、当時のビデオカメラ、それも業務用機には手動で調整をするしか方法が無いので、大変な労作でした。でも、無事乗り越える事が出来て、撮影完了の電話連絡を、会社宛に無事終える事が出来ました。結婚式場からの階段で、お力添えを頂いた皆さん、遅ればせながら、ありがとうございました。

2013年12月5日木曜日

ビデオカメラマン、講習会  ケーブルの処理


(  8の字巻きのケーブルの巻き方 ) 
大阪市の地下鉄の中、掲示してあるポスターに目がとまりました。『ブライダルビデオカメラマン募集!!』。これまでに、8ミリ映画は一応マスターしていました。ビデオも、家庭用としては発売されたばかりでしたが、ハンディタイプで、カメラとビデオは2メートル程のケーブルで繋がっていたSonyのポータプルタイプのβビデオ。このビデオで家庭内の記録も実施していました。しかしビデオのプロとしての仕事は未だ、全く経験は有りません。何となく興味を抱いて、その説明会に参加してみました。大阪北浜のビル、大きな会場を使用しての説明会でした。会場は参加の方々で一杯の状態。正面には大型のビデオもセットされて、まず、ブライダルビデオの作品を映写開始。結婚式場、大型ホテルの外観がフェードイン。次いで会館内、控室の行燈、〇〇家・〇〇家控室、フェードアウト、フェードインされたタイトルには「〇〇家・〇〇家 ご結婚披露宴」ここでフェードアウト。結婚行進曲が流れると同時に左右に大きく開かれたドアから新郎新婦の入場。披露宴にご出席の方々から、それぞれ祝福を受けながら正面の新郎新婦の席に・・・。新郎新婦、ご媒酌人ご夫婦、深く一礼の後に着席。媒酌人の挨拶が開始されたところで、テープはストップ・・・。
 まず、ビデオ撮影のシステムから説明が有りました。業務の流れは、結婚式の会場、ホテル等がご利用者からビデオ撮影の受注。ホテル等から、この会社、NST〇〇〇へ注文が入り、その撮影業務を、各カメラマンに連絡、各カメラマンが撮影した物を、受注の逆ルートでホテル等を通じてお客様の手許に届ける事。撮影の機材等は、全てカメラマンの所有物を使用する事。手数料の配分は、ホテル等が売上金額の20パーセントを引いた物をNST〇〇〇に支払い、そこから20パーセントをNST〇〇〇を控除した残り、つまり、ご利用者への売上金額の64パーセントが、カメラマンの手数料として頂く事が出来るとか。仮に売上金額が8万円とすると、カメラマンには51200円の収入。毎週月曜日から、その週の受注開始…。
 一週間後の土曜日から、ビデオカメラマン応募者に対しての研修会がスタートしました。担当のカメラマンは、結婚式の当日、会場に2時間前までに到着、カメラ、デッキ等、全ての機材をセット、電源スイッチを入れた状態にして、その時点でビデオの会社宛にスタンバイ完了の電話連絡。電話連絡が無い場合には、代わりのカメラマンをすぐ向かわせる・・・との説明。
 当時のビデオカメラは、未だビデオが組み込まれた物は有りませんでした。カメラとビデオデッキは、直径2~3cmの太いケーブルで接続されています。広い会場内を、前後左右に移動しながら撮影する為に、そのケーブルも、短くとも20メートル、私は30メートルのケーブルを使用していました。その長いケーブル、カメラマン一人だけで、そのケーブルを扱わなくては撮影に支障が有ります。丸めておいてあるケーブルを、引っ張りだすと、ケーブルは、クルクルと円弧を描くようになってしまいます。それでは、皆さんの邪魔にもなってしまいます。そこで、ケーブルを置く時に、8の字型に整理して置いておく方法を教えて頂きました。これだと、三脚に付けたカメラだけを持って、スーッと移動しても、ケーブルは真っ直ぐになってくれます。ケーブルを8の字にするスペースがなければ、一つの円形に巻きますが、その場合には一回りずつ、左右を逆にしておくのです。( この巻き方は、文章では表現し難いので、必要でしたら、次のHPをご覧下さい。写真入りでで説明してありますのでご紹介します。尚このHPは、私とは関係有りません。 http://blog.hibino.co.jp/?eid=83 )
最近では、ビデオのアルバイトはやっていませんが、例えば自宅内で長いコードのテーブルタップを使用する時等、又、そのケーブルを保存する時等にも、この巻き方で保存しています。これだと、ケーブルを引っ張るだけで、ねじれが無く、スルスルッと引き出しが可能なのです。
披露宴には必ず司会の方がいらっしゃいますので、その式次第等については、可能な限り前もってその順番を。主賓の方が、勤務先の方か、或いは親族代表か・・・等で、カメラの捉え方も変わってしまいます。主賓の方をメインに撮影はしますが、その次のシーンの撮り方等が異なりますので・・・。又、ケーキカットの撮影には誰よりも早く、一番に移動して三脚をセット。しかし、その場所も、一般の方々が必ず写真撮影に来られますので、真っ正面のメインの位置は皆さんの為に開けておいて、そのお二人のお姿を漏れなく撮影できる場所。披露宴開始前に必ず実際に確認して、主賓の挨拶が終わると、その場所に直行。これも、慣れてしまえば何でも無いのですが、慣れるまでは大変でした。ビデオカメラマンは、メインで活躍しても、ご出席の方々の邪魔になっては駄目なのです。邪魔にならない場所で、漏れ無く撮影する事が必要なのです。実際の披露宴で、サブカメラマンとして約1カ月練習を重ねて、その結果、撮影したテープを見て頂いて、メインカメラマンに登録して頂く事が出来ました。アマチュアでしたら、撮影の途中でも、まずい・・・と思ったら、テープを回したままでも平気で。カメラを三脚に乗せたまま、少し横に移動させたりしますが、プロでは絶対に許されない事なのです。移動する必要が生じたら、タイミングをみてテープを止めて。次の最適な場所に移動。プロは、それでお金を頂くのですから、失敗は許されないのです。ホント、良い勉強をさせて頂きました。

2013年11月30日土曜日

業務用ビデオカメラ SONY DXC-M3A

8ミリ映画は色々のカメラを使用しました。レンズも3本ターレット式からズームレンズ、無音の時代から、フィルムサイドに磁気録音できるタイプ、フィルムも16mm幅の25ft往復、100ft往復、
レギュラーサイズ、スーパーサイズ・・・と、全ての日進月歩に、着いてゆきました。かなりの投資だったと思います。その8ミリが、次はビデオの時代へと変遷したのです。当初は、家庭用のハンディタイプ、その当時は、カメラとビデオは、ケーブルでの接続でした。カメラ一体型は未だプロでも存在しなかったのです。その当時、ビデオはβ式とVHS形式の二通りがあり、いずれにしようか迷いましたが、私はSony党でしたので、迷わずβ方式を選択しました。これで家庭内の記録は充分でしたが、少しずつ、その画質に不満を抱き、上位機種に目が移り始めたのです。未だ真空管の時代でしたが、カメラはSonyの業務用機、DXC-M3A。カメラだけで128万円でした。 それと携帯型のデッキ、VHSのビクター BR-6200。これらを購入したのです。そうした時に、京都のカメラ店のお知り合いの方からのご依頼で、結婚披露宴の撮影をする事になったのです。京都のリバーサイドホテル。朝の結婚式は、別のカメラマンが担当するとの事で、披露宴だけのご依頼でした。しかし、披露宴会場の、その広さにはまずビックリ。ライトもカメラ側からのハロゲンランプ、1灯では、とても届きません。披露宴も、正午から夕方まで、休憩後の第二部は夜の9時までという、非常に盛大な結婚披露宴でした。午後の食事会には、その当時、テレビ等で有名になっていた桂金枝さんと、月亭八宝さんがみえて、インタビューをなさったり、また、夜は別フロアーでダンスパーティー等、私自身、経験の全く無い催しの撮影に、初めてトライしました。その時のカメラマンは、私を含めて3台のカメラでの撮影でした。普通のテレビ中継等でしたら、3台のカメラの場合には、それらの信号を1箇所に集めて、一つの映像が出来るのですが、その時は、3台のカメラの連携は全然無く、それぞれが独自に撮影していましたので、金枝さんとか八宝さんは、少し面食らった時も有った様でした。センターで中継している時は、中継中のカメラにしか、撮影中のランプ表示は出ないのですが、この時は3台のカメラは、別々に撮影していましたので、「あちらのカメラを・・・」と、カメラを指さしても、どちらを向いても撮影中の表示が出ていたのです。 夜の立食パーティーの最後は、新郎新婦によるダンスを参加者全員が見守って、私はそのすぐ近くから、その演舞状況を撮影しました。新郎新婦のダンスはホントに見事でした。私もこの日は、初めての業務用カメラでの撮影でしたが、自分自身でも満足の出来た撮影でした。この時は、カメラを買ってから日も浅かったし、私の装備はマダマダ軽かったのですが、後日、本格的にビデオカメラマンのアルバイトを始めた時は、ビデオも更に固定用機を追加、カメラと接続するケーブルも、長さ30メートル、運搬用のストレッチャーは三段重ねのキャリヤー、三脚も大型となっていました。機材等は、大型となりましたが、その分、責任も非常に大きな物となりました。ビデオのカメラマンは、私一人だけ。ビデオ関係の担当者は、現場では、私一人だけで会場に臨む様になったのです。長くなりましたので、このお話は次回、再び詳しくお話しします。
 

2013年11月16日土曜日

ボーイスカウトの大会、蒜山高原で取材

8月の初め頃でした。岡山県ボーイスカウトの大会が開催されるとの事で、カメラマンと私の二人で、岡山県の県北、蒜山高原で取材する事になりました。カメラは16mmのフィルモ、三脚は勿論、夜間の撮影も有るので、バッテリー式のライトも一式。三脚も勿論、大型のズッシリと重い物です。ライトは、バッテリーは小型車に使用している様なサイズ。ライトは小型では有りません。電球はハロゲンで、反射板は直径25cm位のを2灯。勿論、予備のフィルムも持参しなくてはなりません。16mmの100ft巻きのフィルムですから、直径12~13cmの缶に収まった物を5本、それだけの荷物を、二人で運搬しなくてはなりません。車で走った場合には岡山市内から2時間以上掛かりますから、移動は社用車では無くて、乗合の一般のバスを利用しての移動でした。
蒜山高原に向かう乗合バスは、中鉄バスです。中鉄バスの乗り場までは、社用車で送って頂きましたが、それからは二人で、その全てを運ばなくてはなりません。乗合バスの最後部、棚の上等に重たい荷物を置いて、ヤレヤレ。
 蒜山のロッジに到着すると、即取材の開始です。夕方までは、屋外でボーイスカウトの皆さんの、テント設営作業等の撮影。現代でしたらマイクを持って、お話しを伺うのですが、音の収録は有りません。画像のみの撮影ですので、昼間は三脚だけを携えての取材が続きました。周りが薄暗間なった時から、ボーイスカウトの大会が始まりました。三脚は、少し離れたところに準備しておき、私はバッテリーを肩に提げて、ライト2灯を持って、夜の取材スタートです。ライトはバッテリー使用ですから、長時間、連続して点灯したのではすぐバッテリーアウトになってしまいますので、カメラマンが撮影をする、そのタイミングに合わせて点灯しなくてはなりません。2灯ありますから、それを正面と、上方からの照射に分けてのライティングです。顔に真正面からライトを当てたのでは、顔は真っ白になりますから、その様な事の無い様に、二つのライトを使用して斜めとか、上方から、その被写体の方に向けるのです。キャンプファイアーの際には、ライトを当てるのも、少し控えて、燃え上がる火の明かりを生かして撮影してみたり・・。この辺りは、カメラマンと照明の者との意志の疎通を図っての撮影でした。
キャンプファイアーの撮影を終えると、それまでに撮影したフィルムを、袋に入れて定期バスのドライバーに委託して、当日の撮影は終了。ロッジから、会社に電話して、何時のバスにフィルムを委託したので・・・と、連絡して、フィルムの受け取りを依頼、その日の夜遅くには、その画像が山陽放送テレビから放映されていました。山陽映画社には現像機も有りましたので、フィルムが届くと、すぐ現像。直ちに編集して山陽放送に届けて、それがニュースとして放送されているのです。
 これは余談ですが、蒜山高原には乗馬を経験させて頂くシステムも有りました。撮影終了後、係りの方にお願いして、馬上に乗ってみました。私は乗馬の経験は全く有りません。手綱を一生懸命に持っていたところ、馬は大人しくジッとしてました。手綱を緩めて・・・と、言われて、緩めはしました。しかし、全然動く気配は無し。踵で蹴ったらええんじゃ・・・とは言われたものの、強く蹴ったら飛び出されても怖いので、ホンのチョットだけ、踵で蹴りましたが、動く気配は全く無し・・・。係りの方も、無償サービスだから、馬を動かしてくれる様子も無し。次のお客さんが来たので、私は馬から降りましたが、遂に私には一歩も歩いてくれませんでした。生きている馬には跨ったけど、遊園地の馬の形をした遊具に乗ったのと、同じでした。
 翌朝、夜明け前に出発、近くの山に登りました。昨晩とは違って、年配の方々の同行でした。頂上に付いて三脚をセット。東に向けてカメラをセット。カメラマンが私に、ファインダーを覗いて見ろ…と、仰ったので、覗いたところ、地平線が画面の下から1/3の辺りに有って、曇った空、日の出では有りません。雲が、その大部分を占めていました。そこで、私は、そのプロのカメラマンに、もう少し角度を下に向けて、地上の風景を入れた方が良いのでは・・・? と、生意気にも進言。すると、イヤイヤ、朝の空を写すのが目的じゃから、これでええんじゃ。との事で、ま、無事でしたが、良くもまあ、プロのカメラマンに向かって・・・。やはり、私はそういう意味では、ホント、世間知らずでした。
 アルバイトとして勤務していると、山陽放送からの連絡で、今晩の放送で、私の8ミリ映画を流すから、その時間に金甲山の放送スタディオに来るように・・・との事。その日は、指示された時間に市内の山陽放送テレビの事務所まで出掛けて、安田アナウンサーと共に金甲山のスタディオへ出掛けて、生放送に出演しました。でも、生出演とはいえ、声だけです。流れる画像は私が制作した8ミリ映画。この当時には、未だ、画像を生で流すシステムは山陽放送には有りませんでした。ニュース等も、画像は16mmのフィルムの画像。音声は金甲山のスタディオで生の音声で流していました。
放送後は、自宅まで車で送って頂きましたが、報道の皆さん方の勤務時間がバラバラなのと、その時間の長いのには、ホント、驚きました。当時は、終日放送では有りませんでしたが、それでも、朝早くから深夜まで・・・、きつい仕事だなーと、思ったものでした。

2013年11月10日日曜日

8ミリ映画のスタート、YASHICA 8-EⅢで

この当時は、家庭用のテレビも充分には普及していませんでした。私の家にも、未だテレビは有りません。動画といえば、映画館で見る映画、この時代は、中村錦之助さんとか東千代之助さんが中心になっていた、時代劇の時代でした。写真好きからの興味がどんどんと広がり、動画の世界に興味を抱いたのです。家庭用で、自作できる動画といえば、8ミリ映画でした。この当時には、9.5mmは、もう有りませんでした。最近では、ズームレンズは当たり前ですが、この時代には、ズームレンズはマダマダ一般的な物ではなく、シネ用のレンズは、ターレット式レンズの付いた基盤を回転させて、レンズ交換をやっていたのです。写真のカメラは『Yashica 8 EⅢ』。ターレット式の3本のレンズ交換式8ミリカメラです。レンズが全部で6本ありますが、小型のレンズはファインダー用のレンズです。フィルムはダブル方式、16mm幅のフィルム25ft巻きで、現像後半分の幅にカットして1本50ftに加工して現像所から返送されていました。現像はフィルムメーカーの工場宛てに発送して、完成返送されるまで、約1週間。現在のビデオカメラを考えると、ホント大変、手間と暇の掛かる代物でした。カメラでは撮影だけ、画像を見るには別途映写機が必要です。当初は、現像が上がる度に、カメラ店で映写機を拝借、画像の確認をしていました。編集といえば、原版のフィルムをカットして、それを接着剤で繋ぎ合せて、作品を作り上げていたのです。暫くしてから、フィルムの端に、マグネットを貼り付けて、そこに録音が出来る様にもなりましたが、それは数年後の事で、この当時は画像のみ、音声の記録は有りませんでした。作り上げた作品も、音は一切無し、無声映画で、画像だけで全てを表現したものです。
初めての作品、どの様な構成にするのか、随分考えました。参考書類、書籍は数多く読みました。ストーリーが有って、しかも、全てを自分で撮影出来る物で無くては、不可能ですので、 やはり俗に言うホームムービーしか出来ない・・・と、私を主役にしたホームビデオ、『鉄筆』に決定しました。この作品、『鉄筆』に付きましては、このブログ『6月6日』付けで詳細に置き込んでいますので、省きますが、この作品は『山陽新聞』『山陽放送テレビ(RSK-TV)』共催の8ミリ映画コンテストで、推薦に選ばれました。一般の方々を対象にしたコンテストに、全くの無名の高校生が推薦になったという事で、非常に大きな話題となり、新聞の朝刊に顔写真、テレビで放送等、地元岡山では、かなりの方に知られる存在になりました。テレビの放送では、映像を流しながら、バックでアナウンサーの方との対話を入れる事になり、その対話も、録音では無く、生音声を入れよう・・・と、放送時間に合わせて、テレビスタディオに向かったものでした。
 この当時は、テレビのニュース番組も、画像はフィルムによる物でした。マダマダ、ビデオは利用されていなかったのです。そのニュースフィルムの作成は『山陽映画社』が担当していましたが、その会社から私にお呼びが掛かったのです。カメラマンとして活動しませんか・・・と。将来は兎も角、アルバイト位はしても良いかな・・・と、夏休みの1ヶ月半、カメラマン、及び撮影補助として活動しました。カメラは8mmでは有りません。ワンランク上の16mmのカメラ(フィルモ)と、一般の映画館でも使用していた35mmのカメラ(アイモ)の2種類のカメラを使っての撮影でした。
 何も無い時は、会社内で色々やっていても、外でサイレンの音が聞こえると、すぐ支度して、会社を飛び出して事件の現場に駆け付けたものです。交通事故、火災等々、サイレンの音から、電話で警察、消防に確認、カメラと照明、三脚を持って現場に駆けつけました。火災の現場では、消防の放水の水を受けながらの撮影も経験しました。又、時には短編映画の撮影に、35mmカメラで蒜山高原に出掛けた事も有りました。夜間の照明には、直径7~80cmもあるライトで、噴水の頂上をバックから照明したり・・・。もっともっと、お話ししたいのですが、少し長くなりましたので、詳細は次回にします。

2013年11月5日火曜日

やっと手にした一眼レフ、Minolta SR-1

初めて手にした一眼レフ、Minolta SR-1、未だ未だ、世間には一眼レフは珍しい存在でした。レンズは55mmf:2.8。このカメラを手にするまで、何度カメラ店に足を運んだ事か・・・。ショーウインドーの前で、ジーッと眺めまわして、横に置いてあるNikon Fを横目で見ながら…、しかし、その価格表示を見て、自然と目はMinoltaの方に・・・。当時の価格で、Nikon Fは、Minolta SR-1の約2倍の価格でした。暫くショーウインドウの前で眺めてから、店内に入って、カタログを頂きました。カタログは無料ですので、当然Nikonのカタログも頂きました。自宅に帰ってからは、そのカタログを隅から隅まで、じっくり研究。その翌日には、再度カメラ店を訪ねて、暫くショーウインドウを眺めた後に、やっと店内に入って、お願いをしてNikon-FとMinolta SR-1の二つのカメラに初めて触らせて頂きました。初めて手にした一眼レフ、それ迄はコンパクトカメラ Olimpus Pen でしたから、重量も全く違い、又、ファインダーを覗いたその世界は、まるで別世界を眺めている様な感覚でした。価格を訪ねると、ショーウィンドウに表示されていた価格の返事が返って来ました。その価格を頭に入れて、今度は、又別のカメラ店へ自転車を走らせて、同じくショーウィンドウで価格を確認した後に、店内で、価格を尋ねて・・・。次から次と、カメラ店を梯子して、価格の比較をしておきました。その当時は、店員と価格の交渉をする等の発想は浮かびませんでした。店頭価格が全て・・・と、考えていた、マダマダ純真な私でした。数多くのカメラ店で価格の確認をした後、父親に請願して、やっとOK。初めての一眼レフを手にする事が出来ました。
 当時の一眼レフは、自動装置、露出計の組み込み、ピント調整等は、何も組み込まれていません。全てが手動で、後はカメラマンの腕次第です。当然、慣れも必要でしたので、常にカメラは私の傍に有りました。学校に通う時も、密かに鞄の中に・・・。学校の帰りには、近くの後楽園に寄ってみたり、当時は未だ天守閣は再現されていませんでしたが、岡山城跡に行ってみたり。帰宅すると、慌ててダークバッグを持ち出して、フィルムの現像タンクにフィルムをセット、時計を確認しながら現像液の注入、中間停止、定着液。そこまで終えると、一度そのフィルムを取り出して、撮影と現像の確認。しかし、ネガですから細かい事は判別できませんが、一応確認の後、数時間の水洗を開始。
 岡山で国体が開催された時は、ほとんど毎日、カメラを持って撮影に出掛けました。午後から始まる高飛び込みの日、私は午前中から、誰も居ない、その高飛び込みのプールサイドに陣取って、三脚をセットしてスタンバイ。午後になって、係りの方が見えましたが、「報道の方ですか?」との問い掛けに、素直に『ハイ、そうです』と答えて・・・。高飛び込みの姿を逆光で、シルエット撮影しました。
その時の写真、後日開かれた国体の写真展で入選でした。
 この当時は全てがモノクロ写真でした。カラー写真も有る事は有りましたが、現像、プリントは全て郵送での依頼でしたので、私がカラー写真を写す事は一度も有りませんでした。でも、フィルムは映画撮影用のコダックの100ft巻、ASA400を購入して使用していました。
 毎日毎日、写真撮影に頑張っていたのですが、フト抱いたのが動画の撮影に対する興味でした。当時、家庭用の動画、8ミリ映画が発売されて、未だ日の浅い時期でした。映画といえば映画館で見る映画だけで、家にはテレビも無い時代でした。当時発売されていた8ミリ映画に対する月刊誌は3種類、小型映画、8ミリ、8ミリシネの三種類。高校2年生からでしたか、毎月3種類の月刊誌を購入して、それだけでは物足らず、小型映画の別冊、何種類も有りました、ストーリーの組み立て方とか、撮影の全て、編集方法等々、全て買いました。買っただけでは無く勿論熟読しました。自分でストーリーを考えて、それを撮影、撮影した物を編集・・・。その時、頭に叩き込まれたのが『起承転結』です。物語はその全てが起承転結で進めれば、上手く出来る・・・という事です。『起』で何かが始まって『承』でそれを暖かく持ち上げて、『転』で何か大きな変化を与えて、最後は『結』で丸く纏め上げる。ホント、何事もそうです。ドラマも小説も。私は何かを纏め上げるには、全て、その言葉を頭に入れながら作業を進めています。その当時、勿論カメラ店に展示されていましたが、8ミリ映画のカメラ等、見かける事は有りませんでした。それを、私がやろうとしたのです。カメラで撮影した後は、そのフィルムを現像所に郵送、帰って来たフィルムは、8ミリ映画の映写機も必要でした。カメラだけでも3万から5万、映写機も同じ位でした・・・・。さあ,私の夢は大きくなる一方でした・・・・・・・・。

2013年10月27日日曜日

高等学校では写真部に

岡山操山高等学校に入学、場所は後楽園のすぐ北側です。自宅からは自転車通学。通学用に3段切り替えの最新型の自転車。でも、今から考えれば、極く普通の家庭用の自転車でした。最近のサイクリング用の自転車等とは似ても似つかぬスタイルでした。でも、買い物用の前かごは有りませんでした。雨の日も風の日も、傘を持っての片手運転、自宅からは20分位でしたか・・・。
 入学早々の初めての体育の授業でした。グラウンドに集まって、砲丸投げの授業。未だ最初だったからでしょう、全員の運動能力を知りたかったのかと思いますが、担任教師は名簿を手に、全員の投てきを記録していました。いよいよ私の投げる順番になりました。砲丸投げのサークル、サークル内の一番前のガード部分に立って、そのままの位置から、砲丸を力一杯に投てき。すると、すぐその先生が寄って来て、小声で、「ホンマは、なんぼ投げれるんじゃ?」と、尋ねて来ました。だから私は言いました。「イエ、これで精一杯ですよ・・・」と。私も中学時代に砲丸投げはした事はありました。しかし、助走をする自信が無かったので、一番前まで出て身体を反転させて、その場で投げただけなのです。ただ、皆さんと違って、砲丸を投げる時、野球のボールを投げるのと違って、親指側を付き出す様に逆スナップを利かせて投げたので、ビックリなさった様でした。
 部活は陸上にも入りましたが、新たに文科系では写真部に入りました。初めての写真部、暗室も見学しましたが、まるで屋根裏の様な狭い場所に暗室が有りました。全紙用のバットも有りましたが、これでは中々、一年生では、順番が回って来ないな・・・と、感じたのです。そこで、思い切って、自宅に暗室をセットしたのです。最初は、自宅のお風呂場でした。夜間、全員の入浴後、窓の隙間等を毛布を用いて、暗室を設定。最初は、プリントサイズも四つ切を限度にしていましたので、それでも良かったのですが、段々、欲が出て来て、最後には全紙のプリント迄もしたくなって・・・。遂には、専用の暗室を家庭内で自作したのです。畳一畳分の押し入れ、その中の横板を取り払って、出入り口は毛布で遮光。今から考えると、その時、私の親は反対もしませんでしたが、逆の立場だったら、私は拒否したかもしれません。というには、当時は自分の家では有りません。県庁の職員用の住宅、借家です。その借家の押し入れの、中の棚を取り去ったのです。工事の前に、県庁に申請したとしたら、拒否されたかも知れません。でも、父親は何も言わず、私のわがままを許してくれました。暗室を作るからには、引き伸ばし機が必要です。又、光沢紙を乾かす乾燥機、現像用のバットが3枚。当然、モノクロしか出来ませんが、ホント、ほとんど毎日暗室に入っていました。木製のパネルに貼って、コンテストに応募、当時、岡山国体の写真コンクールだったと思いますが、入選でした。
 高校に入って、35mmの一眼レフも買って頂きました。ミノルタSR-1でした。本当は、Nikon Fが欲しかったのですが、価格が6万円以上でしたので、約半額のカメラで辛抱したのです。父親は公務員でした。当時の公務員の給与は、将来恩給が有るから・・・と、民間よりもグーンと低い給与だったのです。現代とは大きな違いですが、当時はそうでした。私達、家族全員で協力して・・・。でも、今だから言えますが、私は随分、好き放題に新しい事を始めさせて頂きました。35mmフィルムも、36枚撮りの国産フィルムでは無く、100ft巻きのコダックのトライXを使用させて頂きました。そのフィルム現像も当然、自分でやりました。大きな布製のダークバッグを買って、その中でトライXをパトローネに装てんして、撮影後はそのフィルムを、再びダークバッグの中でフィルム現像タンクにセットして・・・。
その当時、父親に内緒で、135mmのレンズを県庁の売店で購入したり・・・。父親の名前で県庁の売店で、給料引きで何でも買えたのです。遅いけど、お父さん、ゴメンナサイ。でも、ありがとうございました。今度、綺麗なお花を持って、線香をあげに参ります・・・。

2013年10月22日火曜日

高等学校の受験

岡山県立岡山操山高等学校の正門です
岡山大学教育学部付属小学校6年間、中学校3年間も年が明けて卒業間近となりました。その当時、岡山では進学する高等学校は数少なく、限られたものでした。県立の普通科高校は第六高等学校を前身とする岡山朝日高校、岡山一女を前身とする岡山操山高校の2校しか存在しませんでした。その二つの高校も、総合選抜ですので、どちらに進学するか、一応の希望は表示しますが、それはあくまで希望であって、どちらに進学するか、全く解りませんでした。私の兄二人も、それぞれが朝日、操山に進学していました。私も一応は、元六校の岡山朝日高校を希望として出しました。
受験は、中学校から近いからかどうか、岡山朝日高校で試験を受けました。自宅からの距離も、操山高校までの半分位の距離に朝日高校が有ったのです。試験は、ごく普通のペーパーテストで、特に問題は有りませんでした。合格発表を前にして、各中学校を通じて総合選抜の結果を知らされましたが、私は岡山操山高校の方になっていました。合格発表の日、自転車で操山高校にまで出掛け、合格を確認、友人達と共に付属中学校に、合格の報告に出掛けて、中学校の先生方からお祝いの言葉を頂いたものでした。
 自宅に帰った時、家には祖母だけでしたが、私は祖母にも声もかけずに、そのまま自分の部屋に入って・・・。暫くすると、祖母がそーっと私の部屋に来て・・・。祖母が何を聞きたいのかは分かっているのに、わざと何にも話さないで・・・。遂にしびれを切らして祖母が尋ねて来ました。「高校の試験は??」「うん? 合格してたよ」「よかったなー、おめでとう!!」「高校の試験ぐらい、当たり前じゃー・・・」「今朝、あんたが出かけた後にな、言うとったんじゃ、もし落ちとったら、だまーって自分の部屋に入るじゃろうな・・・て」。 私も自分自身、本当に不合格だったら、多分、そうしたと思います。黙って部屋に入って、誰とも口をきかないで・・・。家族も、皆がそんな様に考えていたみたいでした。でも、本当に、高校の受験には、私自身、不安は抱いていなかったのですが・・・。
 ホント、家族は同じような事を考えるんだな・・・と、家族の温かみを感じたものでした。
ところで、不思議に思った事が、一つありました。入試発表の場で、アイツ、何でかな? 今日、発表の場に来てなかったな・・・、と思っていたのですが、新聞に掲載された入試発表によると、不合格になっていました。一般的には知らされてはいないけど、不合格の場合には、前以て連絡が有るのでしょうね。ホント、大学と違って高校の入試発表で不合格の姿は見た事が有りません。ま、これが事実かどうかは、判断は出来ませんが・・・。
 結局、中学校では、部活としてはバレーボール一本でしたが、対外試合には各種出場しました。陸上競技、ハンドボール、サッカー・・・。中学校では記録はたいして良くは有りませんでした。陸上も100mが13.2秒、ハイジャンプが160cm。走り幅跳びは、どうしても5mの壁が越えられなかったのですから、体力自身はそれ程ではなかった・・・と。高校では、自分のカラーを、一杯に出して・・・と、胸を膨らませたものでした。

2013年10月15日火曜日

中学2年の秋からは、体育委員長

中学校2年生、10月の体育祭が終わると、生徒会の各委員長は3年生に替わって、2年生が委員長を務める決まりになっていました。私は体育委員長に選ばれましたが、生徒会の委員長の内で、一番忙しいのが体育委員長。毎月実施されているクラス対抗の各種の大会。種目別の対抗戦、まず、朝礼の場で、今月の競技種目、開催予定日の発表と、組み合わせ抽選会の開催予定と場所を発表。各学年5クラスに分かれていましたので、総員15名の体育委員に集まって頂いて抽選会の実施。そこで決まった組み合わせを全校に発表するのは、校内の一角に設けられた、横幅約3メートルの黒板でした。黒板に白墨で持って記入です。それ迄、トーナメントの図形等は、一度も書いた事は有りませんでしたが、兎に角、初めてトーナメントの組み合わせを、男女9組の組み合わせ図を記入しました。各体育委員は、抽選会の場で、既に組み合わせを知っていましたが、一般の方々への発表はこの黒板が初めての発表です。多くの生徒さんの注目の中、トーナメント図を書き終えて、ホッと一息・・・。
その翌日でした、1年先輩の体育委員の方から、指摘を頂きました。トーナメントの仕組み等を何も考えないで、単に組み合わせの図を書いたのですが、その私の書き方が間違っていました。添付の写真の右側の図の様に書いたのです。その図によれば、1回戦と2回戦の表示が誤りでした。『1回戦の不戦勝は有るが、2回戦の不戦勝は無い・・・』と。確かにそうです。1回戦、2回戦との事は考えないで、単に組み合わせを表示・・・と思っていたのですが、大きな間違いでした。そこで、早速左側の図の様に、1回戦と2回戦の高さを揃えて書き直しを実行しました。
組み合わせのトーナメント図と共に、試合の実行予定も横に書き出して、翌日から試合が始まりました。各ゲームが終わると、その結果を書き足して・・・。又、各ゲームの審判も体育委員の仕事です。毎日毎日、遅い時間まで、一緒に走り回ってのレフリーでした。その点、バレーボール、ソフトボールは走り回らないので、未だ楽でしたが、ハンドボール、サッカー、バスケットボールでは本当にくたくたでした。以前にもここで書きましたが、レフリーで走り回った日の夜は、吹き続けたホイッスルの影響で、耳はキーン・・・と、鳴り続けていたのですが、でも、何も考えずに毎日毎日。
 全試合を終えた翌週の月曜日は、朝礼で結果発表です。各学年、男女別に優勝したクラスには簡単ですが、校長から表彰状の贈呈もしました。賞品までは有りませんでした。
その当時の付属中学校には、バレーボールは4面、バスケットボールは2面のコートが有り、トラックは200mでしたが、その周囲もかなり有りましたので、ソフトボールは4面のコートが確保出来ましたが、ハンドボール、サッカーでは2面でした。
 毎月一種目でしたので、黒板には、特に注意するルールを簡単に説明もしたり、お陰で黒板への記入は随分と練習にもなりました。横書きの文字を書くと、右が少しずつ上がってしまいますが、それも水平に書けるように・・・。
 何事も経験する事ですね。ホント、良い経験をいろいろとさせて頂きました。

2013年10月10日木曜日

Olinpus Pen が発売されました

写真撮影、カメラに興味を持ち始めたのは、私の兄の影響でした。私が小学校の3年の時でしたか、アイレスフレックスを兄が購入して写真撮影を始めたのです。35mmのフィルムでは無く、6cm角のフィルム、ブローニーのフィルム使用。カメラのレンズはファインダー用と撮影用が別々に、縦に並んで付いている二眼レフカメラ。我が家にカメラが入ったのは、これが最初でしたので、みんな喜んで撮影に応じたものです。小学校4年のクラス会、ご父兄も参加しての集まりでしたが、そこに兄も参加、そのカメラでクラス全員、ご父兄もご一緒に全員の集合写真も撮影してくれました。今でもその時の集合写真はキャビネサイズに引き伸ばした物が、アルバムに大切に保存してあります。
私専用のカメラが欲しかったのですが、現代とは違って、まだまだ、物資の不足していた時代でしたし、当時の公務員の給与は民間よりも低い時代。親にカメラを買って・・・とは、なかなか言い難かったのです。当時、大卒の初任給が1万円程度の時代でした。だけど、カメラが欲しいなあ・・・とは、少しずつでしたが、頭から離れなくなって来たのです。しかし、物が溢れている様な時代とは違いますので、辛抱して、色々と策を練ったものでした。
 小学校の時には、全校で給食が行われていました。給食は、ご飯ではありません。みんな、味の無いコッペパンで、おかずは、校内の調理場で調理された物でした。当時は、給食の専門業者なんて有りません。ご父兄の皆さんが、順番に学校の調理場に来て下さって、給食の調理をして頂いていたのです。メインはコッペパンと暖かいミルク。粉ミルクを溶いて、温めた物でした。味は何も有りませんでした。大きなバケツを二人ずつで持って、教室まで運ぶのですが、途中でバケツを落としたり…。何度かその様なトラブルも有りました。
中学校からは、給食は有りません。生徒それぞれに弁当を持参していましたが、私の場合は、弁当を持参する事はほとんど無く、学校の売店でパンと牛乳を買って、それを教室で食べていました。袋入りの細長いパン、ロールパンて言いましたかね、上部に切り目が入って、クリーム、ジャム等を挟んである物、当時あれが幾ら位しましたか・・・、1本50円か80円、もしかするともっと安かったかもしれません。毎日のパンと牛乳代、それを貯めようと考えたのです。少しずつでも小遣いを貯めて、それでカメラを買おうと計画し、実際に実行しました。昼食時になると、教室を離れ、校舎の屋上で時間を潰していました。昼食抜きでも、その影響はほとんど感じませんでした。放課後も遅くまで、校内のグラウンドで過ごしていましたから・・・。
 この様な努力(?)をしていた時に発売されたのが、添付写真に有りますオリンパス ペンでした。当時のカメラの価格からすると、非常に安い価格で、5~6,000円で発売でしたか。給食代を貯めていた額を両親に示して、そのカメラを購入して頂く事が出来ました。35mmカメラのハーフサイズのネガサイズ。常に携行して、色々と撮りまくりました。しかしカメラはオート機能は何一つありません。全てが手動でしたので、露出、シャッター速度、それと大まかなピント調整。全て自分で調整して撮影を続けました。隣の小さなお友達、未だ小学校にも行く前だったと思いますが、近くの東山公園の遊具に乗る姿等を撮影して、喜ばれたりもしました。
 しかし、この頃は、マダマダ、ホントの遊びみたいな撮影でした。本格的に撮影にトライしたのは、やはり高校に進んで、写真部に入ってからです。ハーフサイズのこのカメラでは不満で、もう少し、上の一眼レフに進みました。フィルム現像からスタートして、プリントは全紙まで、自宅内に暗室をも作って、各種コンテストにも応募、推薦までは経験有りませんが、入選は各種頂いたものです。このお話は、次回詳しくお話しします。