2014年1月30日木曜日

庭の透明ガラスの外に、突然、だれか姿が・・・

大阪からの10トン車一杯の荷物も、アート引越センターの、その道のプロの方々のお手配で引っ越しは無事完了しました。引っ越しの時には未完成だった玄関前、入口の門扉、ガレージのアコーディオンも取付完了。やっと家族揃って大分での生活がスタートしました。娘の中学校は道路1本南側ですので、通学の心配も有りません。今迄、7ヶ月間とはいえ、初めての単身生活は、なかなか大変でした。スーパーはすぐ近くには有りましたが、やはり自炊というのは、ホント、考えていたよりも手間のかかるものでした。家族が一緒に生活となれば、仕事だけに集中できますので・・・。
単身の間、上司に連れられて、週の内、半分は大分の繁華街、都町で過ごしてはいましたが、それは、家族が大分に来ても、大きな変化は有りませんでした。でも、回数は以前よりは少なくはなりました。しかし、本社、九州支店等から、色々の方々が大分に来社される度に、私と社長で都町のご案内?  なかなか、大変でした。
 家族にも、初めての大分を教えようと、『割烹ほりかわ』をスタートに、スナックを数店、はしごもしました。そんな時でした、家内と娘を連れてスナックに行っていた時に、数人のお客が来店。その姿を見て、娘が声をひそめて「学校の先生やワ・・・」。両親が一緒やから、ま、良いか・・・と、カラオケを暫く楽しんで帰りました。勿論、先生方にも夫婦でご挨拶しました。だけど先生方も、ご両親とご一緒ですから・・・と、特にお咎めは無し。でも、後日、授業中に、又行ってるか? とか、言われたとか・・・。
 玄関は敷地の北側。鍵はかけてはいませんが、入口の扉、アコーディオンフェンスも取り付けて、勿論テレビインターフォンも取り付けていました。でも、やはり大分は、大阪とは少し違っていました。初夏の暑い日の夕方、風呂上がりで、敷地南側のリビングで、熊本産のスイカを食べていた時の事です。庭に面したガラス戸、塀に囲まれた庭側ですので、全面が透明のガラス戸でしたが、そこに突然、人の歩く姿が・・・。ナント、向かいの奥さん、お年は70は超えていましたが、その方が、近所で貰ったから・・・と、手にイッパイのトマトを持って来て下さったのです。慌てましたよ。お風呂上がりで、下着のまま、家内は入浴前でしたので、まだ助かりましたが・・・。表の入り口から入って来られたのでしょう。家の横を回って、南側の庭から突然みえたので、ホント、驚きました。ま、向かいの方ですから、チャイムは鳴らさなくても、せめて玄関辺りで一声かけて頂きたかった・・・と。
子供の頃は、岡山で生活していましたが、岡山でも、チョット、お声掛けはしてから入って来られたのですが・・・。それからは、例え風呂上がりでも、すぐにパジャマを着るとか、或いは南側にはレースのカーテンを引いておくとか・・・。ホント、最初の時はビックリしました。でも、少しずつ大分にも慣れて、休日には親子4人でトキハにも、又、時には少しだけ足を延ばして、吉田会館でお造り等を頂いたりしたものでした。


2014年1月28日火曜日

大分への引っ越しは 『0123』で・・・


 大分市泉町の新築工事、昭和63年3月半ばには住宅本体の工事が完了しました。玄関前の庭の工事等は未完成でしたが、入居は差し支えないとの事。単身赴任の住宅は民間の賃貸マンションでしたので、3月末迄には引っ越しを完了させようと考え、3月最後の日曜日の転宅を計画しました。若い頃の近距離の引っ越しは何度か経験していましたが、大阪から大分まで、子供達も中学生以上に成長してからの本格的な引っ越しは、全く初めての経験でした。当時テレビで流されていたコマーシャルは『0123』だけ。本格的な引っ越しは、ここしか知りませんでした。3月最後の日曜日に大阪で搬出、月曜日に大分へ搬入の計画で、『0123』に依頼。家族の移動も有る為、前々日の夕方、別府港からマイカーと共に『さんふらわー』で出発。翌朝、南港で下船、南港大橋を渡った辺りで、後部のガラスに異常を感じました。アレッ?と、ワイパーを掛けましたが、全然効果無し。ナント、驚きました。後部のガラスが割れていたのです。船中で何かトラブルが有ったのかもしれませんが、下船時には気が付かなかったので、仕方ありません。大阪の自宅に到着後、近くのカローラ店でガラスの修理を依頼。修理はその日に終わりました。割れた原因は、全く解らず、不本意では有りましたが、私の点検不足でしたので、仕方ありません。
 引っ越し荷物は、ある程度の準備は出来ていましたが、屋根の上のアマチュア無線のアンテナはそのまま。帰宅後、早速作業は屋根の上。ベランダに脚立を立てる事で、屋根の上には簡単に上がれましたので、当日は一人での作業でした。ルーフタワーに乗ったHFの2エレ、50MHzの5エレ、144MHzのスタック、7C2Vのケーブル等を取り外して、比較的簡単に終えました。取付時と違って、途中の測定等は不要ですので、スムーズに終了。引っ越しの当日、引越専門だけに、食器類等の専用ケース等で、全てお任せ・・・の状態で、どちらかといえば、見ているだけ・・・みたいな感覚でした。積み込み完了後は、手許用品だけをマイカーに積み込んだ上で、ご近所に、ご挨拶。再び、向かったのは大阪南港。午後7時の出航時、家族みんなでタラップからテープが投げられる風景を眺めていましたが、単身での出発時とは大違い。出航の寂しさは、この時は全然有りませんでした。1人の時とは大違いでした。いつもと違って、船室も定員4人の部屋。僅かでしたが、畳もあり、家族でゆっくり。私以外は全員が『さんふらわー』は初めてでしたので、船内を私が案内。ホント、一人の時とは大違い、その時、家族って良いな・・・と、思ったものでした。みんな一緒に、神戸港の乗下船風景を眺め、又、瀬戸大橋通過をも確認しました。
 翌朝、別府港でマイカーに乗って下船してからは、7ヶ月間走った道路、運転をしながらまるでバスガイド。何しろ、私以外は、全員が別府から大分へは初めて。右や左を眺めながら、泉町の新居に到着。引っ越しトラックの到着を待ったのです。ところが、大変な事になりました。自宅前の道路は4m道路。ナント、10トントラックが入って来られないのです。どうしようか・・・と、私達は慌てましたが、やはり餅屋は餅屋。便利屋さんの軽トラックが2台、駆け付けて下さったのです。30m程手前に止まったトラックから、折り返し運転をして下さって、全て無事に搬入は完了しました。最後に、請求書を出されて、これは会社宛に請求します・・・との言葉に、何も知らない私は、今、支払いましょうか?・・・、幾らですか?・・・。70万円・・・の言葉を聞いて、そんなの今は持って無いわ。請求して・・と、慌てて言ったものでした。距離を考えずに、安易に、良くも言ったものです。家具等は設置予定の場所に全て配置済みですので、後は比較的ユックリ。家族揃って初めての大分の夜。歌って踊って・・・(そこ迄はホントはナシ)。泉町での生活がスタートしました。

2014年1月24日金曜日

大分でも新築、設計図は自作しました。

昭和62年1月に、大阪で新築住宅に入居したばかりでした。そこに突然7月に転勤命令。7月に1週間の引き継ぎを完了、8月には、マイカー1台分の家財と共に、大分市に単身赴任を完了。一応会社からの指示では、4年間の大分勤務の予定でしたが、家族会議の結果、翌年、昭和63年の春家族全員で、大分に転居と決定。新築したばかりの大阪の自宅、如何にするか検討しましたが、売却する事にしました。短期間の転勤では有りますが、大分市でも新築しよう…と、早速、宅地を探したところ、十条近くの不動産屋さんで、50坪弱の宅地を進められ、泉町の宅地を購入。大分の50坪は、大分の方々には狭い宅地かもしれませんが、大阪の感覚では、充分な面積でした。早速、住宅の設計にかかり、別府市の一級建築士の方に設計をお願いしましたが、出来た設計では、部屋数が少なく、親子4人が生活するには耐えられないものでした。そこで、方眼紙を購入して、私が図面を描いたのです。LDKは16畳の広さですが、それ以外の部屋は6畳の部屋を4室、各階にトイレ、私の書斎は変形の4畳。この設計図を一級建築士の方に見て頂いたところ、これは良いわ・・・と、お褒めのお言葉を頂きました。ところが、私の書いた設計図、根本に誤りが有ったのですが、それは、基礎工事等が終わった段階で初めて気付いたのです。
私はA4の方眼紙、1cmを3尺として図面を作成しました。1間は6尺、1間は180cmである・・・と、認識の誤りが有りました。大阪では、それで充分通用していたのです。しかし、後から聞いたところ、1間は182cmで建築する…との事。関西間とか、江戸間、団地サイズとか、いろいろありますが、大分では182cm。この結果、裏側に設けたキッチンの裏口、ドアを開けると、通路一杯になってしまいました。地方毎に、畳1枚の大きさを、良く聞いておくべきでした。しかし、普段はあまり使わない裏口でしたので、大きな問題では有りませんでしたが・・・。
 玄関は純和風の構え、屋根は、入母屋にしたかったのですが、ご近所との釣り合いが悪い・・・との事で、寄棟にしました。表の駐車場は広く、又、玄関前には植え込みも出来る様。
3月末には入居が出来る様、1月の成人の日、家族も大分に招いての棟上げを完了。それからは日曜日毎に、建築の進行状況をビデオ撮影して、ビデオレターとしてテープを送付、着々と工事は進みました。又、2か月に1回は、大阪の本社で会議が有りましたので、その時にも家族に報告、春の全員の転居を楽しみに、飛行機で大分の職場に向かっていました。伊丹空港を1番機で出発すれば、会社の始業と同時位に到着できましたので、大阪の自宅での宿泊を楽しみにしていたものです。初めての遠距離の引っ越しでした。1軒、全ての引っ越しですので、10㌧トラック1杯になる予定で、その頃、テレビ等で良くコマーシャルを流していた引越専門の方にお願いしました。

2014年1月18日土曜日

突然、私の目の前で昏倒・・・・、 今週月曜日の出来事・・・

昨年の4月から、大阪医科大学、腎臓内科の先生の指示により、血液透析を始めています。最初は2時間でしたが、周囲の方々とペースを合わせる事も必要になり、現在では毎回4時間、毎週月、水、金曜日の午前8時45分から。各ベッドには、個人専用に小型のテレビが設置されており、イヤフォンで時間を過ごしています。最初に血液透析用に2本の注射針を刺して、透析器を経由して再び体内に戻す、その透析行為、4時間、じっと辛抱しています。1時間おきに血圧を測定して異常が有れば、直ちに中止して、回復を図る・・・といったものです。透析によって、血液中の、本来であれば腎臓で抜き取られる筈の不純物、主として水分ですが、それを透析によって除去しているのです。症状の酷い方ですと、毎回4キロ以上の除去をしているとか・・・。私の場合には、未だ症状が軽い為、毎回1キロ未満の除去ですが、4キロも除去されると、大変な負担だろうと思います。一度に4,000ccもの血液を抜かれると考えると、ホント、震え上がる思いがします。
 今週の水曜日、15日でした。透析を終えてロッカールームに戻って、パジャマから着替えていた時の事です。私のロッカーは入り口側に有りますが、そのロッカーの裏側、コトコトと、時たま弱い音がしていましたが、ああ、何方か、着替えていらっしゃるのだな・・・と考えていました。私の着替えがほぼ終えかけた時に、別の患者さんが更衣室に入って来られて、ロッカーの裏側に行かれました。そこで、暫くした時に突然、「アンタ、どないしたん? 大丈夫か? 手を貸そうか・・・?」と、大きな声がロッカーの裏側から聞こえました。その次の瞬間、ドターッ!!と、何かが落ちた様な音がしたので、私も驚いて音の方向をみると、ナント、驚きましたよ。そこに、人が倒れて来たのです。倒れても全然動く気配無し。続いて大きな声で『誰か呼んで!!  誰か読んで!!』との叫び声で、私は咄嗟に、入り口横に有った非常ボタンを押しました。すぐ、女性の看護師さんが飛び込んで来られて、顔を叩きながら、お名前を呼んでおられましたが、「先生を呼んで!!」と、悲痛な叫び。すぐ、二階の先生に連絡、先生も飛び込んで来られました。診察室へ・・・との事で、その患者さんと先生、看護師の皆さんは診察室へ移動して、更衣室は、やっと静かになりました。診察室へ向かう時、先生は脱いだ靴を履く暇も無かったのでしょう。靴は更衣室の入り口に脱いだままの状態で残されていました。
 私も着替えを終えて、更衣室の入り口で靴を履いている時に、先生がそこに戻って来られて、無言のまま、ご自分の靴を履いて出て行かれました。その先生のお姿を拝見して、ああ、亡くなったんだな・・・と、感じました。そうでなければ、心臓マッサージ等で、靴を履きに戻ってみえる余裕は無い筈です。表の待合所に行った時に、受付の方が消防署でしょう、電話をなさっていました。救急車の手配でした。腎臓内科のクリニックでは、死亡の判定まではなさらないのかどうか。私達が迎えのタクシーに乗った時に救急車がサイレンの音もけたたましく、走って来ましたが、クリニックの正面には停車しないで、一本先の道路を曲がって行きました。エッ、何故ここに止まらないの?と、思いましたが、あっ、そうか、そういう配慮か・・・と、気が付きました。いくら、小さなクリニックであれ、正面に救急車を止める事には抵抗が有って、裏口に行ったのか・・・と。
 昨日、透析開始の際に、その看護師に尋ねたところ、やはり駄目だったそうで。83歳の方だったそうです。
 私の目の前で、突然亡くなる方を見ましたが、全く初めての事で、やはり、色々な事を考えさせられました。今迄も、葬儀等での対面は経験していますが、その現場の経験は初めての事です。私も何時、この様な事になるのか・・・と。年齢は、もう少しは有るものの、いつ、そうなっても悔いの残らないようにしないと・・・と、ホント、考えさせられました。今回は、過去の想い出話では無く、強烈な出来事が有りましたので、ここに、書かせて頂きました。次回からは、再び、前回に続く内容で書かせて頂きますので、宜しくお願い致します。

2014年1月11日土曜日

朝、宿泊していた本社の社員が行方不明!!

大分パークインホテル
大分販売に着任して暫くした頃でした。大分市、中津市、佐伯市に営業所が有りましたが、日曜日を利用して全社員が集合、営業会議を催す事になりました。全社の営業会議ですので、オブザーバーとして、親会社の本社、タイヤ営業部の課長と、今年入社したばかりの若い方、2名の方が、営業会議の前日、遠路、大分にお越しになりました。その日は、歓迎の宴、都町の割烹ほり川で食事の後、スナックを数軒、スナック小林、スナック津軽をまわった後、社長は代行運転で帰宅、私はタクシーで、お二人をパークインホテルにお送りした後、私のマンションに帰りました。翌日の会議は、午前9時からの予定でしたので、8時過ぎにはお迎えに伺います・・・と、お伝えしての帰宅でした。
翌日は朝から良い天気に恵まれました。お二人をお迎えに、社長専用車のセダンでお迎えに、サニーストんホテルまで出掛けました。お二人をお迎えした後、一度会社に戻って、車を社長に返してから、私は別の車両で会議の会場に向かう予定でした。前日に約束した8時でしたが、ロビーにはお二人の姿は未だ有りませんでした。でも、もうみえる事と、私はロビーで暫く待っていたのですが、一向にお二人が出て来られないのです。フロントの方にお願いして、お部屋に電話を掛けて頂いたのですが、一向に応答なし。そうしているところへ、課長がお一人だけでロビーに出て来られました。若いA君の姿が見えない・・・との事です。お二人はシングルの部屋を利用していましたので、お部屋は別々でした。再び、フロントの方にお願いしてA君の部屋に電話を掛けて頂きましたが、応答は無し。朝食中かも…と、地下に有るレストランにまで行ってみましたが、どこにも姿は有りません。係の方に尋ねても、朝食を取った形跡も有りませんでした。会社では、私が迎えから戻って来るのを待っている筈です。会社宛に電話連絡もしました。A君の姿が見えないので、今探している・・・。少し時間が掛かるかも知れないので、会議の会場までは、こちらから直接向かうので、社長はそちらの車で向かって下さい・・・と。
これ以上、探す所も無い・・・との事で、フロントの方にお願いしてA君の部屋のドアを開けて頂いたのです。部屋に入って、ビックリ! ナントA君がベッドの横、床の上に転がっていたのです。頭をドアの方に向けた状態で、浴衣の前をはだけた状態で、目は開いていました。二日酔いかと、一瞬思いました。しかし、話しかけても応答は一切無し。目は動いていましたので、肩を軽く叩いて、どないしたん?・・・と、声を掛けましたが、相変わらず返答は有りません。部屋の中、周囲の壁にまで嘔吐したのでしょう、汚物がまき散らされた様な状況になっていたので、余計に驚きました。これは一大事!!と、ホタルの方に救急車をお願いしました。会社宛にも再度電話を掛けましたが、ここまでの非常事態は想像も出来無かったのでしょう。会議に遅れるなよ!!と、きつく叱られる始末。
A君には課長が救急車で同行して、私は取り敢えずは、会議会場に向かいました。
営業会議は一応、予定通りに始まりました。始まってから30分もしない所へ。A君に同行していた課長から電話連絡。『くも膜下出血』で、緊急手術をする。輸血の必要もあるかも知れないので、『B』型の血液の人は集まって欲しい・・・との事。その段階で、営業会議は中止となり、私は血液型は違いますが、病院にまで駆けつけました。手術に備えて、A君の頭髪は剃りあげられて、丸坊主になっていました。手術には身内の方の了解が必要…との事で、病院から、ご両親に電話で了解を頂いたとか。非常時には、裏の方法が有るのでしょう、私達全員、A君の自宅電話番号等は知りませんでした。手術の日の夕方には、A君のお母さんが大分に来られました。一日や数日では退院できないと想像出来ましたので、お母さんのお考えを確認した後、私は滞在できる所を探しました。ホテル住まいでは大変ですので、病院から近くの賃貸マンションを探し出して、取りあえずの生活が出来る様、布団等も家内の応援も得て、準備する事が出来ました。
 それから毎日、面会時間には必ずICUにお伺いしましたが、一向に回復の兆しは有りませんでした。それから、10日以上後だったと思いますが、やっと意識が回復して、数ヵ月後には退院、大阪へ帰って行かれました。
 職場復帰は難しいかと思っていましたが、6年後、私の転勤で大阪本社に帰った所、部門は化成品に移ってはいましたが、元気なA君と言葉を交わす事が出来ました。ホント、この様な大変な事も経験しました。

2014年1月10日金曜日

会社が休みの日、話し相手を求めて・・・

中春日町の交差点、中央は豊和銀行本店
大分市中春日町、賃貸マンションの一室での、単身生活がスタートしました。学生の頃には、下宿等の経験は有りましたが、結婚してからの一人住まいは初めての経験でした。会社を終えて、帰宅の途中、スーパーで夜の食事、総菜等を持ってレジに行くと、「今日もお疲れさまでした・・・」と、レジの方からお声掛けを頂いていました。一応、自炊生活でしたので、野菜、肉、魚等も買って帰宅したものです。会社の業務は、私の得意とする分野でしたので、特に苦労とか感じる事も無く、平穏に過ごしていたのです。平日は、会社でも色々と当然会話も有るので、別に何とも思ってはいなかったのですが、休日となると話し相手は、誰一人有りません。休日の一日、朝から一言も口を利かないでいると、何か非常に寂しい思いを抱いてしまいます。そこで、朝からその日、及び一週間の献立をある程度考えて、調理等、準備を終えた段階で、買い物に出掛けていました。中春日町から大分駅前までは、歩いても10分位でしたか、国道10号線を駅の方に向かいました。パークインホテルの裏辺りでしたか、若草公園、確かここには蒸気機関車の展示が有ったと記憶しているのですが、どうも、現在では無くなっているみたいです。
その若草公園の東側に百貨店では無いですが、スーパーよりも大きな店、長崎屋?。記憶は正確では有りませんが、そのお店に入って、色々と物色、何か、あっ、これ良いな・・・と思ったら、その品物に付いて店員の方に説明を求めるのです。あれやこれやと、丁寧に教えて頂きました。時には、その品物を買う事も有りましたが、説明して頂くだけで、帰る事も有りました。店員さんと、僅かですが会話をする事で、何となく心が休まる思いがしていたのです。休みの日、一日中、誰とも話さないでは、何か、頭がおかしくなる様な、そんな感覚も抱いたものでした。店員さんにとっては、ご面倒をお掛けしましたが、でも、時には実際に購入もしましたので、お許し頂ける事と思います。
 当時、アマチュア無線もやっていましたので、ベランダに144MHzのホイップアンテナを立ててみましたが、どうも、私の関西なまりが嫌われている様で、お友達は中々出来ませんでした。144MHzで、近畿地方との交信は、アンテナ等が不充分でしたので、交信は不能でしたし、長距離用のHF帯の無線機も手許には有りましたが、ベランダからは、その大型アンテナを立てる事は不可能でしたので、HF帯は通信不能でした。
 自炊では、休日にシチュー類を良く作りました。シチューは作るのも簡単だし、少し多めに作っておけば、温めるだけで食べられるので、重宝しました。最近では、シチューを作るのにも、シチュー用のルーが販売されているので便利になりましたね。この当時は、シチュー用、カレー用共、ルーを自分で作っていたのです。市販のルーなんて、未だ販売はされていませんでした。フライパンで小麦粉を油で炒めて・・・。作ったルーが、粉の塊にならない様に、丁寧に作ったものです。
会社帰りに、お造りでも買い足せば、それだけで充分。昼食は出前か、時にはすぐ西側に有ったファミレス(ジョイフル)に行く事も有りましたが、どちらかといえば、近くの中華専門のお店からの出前で済ませていました。炊事場には、買って来た根の付いた三つ葉、グラスに入れて、毎朝のみそ汁に2,3枚ずつ使用。朝食はみそ汁、漬物、時には焼き魚とか・・・。
 大阪の家を新築したばかりでしたが、家族も翌年の4月には、全員で大分に転居する事になりました。新しい家、転居後どうしようかと考えましたが、この次大阪に転居する時、元の家に戻るのも嫌だ・・・と、大阪の家は売却する事に決めたのです。短期間だけの駐在では有っても、ここ、大分で新築しよう…という事になったのです。どこにするか・・・、探し回りました。駅から遠ければ、価格は安いけど、地理不案内の場所では困るし…と。不動産屋さんを何件も回って・・・、決めました。
大分市泉町・・・。48坪。大分では狭いかもしれませんが、大阪の感覚では、広過ぎる位でした。

2014年1月9日木曜日

大分の想い出、ナント言っても『うどん博士』

柳通りの『うどん博士』本店です
大分の新しい住いには、日曜日の朝、別府経由で到着。新たな職場からは歩いて5分も掛からない位の距離、一つ目の信号の所でした。その当時、プールが運営されていたビルの4階、引っ越し荷物はタウンエース1台分ですので、入口近くに車を止めて、エレベーターを使って一人で運びました。若かりし頃には、下宿もアパートも経験していましたが、結婚してからの一人住まいは初めてでした。休めるだけの整理をした後、国道10号線の向かい側、当時はそこにスーパー、ラッキーだったと思いますが、食事の材料を求めに行きました。自宅では完全な自炊生活の始まりでした。しかし、当然、昼食は外食でしたが、ある日、社長に誘われて昼食に出掛けました。『うどん』でも良いですか?と尋ねられましたが、特に嫌いでも好きでも無かったので、初めてのうどん店に向かいました。着いたお店は『うどん博士』、この時は中島十条交差点から少し南に入った所のお店で、本店では有りませんでした。昼食としてうどんだけで済ませた事は、それ迄、一度も経験が無かったので、メニューを見ても、何をお願いしたら良いのか解らなかったのですが、それなら・・・と『特性うどん』を発注して頂きました。まあ、一度食べてみて下さい・・・との事でしたが、配膳された『特性うどん』を一目見てビックリ。普通のうどんを考えていたのですが、その丼の大きさに、まずビックリ。丼の直径がまるでラーメン用の丼位の大きさで、下が深く丸くなった丼、そこに、山芋の一杯入ったうどん。
思わず「ウワーッ! こんなに沢山、食べられへんわ・・・」と言ったのですが、まあ食べてみて下さい・・・。思い切って箸を付けましたが、そのうどんの美味しい事、美味しい事。平気で食べ尽くしました。社長はこのうどんが好きで、良く食べに通っているとか。なるほどなあ・・・と、そのうどんの美味しさには、ホント、私自身初めての出会いでしたので、驚きました。柳通りの本店のほか、もう一軒、大分市内には全部で3店の『うどん博士』が有ると伺いました。今迄、昼食はご飯をメインにして、うどんを軽く食べていたのですが、このうどんには、ご飯などは不要です。うどんだけでホント十分でした。量が多いだけでは無くて、その味わい深さに感銘を受けたのです。暫くしてからですが、私も『うどん博士』の虜になってしまいました。私が常に注文したのは『かま揚げ』でした。茹で上げのうどんを大きな平鉢に一杯の大盛り、それがあっという間に無くなる位にホント、美味しかったです。その『釜揚げうどん』は、大きな平鉢に盛り上げての配膳でしたので、普通の方でしたら、それだけで皆さん、満足なさるでしょうが、社長と私の二人が一緒に出掛けた際には、その『釜揚げ』のお代わりをしたのです。お代わりを注文したのは誰や・・・と、お店の方がわざわざ、私達の顔を確認に見えた事も有った位です。ちなみに、『釜揚げうどん』のお代わりは無料だったのです。大分を離れた今でも、『釜揚げうどん』の美味しさを思い出して、自宅でうどんを茹でて、釜揚げとして食べる事が良く有ります。しかし、その麺は、探し抜いた揚句、岡山の『かも川うどん』の太麺が私にはベストだと考えています。茹で上げた段階で、普通は水洗いしますが、水洗いをしないで、湯を切っただけで、つけ汁て食べるのです。今日、Googleの地図で『うどん博士』本店を探した所、今も従来の構えで存在していましたので、安心しました。しかし、今から20年以上前でしたので、大分市内も大きく変化をしているみたいでした。日豊本線が高架になっていたのでビックリです。大道の高架橋などは、その姿が全然有りませんでした。今、大分市を尋ねて行っても、多分、道に迷うでしょう。
もしこの次に大分市に行く機会が有れば、もう一度、是非『うどん博士』に行きたいと考えています。従来は別大マラソンのコース沿いだったのですが、マラソンコースが変更になったので、テレビで『うどん博士』の姿を見えなくなったので、残念な事です。それから、舞鶴橋の所の西鉄グランドホテル、無くなったのですね。会社の催し等で、何度も利用させて頂いていたのですが・・・。向かい側の商工会議所はそのままでした。この商工会議所も、業務の関係で、何度か出掛けましたが・・・。

2014年1月7日火曜日

関西汽船で、車一台の荷物と共に大分へ

関西汽船のさんふらわあ 当時はもう一代前の型でした
新たな勤務地での引き継ぎ、1週間を終えて、帰途は初めてのホーバークラフト。大分川下手のホーバー基地まで社長の車で送って頂いて大分空港へ向かいました。飛行機は今回で二回目の利用でした。でも、空港のゲートを通ってから、実際に機内に案内されるまでの、その時間の長いのには参りました。ゲートから中に入って・・・、でも何もする事は無く、ただベンチに座っているだけ。空港を離陸すると、窓の外はすぐに海の上でした。最短距離の瀬戸内海縦断かと思っていましたが、南に回って高知県の土佐湾辺りを経由して、紀伊半島から伊丹空港に向けて着陸態勢。高知県から和歌山の海岸線など、頭の中の日本地図を思い出しながらの飛行でした。今から思えば、1週間という短い間でしたが、出張等で2日以上。家を空けた事は初めての経験でしたので、久し振りの帰宅で、ホント、ヤレヤレ。
次の日からは、本社経理部での引き継ぎ開始。この当時は、全社の経理システム関係を担当していましたので、システム部等との引き継ぎもあり、中々大変でした。この当時の経理システムが起動する時には、そのシステムに登録する取引先コード等は私の担当でしたので、5桁の取引先コード、約10万件近くを、私一人で入力変更。全社システムが無事に立ち上がっていましたので、その点は助かりました。稼働前でしたら、ホント大変でしたが・・・。
 自宅内では、単身赴任に備えての準備が始まりました。賃借のマンションですので、当然ながら賄いは有りません。自炊用の包丁、まな板等を買い揃え、又、電子レンジ、トースター等も新たに購入しました。この当時は、タウンエースに乗っていましたので、引っ越し便は無し。1台の車に全てを積み込んでの赴任でした。赴任は、長距離運転では無く、関西汽船を利用しました。関西汽船の利用も初めてでしたが、地図の上で、大阪南港の付近を頭の中に叩き込んでの出発でした。港まで見送りに行こうか・・・と、家内の提案も有りましたが、自宅までの帰りが大変だから・・・と、見送りはキャンセル。初めての大阪南港は遠くに感じられました。南港大橋に辿り着いた時には、ヤレヤレと思った程です。フェリーに乗るのも、全くの初めて。車を載せて、指定されたペッドに付きましたが、同室の皆さんは、勿論未知の方々でした。出航時はデッキに出て港を眺めていると、定刻、ドラが
鳴らされて、岸壁に向けてテープが投げられました。今迄、出航は、宇高航路でも経験は有りますが、高いデッキから岸壁を眺めながらの出航は初めてでした。その時、思いました。見送りを断っていて良かった・・・と。もし、見送りに来ていたら、テープを投げて、多分泣いただろーな・・・と。出航の寂しさを、凄く感じたのです。知り合いは誰もいませんでしたが、離れる岸壁の写真は撮影しました。出航後、部屋には一時戻ったものの、初めての方々と話す事も無く、ベッドに転んでいましたが、神戸到着との事で再度甲板へ。大阪南港から乗って、神戸で下船する方も多いのですね。乗用車が何台も降りて行きました。再び出航しましたが、周囲は真っ暗の闇の中。ベッドに戻ってもする事も無いし、調度この頃開通した瀬戸大橋を眺めよう・・・と、甲板で待つ事にして、持参した144MHzのアマチュア無線のハンディ機で交信を試みてみたり。しかし、普段話している方々とは遠過ぎて交信は不可能でした。神戸から岡山の瀬戸大橋まで、すぐだろう・・・と考えていたのですが、真っ暗の中、凄く遠くに感じました。遠かったですよ、ホント。午前0時を過ぎて、やっと瀬戸大橋の下を通過、照明も無い真っ暗な瀬戸大橋をやっと通過して、ベッドに入りました。ひと眠りして、今度は是非、日の出を見よう・・・と、早めに起き出して甲板へ。豊後水道に掛かって、その先に九州の地が見え始めたのですが、長い時間が掛かりました。別府港に接岸する状態を確認したかったのですが、ドライバーは車に乗る様にとの船内放送で、止む無く車へ。初めての別府港、フェリーの桟橋から降りて、国道10号線に乗った時、引き継ぎの時に走った時とはまた違った、新天地に付いた・・・といった感激を味わったものでした。ホント、初めての単身赴任でしたから、その思いは大きな物が有りました。別府港内から国道10号線に出た時、別府市内から別大の海岸線に入った時。全く初めての地に入る様な深刻な感じを抱いたものでした。4年間との期限付きの赴任でしたが・・・。

2014年1月5日日曜日

管理部長引き継ぎ! 営業以外は全てが私の担当!!

和食の懐石料理、大分都町の 割烹ほり川でした
私の勤務していた会社は、自動車用タイヤの製造をメインとする企業で、世界中に拠点を設けていましたが、国内では各都道府県別にタイヤ販売の子会社が設立されていました。入社当初の4年間は、タイヤの知識を学ぶ為に、近畿地区のタイヤ販売会社に出向して、タイヤの営業を経験。実際に店頭でのタイヤ交換、ホイルバランスの調整、冬用のタイヤにスパイクを打ち込む等の作業、ガソリンスタンド、タクシー会社、大手運送会社等への営業活動等、タイヤ販売に関する全てを習得しました。その後、本社財務部で4年、兵庫県の工場で4年、京都の販売会社で総務課長を務めた後、本社経理部から大分販売への転勤です。この大分販売は、メーカーからの出向者は私一人だけ。他は全ての方が現地、大分の方々です。私の業務は、タイヤ営業以外の全てが私の担当でした。役職名は管理部長。会社の業務は営業をメインとする会社ですが、その中で営業以外を処理するのは、私と、若い女子事務員の方一人だけでしたので、それは大変でした。県庁、市役所、税務署、法務局、職安、会計事務所、警察等々、との折衝、全てが私の業務でした。銀行との折衝等については、本社財務部で、全部で36行の銀行と取引が有りましたので、その点はマスターしていましたが、それ以外は、全く初めてでしたので、本当に大変でした。でも、これも私の経験ですので、一週間の引き継ぎには、本当に真面目に取り組みました。
 今迄も、何ヵ所かの転勤は経験ありましたが、それは全てが関西地区内でした。初めての九州で、その慣習、生活内容の違いには、驚く物が有りました。赴任初日は、ご同行して頂いた九州支店の支店長と共に、現地の社長と3人で、料亭での食事でした。懐石料理で充分に満足したのですが、それだけでは終わりませんでした。近くのスナックを数軒、お伴をさせられました。初めてのホテルに入ったのは、深夜を回っていました。ま、初日だから仕方ないか・・・と、考えていたのですが一日だけでは有りませんでした。次の日、支店長は1泊だけで、次の日は姿が有りませんでしたが毎晩、毎晩、私の夕食はいつも現地の社長とご一緒。スナックもご一緒。私からの支払いは一切無し。驚きました。毎晩外食で、毎晩スナック、バー、ラウンジ等で過ごさせて頂いたのです。大分では、繁華街は都町。大分市内のほぼ中心部で、駅からも近い場所で、全てが揃っていました。毎晩、食事、飲食の後、社長の通勤車は代行運転で帰宅。私はホテルまでタクシーで帰着。驚きました。それ迄、関西では外食といえば、忘年会か新年会等、特別な日に限られていたのですが、本当に毎晩。参りました。それと、スナック等では、カラオケが付き物です。私は、それ迄カラオケ等は全く経験していませんでした。でも、覚えざるを得ない状況。一つしか知らなかった歌、香山雄三さんのお嫁においでよ。強引に歌わされました。いつの間にか、カラオケがセットされ、ホント、初めて歌わされました。又、スナック等でも、キープするのは洋酒では無くて、一升瓶の焼酎。雰囲気が関西とは全く異なりましたが、少なくとも、約束の転勤期間、4年間を無事まっとうする為に、努力しなければ・・・と、覚悟を決めたのでした。(これは昭和62年の想い出のお話です。ブログ上、前回から継続のつもりで、時期を書いていませんでした。現在のお話では有りません)