2013年9月23日月曜日

秋の職場旅行は 松茸狩り

小学生の頃は、岡山市上伊福に有った岡山県庁の敷地内に住んでいました。父の勤務先、岡山県庁の職員用住宅が、県庁の敷地内に有ったのです。現在、岡山県庁は旭川の相生橋の近くに新築移転、元の上伊福には岡山工業高校が設置されています。上伊福に有った県庁は、元は繊維関係の工場だったのかもしれませんが、紡績会社特有の屋根が斜めになった建物を、立て替える事も無く、工場みたいな建物をそのまま使用していました。少し奥にはグランドもあり、私達子供は、その広いグランドで自転車の稽古をしたり、ソフトボールをしたり、遊び場所に不自由はしませんでした。日が暮れるとそこで堂々と大型の打ち上げ花火等も楽しみました。4ヵ所か5ヵ所に大きな防火水槽が有り、その中には川魚がいましたので、時には釣竿を持って、フナ釣りを楽しんだりもしました。その当時の防火水槽は、まるでプールみたいに大きなもので、蓋は有りませんでしたので、ホント、釣り堀の様でした。プールよりも随分深く、時には子供が落ちて、大騒ぎになる事もありましたが、生命までは大丈夫でした。県庁の勤務時間後は、そのグランドで、職員の野球大会等もあり、私達も夢中になって応援したものでした。その当時から、職員の方々とも顔馴染みになり、一緒に遊ぶ事もありました。県庁の中には、売店、書籍販売店もあり、子供の月刊誌は予約して購入していましたので、発売日の午後、学校から帰ると一番に県庁の父親の机まで、本を受け取りに行くと、父親がニコニコしながら、本を手渡してくれたものです。又、時には庁内の本屋さんに直接出掛けて、希望の本を見つけて店員さんに渡せば、そのまま持ち帰る事も可能でした。支払いは、父親の給料から・・・。
 県庁の職員の旅行に連れて行って貰った事もありました。季節は調度秋、その頃は山に入ればマツタケが沢山育っていました。最近では、山に入っても、1本見付けるのに苦労する様ですが、その当時はマツタケは豊富でした。津山の手前、誕生寺という駅で汽車を降りて、近くの山まで歩いて行きました。当時は、現代みたいにすぐ団体バスで・・・と、いう様な事は有りません。2~30人の団体でしたが、それぞれ籠を持って山に入り、落ち葉の陰から頭を覗かせているマツタケを収穫、結構沢山有りました。山を降りると、農家の庭先に数個のコンロを設置、庭先での焼きマッタケ、すき焼きを開始、皆さんは日本酒を呑みながら・・・。コンロの周囲に茣蓙、蓆を敷いて、現代でしたら、まずビールから始まるかも知れませんが、その当時は、現在ほどビールは見た事が有りませんでした。確かその日は、子供は私だけだったと思いますが、みなさん、普段からの顔馴染みでしたので、お互いに遠慮も無く、楽しい旅行でした。現代では、松茸狩りは採れても採れなくても、一人数万円とかの入山料が必要ですが、その当時は県庁の職員旅行で行く位ですから、入山料、食事代は安かったのだと思います。でもその時もおみやげまでは無かったですね。現地で採り放題、食べ放題だけでした。
 帰りは、再び国鉄の汽車に乗って岡山まで。蒸気機関車ですから、平地を走っている時は、窓も開けていられますが、トンネルの時は、すぐ窓を閉めなくてはなりません。トンネルに入る手前で、機関車が2~3度汽笛を鳴らしてくれますが、それを合図に、何よりも早く窓を閉めたものです。開けた窓から顔を外に出していた時、目の中に石炭の燃えカスが入って、暫く痛くて痛くて、困った事も有りました。今度のリニアモーターカーは、その大部分がトンネルの中だそうですが、でも、ススの心配は無いから、ま、安心ですね。

2013年9月20日金曜日

あっ! プールにボールが飛び込んだ

 
未だ暑い時でした。いつもの様に、放課後のグランドでハンドボールの練習をしていた時、投げたボールがすぐ近くの附属小学校のプールの中に入ってしまったのです。プールの入り口は、勿論鍵が掛けられ、入る事が出来ません。しかし、飛び込んだボールを放置する事も出来ません。どうしようかな・・・と、考えましたが、プールの周囲のフェンスは、その気になれば簡単に越えられるものでしたので、そのフェンスを越えて中にボールを取りに入ったのです。ボールはプールの中、水の上に浮かんで、僅かな波に揺られていました。体操着のスタイルでしたが、そのまま水の中に入って、ボールまで歩いて行った時、友人達もフェンスを越えて、プールサイドに入って来ていました。「水の中は気持ちええんじゃろう・・・」と、更に2~3人が水の中に入って来て、ついつい、プールの中で、まるで水遊びの様になってしまったのです。
 暫くした時に、フェンスの外に小学校の先生の姿が有りました。お互いに顔は良く知っていた先生でしたが、「もう、その位にして、上がれヨ・・・」とのお優しいお言葉を頂き、みんな濡れた体操服姿で、プールから再びフェンスを越えてグランドに戻ったのでした。その当時、小学校にはプールが有りましたが、中学校には未だ設置されていなかったのです。無断でプールに入りましたが、でも、大事にならず、ホッとしたものでした。
 小学校の時、5年生と6年生は毎年夏休みの初めに、臨海学校が行われていました。行き先は瀬戸内海の本島でした。岡山から行ける海水浴場は、玉野のすぐ西側の渋川海水浴場。ここは陸路でバスで行けますが、それ以外は南備海運の乗合船で出掛けていました。一般には、出崎、豊島等の海水浴場でしたが、それよりも少し遠い島、本島でした。ホテル等は存在しません。完全な民宿でした。それも、最近の民宿とは違います。空き家を改造したのでしょうか、数軒の家に分かれて、各家全体の数部屋が明け渡されて、の宿泊でした。食事は、全員が別々には準備する方も大変だからでしょうか、お寺の大広間に全員が集まっての食事でした。岡山市の京橋の船着き場から本島の海岸まで、1時間半くらいだったでしょうか、1階の船室と、2階の甲板、2階は布製の日よけが有るだけで、椅子等は有りません。船の進行方向によっては、日差しが横から差し込む事もあります。日差しを受けて、暑くて堪らず船の反対側に人が寄ると、船が傾いてしまい、船員の方々が慌てて、「船が傾いています、両側に分かれて乗って下さい・・・」と、走り回っていたのを記憶しています。
 島に到着すると、そこで、班別に分かれて別々の空き家に入りました。3泊か4泊だったと思いますが、海には勝手には入れませんが、フリータイムは自由行動です。夜にはお化け屋敷も設営され、最後の夜は、海岸で花火大会も開催されました。朝は、早くから起きて日の出を仰いだり、普段、学校等では味わえない雰囲気の生活でした。布団の上げ下げ、部屋の掃除も全てを自分たちでやりますので、ホント、良い経験でした。
 臨海学校の期間中に、ほとんどの生徒達も泳ぎをマスターして、最後の日の午前中は場所を決めての水泳大会も行われました。でも、プールとは違いますので、タッチの差・・・ナンテのは有りませんけど・・・。

 島からの帰途、船の中は静かなものでした。みんな疲れ切って、ほとんどがスヤスヤとお昼寝。陽が当たっていても、反対側に移動するどころか、みんな、熟睡でした。船は児島湾から旭川に入り、上流に
上る事約30分、京橋の船着き場に着く頃には、起き出した全員が、賑やかに、迎えの家族に手を振ったり・・・。
 あれもこれも、思い出せば、ホント楽しい毎日でした。あの頃は・・・。

2013年9月17日火曜日

人間プラミットで危険な イタズラ

(2011年度カレンダー 河合町幼小より拝借)
幼・小・中学校の合同体育祭も終えた10月最後の土曜日、中学校だけで陸上競技大会と集団運動が開催されました。今回は体育祭とは違って、入場行進は無く、センターのグランドに集合。中庭で行っている毎週月曜日の朝礼を、大きなグランドで開催した様なスタイルでしたが、生徒達は全員が体操服での集合でした。今回の開催は生徒会が中心で行いましたので、まず生徒会会長が開会の挨拶。続いて体育委員長が壇上に上がって、号令、全員が体操の出来る様な間隔で整列。それと同時にラジオ体操の伴奏曲が会場に流されて、約750名全員でのラジオ体操。体操の後は再び号令に従って、全員トラックの周囲に設置されている各クラスの位置へ。
 いよいよ、各種の競技が開催されました。一般の陸上競技では、フィールド、トラックと分かれて各種の競技が開催されますが、この学校内の大会では、各種掛け持ち参加する選手も多く、なかなか各種競技の同時進行は出来ません。
100m走行を終えた選手が、慌てて走り幅跳びの方に走ったり、砲丸投げの場所に走ったり・・・と、選手の到着を待って各種競技が進行していました。
 午前中の主な試技が終わった頃に、男子生徒が集められて、集団演技が行われました。各クラスに分かれて、人間ビラミットの組み上げでした。最下段が横に7名、両膝と両手を地に付けて四つん這い。その上に6名が同様に四つん這い。最上段の1段を加えると、下から7段のビラミットでした。体操の授業時間等にも何度か組み上げる練習はしていましたので、組み上げ要領は心得て、全員、、あらかじめ決めていた位置に付いて、一段ずつが上に乗って行きました。
 しかし、今日はいつもとは少し一つ違いました。見ている方々をを驚かせたい・・・と、私の中にイタズラ心が生じたのです。ピラミッドの組み立てを始める前に、全員に聞こえる様に、しかし、周囲には聞こえない様に、『組み上げた途端に下から崩すよ・・・』と。
声を掛けておかなくて、突然崩したのでは、慌てて手を骨折する等の危険が有りますので、前以て全員に声を掛けました。
 私は最下段の中央でした。体育担当教師のホイッスルの度に、一段、一段と組み上げて、少しずつビラミットは高くなってゆきました。最後のホイッスルで、最上段の生徒が一段ずつ上に上がって、最上段に上がったのを確認して、一声、小さな声で、しかし全員に聞こえる様に『崩すぞーー』と声を上げてから、私は地に付いていた右手を少し前に移動させると同時に、右肩を少し下に下げたのです。計画通りに、7段のピラミッドは内側に向かって、ズッズッズズーと、崩れ、周囲からは女生徒達の悲鳴が聞こえました。何食わぬ顔で立ちあがって、全員に『怪我は無いな・・・』と確認、無事でした。
 全員で昼食を終えた所で、若い体育教師から言われました。『お前、わざとやったじゃろう・・・、見えとったぞ・・・』と。でも、小声でした。若い先生には、私のイタズラ心は、よくご理解頂けていた様子でした。当時は全員が幼かったので、何の怪我等も無く無事でしたが、今だったら、絶対に無理ですよね。
若い時もあったので、良かった・・・と、いったところです。でも、イタズラ心は今でも一杯に残っています。

2013年9月15日日曜日

秋の全校合同大運動会で、大失敗!!

(岐阜聖徳学園大学附属小学校のHPから拝借掲載)
10月に入って最初の日曜日、岡山大学教育学部付属幼稚園・小学校・中学校の合同運動会が開催されました。生徒数だけで、幼稚園が約100名、小学校約800名、中学校約800名、合計約1,700名。そこに、応援のご父兄方がおみえになりますので、全体では約2,000名から3,000名の大集会となります。中央のグランドは一周200メートルのトラックですが、その周囲は人、人、人で一杯の状況になります。
最初は、北側の入場門からは幼稚園と小学校生徒、南側の入場門からは中学校の生徒達が、音楽に合わせての入場行進。全員が足を揃えて、まるで国体の開会式と同様の入場行進です。来賓、幼・小・中の校長の挨拶、中学校の生徒会長の選手宣誓・・・と、開会式が進められ、引き続いて全校でのラジオ体操第一が始まるのです。そこで、体育委員長の私が壇上に上がって指導演技が開始されます。音楽に従って、体操の演技をするだけですので、特に問題は有りませんが、指先を軽く握っている時、その指先を延ばす時、又、踵の上げ下げも、基本に忠実なスタイルでの演技を心掛けました。これは、体操を基本通りに実行するだけですから、特に問題は無く無事終了。
 全体の人数が多い為、出場回数も自然と限られますが、中学校のメインの競技はスウェーデンリレーでした。学年ごと、クラス別対抗戦です。男子の場合には、第1走者が100メートル、第2走者が200メートル、第3走者が300メートル、第4走者は400メートルを走るリレーです。(女子は各半分)
 運動会の司会は、幼稚園、小学校、中学校でそれぞれ交替し、中学校の司会は私達の担任の体育教師が担当していました。普通のアナウンスでは有りません。陸上競技の場内放送は、独特の抑揚を付けて話すのです。語尾だけを下げる案内の仕方、その案内の抑揚の付け方を真似ていましたので、まるで陸上競技場の様な雰囲気になっていました。
 2年生までは別に何の問題も無く進み、いよいよ、私達3年生のレースとなりました。私は当然アンカーの400メートル。普段は400メートルなんて走る事もありませんので、まあ、無理をしないで走れば良いわ・・・と、考えていたのです。いよいよスタートしました。ところが私のクラスの走者はどんどんと遅れ、私がバトンを受け継いだ時には、先頭とは7~80メートルの差がありました。400メートルの全力疾走は出来ませんので、200メートルトラックの1周目は、はやる気持ちを抑えて押さえて、やっと1周を終えた時に、それ行けっと、ピッチを上げての走行をしたのです。どんどんと第一位の選手に追い付きそうな私の走行を見て、場内アナウンスが流されていました。『只今第2位を走っていますのは体育委員長のかわさき君で有ります・・・』と、陸上競技のアナウンサーの音声に合わせての放送が流れていました。第2位として、前方に目標が見えていましたので、比較的気持ちの上では楽に、走り続けていたのです。7~80メートル離れていたものが、200メートルを過ぎてから急にスピードアップして、どんどんと追いかけて、応援の方々も夢中になって声が上がっていました。残り40メートル付近では、遂に追い付き、これから抜きに掛かろう・・・とした、その時でした。
それ迄先頭をのんびり走っていた選手が私が追い付いた事に気付き、慌てて逃げ出したのです。
逃げる側の選手は、それまで、のんびり走っていただけに、体力は充分残っていたみたいで、即、全力走行を始めたのです。私は、追い付く・・・と、思ったところで急に逃げられて、ガクンと力が抜けて、残りの2~30メートルを走るのが精一杯で、結果としては、抜き去る事は出来ませんでした。
ゴールに入るなりグランド上に倒れ込んでしまいました。
 超満員の観衆の前で演じた私の恥ずかしい走り、追い付く寸前までは行きながら、逃げ出した姿を見て、ガクッとショックを受け、あとが続かなかった事は、今でも、悔しいだけで、取り返しの付かない大失敗でした。後から何度考えても、あの時、ガクッときた私が納得できないでいます。最初から追い抜くのが無理と考えていたら、ここまでの悔いは残らないのですが、あと一歩まで行きながら、そこで力尽きた私が、どうしても納得できない、悔しい思い出です。この悔しさは、何度思い出しても、もう一度、このレースを走り直したい、そんな思いです。一位の選手に逃げられて、逆転が出来なかっただけで有れば、何とも思わないでしょう。逃げられて、それを見て、ガクッとそれまでの力が抜けてしまった事が、自分自身どうしても納得できないのです。余りに情けない自分が、納得できなくて・・・。でも、それからは、その様な経験をしない様、全てに心がけてはいますが・・・。

2013年9月12日木曜日

中学校の映画鑑賞会。 ところが、その日にハンドボールの練習試合!

7人制ハンドボールのゴール
中学校の3年生になってからでしたが、7人制のハンドボールを授業で教えて頂きました。それまでの11人制と違った点は、競技コートの広さが約半分になり、ゴールも約半分の大きさになりました。当然ゴールエリアラインも小さくなり、その外にフリースローライン、又、サッカーではペナルティーキックですが、ハンドボールではゴールの前7メートルの位置からのペナルティシュートが与えられるようになりました。最近の7人制のハンドボールは、体育館の中でやりますが、当時は屋外、土のグランドにラインを引いてゴールポストを置いてあるだけです。
 私達の学校にも新しいゴールポストが届けられましたが、便宜上、移動式の物で、数人で運んでコートの準備をしていました。体育の授業でも、2組のチームに分かれて練習試合も経験しました。ドリブル等については、11人制のハンドボールと同様でしたので、人数が少なくなった事、競技場の広さが狭くなった事等が変っただけで、プレイする上で、それ程、大きな改革とは感じてはいませんでした。でも、ゴールエリアライン間近からジャンピングシュートをしようとすると、ディフェンスの方の手が、首に掛かってきて、首を締め付けられる様なケースが多くなり、7メートルのラインから、ペナルティシュートをする機会が多くなった事は事実です。11人制の時は、コートも広く、ゴールエリアラインでジャンピングシュートを試みても、ディフェンスの人が近くに寄って来るのに時間が掛かりますので、首に手が掛かる事等はほとんど無かったのですが、コートが小さくなっただけに、ディフェンスの人の壁がすぐ出来上がり、その隙間を狙ってのジャンピングシュートですから、どうしても首に手が掛かってしまうのです。しかし、私はそのペナルティースローのシュートは大好きでした。7メーターの位置からゴールキーパーと一対一のプレイです。7メートルラインの手前に左足を置いて、倒れ込みながらのシュートです。倒れる寸前まで右手からボールを離さない為、ゴールキーパーはどうしようも有りません。で、ゴールキーパーの位置を確認して、コーナーを狙ってのシュート。得点が入れば、例え練習でも嬉しいものです。
 ところで。中学校では、年間3~4回の映画鑑賞が有りました。校内の売店で入場券を購入して、一般の映画館での映画鑑賞です。通常よりも早い時間、8時過ぎからの上映開始で10時過ぎには終わる様なパターンで、映画館の一般営業には差し支え無い様な特別映写会でした。確か、岡山駅前の歌舞伎座だったと思いますが、仲の良かった例の裕子さんも行きたい・・・との事で、同行する約束もしていたのです。映画のタイトルは忘れましたが、私も是非見たいと思いましたので、売店で入場券を購入、その日を楽しみにしていました。
 ところが、担任の体育教師から、映画観賞会のその日曜日に、他の中学校とハンドボールの練習試合が有るから、まあ頼まあ・・・、と言われたのです。映画に行きたいのに・・・、時間を尋ねたところ、午後1時の試合開始と聞いて、ヤレヤレでした。岡山駅からだと、市内電車で15分も有れば帰り着く事が出来ます。
 映画観賞会当日の朝、映画館に行くと担任の体育教師が、なんじゃあ、映画に来たんか!と、不満そうな表情でした。でも、それ以上は何も仰いませんでしたが・・・。

 映画が終わると、その足で一度帰宅、体操服に着替えて、自宅から5分位で学校に着きました。コートは、もう一人の体育教師の手配で、すっかり出来上がっておりましたので、数人でハンドボールを投げたり、ドリブルしたり・・・と、練習、ウォーミングアップ。試合開始のホイッスルが吹かれて試合開始。シュートの場面では、どうしても私にボールが渡されるので、相手側も、私の周りはディフェンスが一杯。その間からジャンピングシュートをやるものだから、毎回二人掛かりで左右から首に手を掛けられて、ほとんど毎回、7メートルスロー。又、そのほとんどをシュート完了していましたので、ゲームは一方的なゲーム結果となりました。
そのゲームが終わり、後片付けをやっていたところに、担任の体育教師が何処へ寄り道していたのか、映画館から戻って来て、ああ、試合に出とったんかー・・・だって。ホッとした顔をなさってました。
 当時、中学校にハンドボール部は存在していませんでしたので、全員が校内からの選抜でプレイしたのですが、でも、だいたい、いつもメンバーは決まってました。暗黙の了解ですかね。スポーツだと言えば、必ずお声が掛かっていました。でも、実は大失敗もやったことが有るのです。これだけは、今でも後悔していますが、ほんと、お恥ずかしい限りです・・・。近日中に白状します・・・。

2013年9月10日火曜日

鉄棒の演技、見事に失敗しました

記事とは関係の無い鉄棒演技の写真です
写真の鉄棒演技、手をクロスさせて、体を回転させるのでしょうね。鉄棒で回転、大車輪まで出来たら素晴らしいと思います。
 私も中学校のお昼休み、天気が良い日には、必ず鉄棒の周囲に陣取ってました。中学校には1基だけでしたが、大人用の鉄棒が砂場の横に設置されていました。毎日、毎日、鉄棒にぶら下がって、大車輪・・・とまでは無理でしたが、前回り、後ろ回り・・・と、続けている内に、巴も出来るようになりました。車輪までは、チョット怖くてトライ出来ませんでした。まず鉄棒にぶら下がって、身体を前後に振って、蹴上がりで上がってからは、前転、後転、巴・・・と、繰り返し、下に降りてからは鉄棒にぶら下がって、懸垂を何度も繰り返して・・・。
小学校の時には、グランド内を走り回っていたのですが、さすがに中学校では走り回ろうにも、仲間がいませんので、鉄棒の有る砂場の周囲が昼休みの憩いの場でした。
 ところで、最近は学校等で、監督とか指導者の方々の暴力が報道されていますが、私の知る限りでは、コーチなどは一度もお世話になった事は有りません。私の学校が、スポーツの強い学校で無かったからかも知れませんが、全て自分たちで自主的に練習していました。バレーボール部のキャプテンでしたので、ある日、学校近くのお宮、玉井宮という神社の階段まで走って行き、階段を上り下りするトレーニングをしようとしました。すると、部員の口から、「何でバレーボール部員が階段を走らにゃいけんのじゃー・・・」と、ブツブツと言う声が聞こえて来ました。私の指導力不足だったのでしょう。バレーボールは、ボールだけを打てれば良い、体力増強等を考慮する事は関係無い・・。敢えて、それ以上の説明はしませんでした。
 3年生の時、担任は体育の教師でした。今日は鉄棒の練習・・・とかで、小学生用の低い鉄棒の並んでいる場所に集合しました。そこで、鉄棒の上での、前転、後転の説明後、私を指名して、巴を皆に見せてくれ・・・と、巴の演技を指示なさったのです。普段の昼休みの時間に、鉄棒の上で私が巴を軽々と演じている姿をご覧になっていたのでしょう。私も、何の抵抗も無く、指示に従おうとしました。しかし、普段ぶら下がっている中学校の鉄棒は地上2.4メートル位の高さですが、当日の鉄棒の高さは1.2メートルと、低い高さの鉄棒。軽ーい気持ちで巴を演じようとして、見事に2回失敗しました。先生も私に気をつかったのでしょう 「ああ、もうええわ、ええわ・・・、急に言うたから、慌てたんじゃろう、普段はいつも調子ようやっとったから呼んだんじゃけど・・・」と。
 その時、何故、巴が出来なかったのか、私自身、凄く不思議でしたが、ホント、今頃になって、鉄棒の高さが違ったから、その感覚が狂ったのかも・・・と、考えているところです。
 最近のお子さんは、鉄棒の逆上がりを練習する時、足で走って、勢いを付けて鉄棒に足から上がろう・・・となさっていますよね。私の考えでは、まず足を上にして鉄棒にぶら下がって、それから腕に力を込めて、足と腰を上に持ち上げたら、すぐ出来るよ・・・と、言いたいのですが、未だ一度も言わせてもらった事は有りません。私は、その様に信じているのですが・・・。子供さん達、未だ、そこまでの筋肉はついて無いのですかね・・・。一度、機会を作って、孫に教えてみる事にします。叱られるかな?



2013年9月8日日曜日

朝礼の発表、メモを見るだけではなく、全体を・・・

岡山大学教育学部付属中学校の専用門付近・正門は別です
中学校2年生の運動会終了後から体育委員長を務めました。毎月開催のクラス対抗戦の組み合わせ発表、又、終了後はその結果発表で、毎週月曜日の始業前に開かれる朝礼の場での発表も少しずつ慣れ、大きな声で全体に聞こる様に声を出す事も可能になって来ました。
 最近であれば、全校集会等は体育館内で実施されていると思いますが、私達の時代には体育館も無く、いつも中庭で実施されていました。従って、雨の日には朝礼は中止、緊急連絡事項が有れば、校内放送を通じて実施していました。屋外での全校集会ですが、その姿は、まるで現代の運動会、開会式を思い浮かべて頂ければ、想像が付くと思います。1年生を中央にして、左右に2年生と3年生、各クラス男女別に縦に一列になって、正面には1メートル少々の高さの演台が置いて有りました。全校で約750名の生徒ですから、縦の1列が約30人位ですので、結構広い場所でした。しかし当時はマイク等の設備は有りません。発表は演壇の上で、声を張り上げての発表でした。私はいつも、発表内容を間違えない様、メモを手にしての発表でした。しかし、先生方は余程の事がない限り、メモも無く、顔で周囲を伺いながらの発言をなさっていました。
 そこで私も、メモ書きばかりを見るのでは無く、前にも顔を向けて、全体の様子を見ながらの発表をしよう…と、大きな夢を抱いたのです。3年生の6月頃でしたか、クラス対抗戦の結果発表。手には得点のメモ書きを持って、いつも通りに朝礼台に上がりました。いつもでしたら、顔はずっとメモ書きを見ているのですが、その日は違いました。メモを見て、優勝は1年生はA組、得点は〇〇点、と発表して、そこで一度顔を挙げて全体を見回した後に、2年生はD組・・・と、メモの内容を記憶しては前を向いて、顔を上げて発表したのです。無事、トチル事も無く、無事に発表を終えました。自分では凄く満足した気分でした。顔を上げて、みんなの顔を見ながらの発表が狙いでしたから、ホント、満足感に浸っていたのです。
 朝礼が終わって教室に戻ったところで、同じバレーボール部の女性が私に話しかけて来ました。
「今朝の朝礼で、裕子の方ばっかり見てたなあ、・・・ みんな言うとったよ・・・」と。私はキョトンとしました。別に、特定の方を眺めていたのではないのですが、生徒の側からは、普段とは違うスタイルに、何か特定の事を結び付けて考えた様でした。名前を上げられた裕子さんとは、1年生の同じくバレーボール部員の方です。ま、仲は良かったですよ。バレーボールの練習後は、自宅が同じ方向でしたので、学校を出る時は、ほとんど一緒でした。でも、当時の中学生は、現代とは違って、特別のお付き合いなど有り得ないのですけど、周囲の方は、そんな事を考えていたのか・・・と、驚いた事もありました。
 しかし、毎月3~4回は朝礼で発表していましたので、今から考えるとその経験は大きなものが有りました。人前での行動、発声等、何も恐れなくなった事です。高校3年の時でしたか、8ミリ映画の試写会に東京まで行った時、突然、司会者から紹介され、挨拶を求められましたが、無事完了しました。何の準備もしてなかった時に舞台に招かれたのには驚きましたよ。ヤレヤレでした。でも、ホント、良い経験を重ねました。

2013年9月5日木曜日

審判は判定結果を 手振りでハッキリと・・・

中学校入学後、友人の誘いもあってバレーボール部に入りました。兄達の大反対を押し切っての運動部入部でした。兄達は、スポーツにはそれ程興味が無かったのか、文化系のみで、体育系の部活動は家族の中では私が初めてでした。当時のバレーボールは現在とは違って、全て9人制、又、コートも体育館の中では有りません。屋外の土の上のコートでした。1セットの得点も21点先取でセットが決まり、1試合は3セットのゲームでした。サービスは2本制で、2本失敗すると相手の得点となっていました。
 校内のクラス対抗のゲームでは、当然バレーボール部員が審判を務めました。ラインズマンとか副審は一切無し。主審一人での審判です。私の場合、ホイッスルを吹くのも、弱いホイッスルを吹くのは嫌でしたので、力一杯にホイッスルを吹いていました。当時、学校で使用していたホイッスルは、写真左側の、現在も警官が使用している様な、ピリピリッと言う様な鳴り方のホイッスルでした。右側のピーというホイッスルは、小学校の女性の先生が使用していただけで、他は全てピリピリッのホイッスルでした。
 バレーボールの主審を務めると、ホイッスルとなった判定の原因を示す事が必要です。ドリブル、ホールディング、オーバーネット、アウト、セーフ・・・、等々、ホイッスルを吹くと同時に、その判定結果を両手で示した後に、得点側の手を挙げていたのです。グランドは土ですから、アタックとかサービスで微妙な判定が必要な場合には、ポールの定位置を離れて、ボールの落ちた場所を目で確認して、それを指さして選手達に説明した事もありました。
 1学年5クラスでしたから、リーグ戦で4試合、男女別ですので8試合、3学年で合計24試合を行っていました。コートは男女それぞれ2面有りましたので、バレーボール部員が交代で審判を努めて、コートの周りは応援のクラスメートで一杯になっていました。ところが、私が審判を努めている試合は、余りにも取り巻く応援(?)が多かったのです。後日、他の女子バレーボール部員から聞いた話ですが、私のレフリーの判定結果を知らせる動作が大きく、両手でやっていましたので、何か、踊っているみたい・・・とかで、評判になっていたそうです。でも、判定結果のその理由を明示してくれない審判では、見ていても面白くないですよね。最近見たテレビですが、女子バレーの国際大会で、全然ゼスチャーで表示しない女性のレフリーもいましたが、えっ、今の得点は何? と、いったシーンが、かなり多くみられました。
 ところで、1日に2試合程度ずつレフリーを努めると、その後は大変でした。学校に居る間などには気付きませんが、夜、入浴などの際、耳に中はキーンと、耳鳴りが激しく続いていたのです。
ああ、今日も耳鳴りが酷いなあ・・・で、辛抱していましたが、それが積み重なって、成長してきた現在、一年中、私の耳には秋の虫が鳴き続けています。私にはその様に聞こえるのです。つまり、耳鳴りが酷く、キーンと鳴り続けているのですが、まるで秋の虫達が鳴き続けている様な感覚です。最近、一番困るのは、電子式体温計、最近の体温計は計測が終わるとピーッと、音を出しますよね。あの音が聞き取れないのです。決して聴力が悪い訳ではないのですが、800Hz当たりの音が少し弱い様です。高校生の頃に耳鼻科にも行きましたが、どこでも治療方法は指導して頂けませんでした。今現在も、周囲は静かな夜ですが、耳の中では秋の虫達が、ミーンと泣き続けています。耳鳴りは残ってしまいましたが、しかし、今、その当時の事を思い出すと、ああ、あの頃は楽しかったなー・・・と、思い出しているところです。
 放課後に私を探す場合には、グランドに出れば必ずどこかに居る・・・というのが、後から聞いた先生方のお話しでした。