2014年3月23日日曜日

和室の照明、蛍光灯を LEDに取り換え

 和室の照明は、今迄は蛍光灯、30W、32W、40Wの 合計102Wの照明。この和室は、昼間はもっぱら私専用の書斎? しかし、夜はこの部屋で、全員和室のテーブルで夕食を取っていました。最近、消費電力の少ないLEDが街の家電店には溢れていますが、和室用のこの手のランプは、2~3万円もする表示を見てビックリ。何とか安い経費でLED照明に替えられないものか・・・と考えていました。脱衣場とかトイレは40W相当のLED電球で充分な明るさでしたので、これならいけるかな・・・と、40W相当の電球、4個の照明にする事にしたのです。ネット通販で40W相当のLED電球を購入。消費電力は5.4W。これを4個点けた場合、消費電力は21.6W。現在の蛍光灯は103Wですので、1/4以下。そこで、テストもしないままに、蛍光灯からLED電球に取り換えたのです。LED電球の取付用にソケットを買って来て、それを中央に取付。電球の周囲が遊んでいるので、結線はしていませんが、32Wと40Wの蛍光灯は球のみを取りつけた形にセット。天井に取り付けて夜が来るのを待ってスイッチオン、忽ち家族からのブーイング。蛍光灯の時よりも手許が少し暗いとのクレーム。しかし、この方が電気代は安いから・・・と、その日は、その状態で休みました。しかし私自身も、少し暗いかな・・・と、思案。そこで次の日、今朝ですが午前4時に起床。再度工事に掛かりました。電気料は少し余分に消費するが、いっその事、32Wの蛍光灯の復活を試みたのです。もう、必要は無い・・・と、トランス等もすっかり取り外していたのですが、32Wだけ復活。再度、ハンダ付けする等、結構、手間は掛かりましたが、無事点灯。スイッチの切り替えで、大が32Wの蛍光灯と4個のLED電球、中が4個のLED電球のみ。小はLEDの豆球だけ。一度はすっかり部品を取り外していましたので、復活させるには、いろいろ大変でした。しかし、これで、やっと従来の明るさを取り戻しました。ヤレヤレです。見た目には、少し異様な組み合わせに見えるでしょうが、でも、2~3万円も掛ける位なら、ま、これでも良いか・・・と、一応は、家族共々、一応は納得しています。久し振りに手掛けた電気工事、坐ってする作業だけと違って、天井に上げ下げする作業も有ったので、運動不足の身体への負担はかなり大きな物が有りました。僅かな作業でしたが、足の痛み、特に膝上辺りに、かなりの筋肉痛を覚えています。でも、一応は家族の皆様のご了承も頂けましたので、ヤレヤレでした。あーあ、疲れた・・・。

( LED電球4個 +  32Wの蛍光灯 )

2014年3月13日木曜日

徐細動器(AED) 使用説明会の撮影依頼

最近では、公共施設、駅等にも携帯型の徐細動器が置かれる様にもなりましたが、病院にはもう少し大型の徐細動器が設置されています。これは、不整脈の治療に使われる器械で、心房細動(心房の収縮が無くなり、細かい波状に動く状態)、心室細動(心室の収縮が無くなり細かい波状に動く状態)を正常な動きに戻す時に用いられる補助人工臓器です。公共施設等に設置されているものについては、医学的な経験の無い方でも使用出来る様に、簡単な使用説明が添付されています。
近く、病院内において、緊急時の徐細動器の使用方法について説明会を開催するので、そのビデオ撮影をして欲しい・・・と、内科の部長から、総婦長を通じて依頼が有りました。説明会のアウトラインを伺ったところ、院内の医師、看護師を対象として、徐細動器の使い方を指導する。予定では4~5時間の予定・・・との事。使用方法は、比較的簡単なもので、左右の胸にパットを押し当てて、スイッチを入れるのが基本の動作との事。操作自体は、比較的簡単な事なのですが、その説明会に4~5時間もかけるという事は、一体どの様な講習会なのか、正直考えさせられました。
 今迄も、結婚式でしたら3時間近くの、ノーカット撮影等も経験はしていますが、それが、4~5時間にも及んだ場合、一人のカメラマンでは体力的に、手に負えません。ノーカットとなれば、三脚の下には車輪の付いたドリーで移動しますので、カメラを支える事に不安は有りませんが、どの様な位置、角度から撮影すればベストなのか、ノーカットで再生した場合に、どの様な画面になるか・・。凄く悩みました。今迄、作品等を造った経験が無ければ撮影には、何の抵抗も無かったかもしれません。単なる記念撮影程度のビデオの撮影でしたら、深く考える事も無いのですが、私自身が、一応はプロのビデオカメラマンの経験があるだけに悩みました。どの様な目的で、ビデオの記録を残すのか、又、そのビデオを再生する目的は、単なる行事の記録?、それとも、そのビデオを通じて徐細動器の使用方法を学ぶのが目的なのか・・・と、いろいろ考えました。内科部長にも伺いましたが、ビデオの撮影目的、その使用目的が今一つハッキリしません。撮影を受けた場合、当然の事ですが、そのビデオの使用目的に応じられるべく撮影、作品造りをするのですが、その目的が、今一つはっきりしない為、最終的には、撮影をお断りしました。今思い出しても、私自身は徐細動器の使用方法には興味が有りました。その講習会にも出席して、使用方法を伺いたい位の思いでしたが、ビデオの撮影をお断りをした関係で、その講習会にも出席は出来ませんでした。
 ビデオのプロカメラマン・・・と、自負もしないで、簡単な気持ちで、お受けした方が良かったのでしょうか? でも、その出来上がったビデオを見て、その出来上がりを非難されるのも嫌なものです。
やはり、お断りをして、私としては正解だったと、今も、その様に考えています。

2014年3月9日日曜日

音楽療法の集い、撮影を依頼されました

綜合病院の経理部に行き初めて半年ごろでした。新館3階の婦長からビデオ撮影の依頼が有りました。私がビデオが得意だと話していたのを総婦長辺りからでも聞いたのでしょう、病院の中、新館3階のロピーで開催される『音楽療法の集い』を撮影して欲しいとの事。ブライダルよりも手が掛からないから、まあ良いかと、即座にOKの承諾。しかし、いくら病院内、集会の撮影とはいえ絶対に失敗は許されません。そこで、撮影の装備はブライダルビデオと同様のシステムで・・・。ブライダルの当時は真空管式の3管式カメラを使用していましたが、カメラだけは新型に変更しています。ハイビジョンのカメラ、HDR-FX1を使用しました。カメラからは30メートルのビデオケーブルを使用して、押さえのテープ記録。カメラ内臓のテープではカメラのスタート、ストップに連動した記録ですが、30メートル先のデッキでは、ノンストップでの記録です。もし、途中で、スタート、ストップの遅れが有った場合には、押さえのテープから再編集が可能なシステムです。三脚の下には三脚用のドリーをセットして、移動しながらの撮影可能なシステムでスタンバイ。集いの予定時間は1時間程度と伺っていましたが、テープが不足してはまずいので、押さえのデッキは業務用機、ミニカセットならぬレギュラーサイズのテープを使用。
 機材の運搬は、ブライダルビデオの時と、全く同様でした。三段式のキャリアーにデッキ、カメラ、ケーブル等を車に積み込んで、救急車用の入り口からエレベータの近くに搬入。車はすぐ移動させて、機材を簡単に組み立てた後、3階まで移動。開始は午後1時30分の予定でしたが、私は30分前にセット開始。全ての機材に電源を入れて、準備OK。音楽療法の講師の方、演奏等の助手の方のお二人も間もなく到着。ご参加の方々は、ほとんどの方が車椅子ですので、前の方には椅子のセットは有りません。瀬尾婦長の開会のご挨拶の後、講師の方が自己紹介の後に、音楽療法の集いが開始されました。携帯オルガンの音に合わせて、皆さんのお名前をご紹介・・・。全員での合唱には、歌詞カードが欠かせません。正面のホワイトボードに、手書きの歌詞が掲示されて、全員での合唱。一つ歌が終えると、今度は全員にカスタネットの配布。歌に合わせて、カスタネットを叩き、その次は全員にスカーフの配布。流れた曲はメロディーだけですが、坂本九さんの見上げてごらん夜の星を。みなさん、両手を大きく伸ばしてスカーフを掴み、メロディに合わせて右に左に・・・。車椅子の方でも支障なく全員が参加できる様な配慮の中、1時間はすぐに経過しました。私は、その皆さん方のお姿を、カメラを移動させながら、全員、撮影しました。ブライダルよりも簡単・・・と、考えていましたが、全体の時間が少し短いだけで、カメラマンとしての負担は、何等変り無しの撮影でした。エンドミュージックの中、講師の方は参加者全員と握手を交わし、又、その様子を詰所から見た婦長が小走りに出て来て、エンディングのご挨拶。無事、音楽療法の集いは終える事が出来ました。後日、タイトル等も入れて、編集したテープと、ノーカットの連続撮影のテープを、1枚のDVDに入れて婦長にお渡ししました。この撮影は、あくまでボランティアですので、撮影料は当然ですし、使用したテープ、DVDディスク等も無償でのサービスでした。でも、これで皆さんが一日も早く、お元気になって頂ければ、有難いものです。
当日の記録は、YouTubeにアップロードしていますので、宜しければご確認下さい。
https://www.youtube.com/channel/UC1vRebGihrtYef0GCxRch0Q

2014年3月4日火曜日

救急患者は全て受け入れる事! 受け入れてから転送すれば良い!

平成14年12月24日に大腿骨董壊死症から大腿骨、骨盤の関節を人工に手術、それまでの職場は、3月31日付で定年退職。病院でのリハビリ療法も3月31日でもって完了。しかし、一般生活には未だ支障が有った為、市民プールに自転車で通って、水中歩行訓練を実行。手術から約1年後、12月には健常者とほぼ同一の行動が可能になりました。その時の年齢は60歳。未だもう少しは仕事をしたいな・・・と考えていた時、新聞広告で会計事務所の求人が目に止まりました。会計事務所は大阪ですが、勤務は私の地元の街の病院との事。早速応募して面接に伺いました。応募の方はかなり多いみたいで、応接室で暫く待機。私は予定時刻の5分前に入りましたが、前の方の面接終了まで、かなり待機させられました。面接は会計事務所の所長と、派遣先の病院の経理ご担当者のお二人。しかし、病院の方は発言は一切無し、全て会計士の方からの質問に素直に応答して、面接は特に何も無く終了。面接後、帰宅後すぐに電話連絡があり、月曜日から勤務を開始する様に・・・との事。自宅からは車で10分位。月曜日の朝は、毎週午前9時から職員の朝礼、病院の中の一室、大きさは学校の教室の2倍くらいの広さ、片隅に会議用テーブルが積み上げられていました。その当時の理事長の司会で進行する中、私も新任としてご挨拶。
これまで、病院とのお付き合いは、患者としてお世話になっただけで、その内側は全く何も知りませんでした。公的な病院は、又違うのでしょうが、この病院は理事長が設立したそうですが、病床は約220と伺いました。一応の規模は大きいかの如くに見えますが、中は完全に個人病院。実は、昭和55年頃でしたか、近所の内科医院からの紹介で、私の長女が入院した事が有りました。小学校の3~4年生の頃です。ある日、昼間です、見舞いに行きました。すると、病室には娘の姿も、ベッドも無く、娘の姿が有りません。近くの看護師の方に伺うと、ナント、驚きました。廊下の端、隅っこに置かれたベビーベッド、その中に娘が身体を小さくして休んでいました。新しい患者を迎える為の部屋移動、何方かが、退院のご予定だったのでしょう。その退院まで、空きベッドが無いので、娘はベビーベッドに寝かされて、廊下の隅っこ。娘は、病気で入院していたのですよ。
病院も外から見たのでは、内部の事は解りませんが、兎に角、この病院は設立者の声が全ての病院でした。一般の会社でも、ここまで酷いのは、見た事が有りません。医療系となると、師弟関係が一般の企業とは、又異なるのかもしれませんが・・・。朝の朝礼でのお言葉・・・『救急の連絡が有った場合は、一切断るな!! 必ず受ける事。受けて診察した後、他の病院に転送したら良い!!』
どこが採点をしているのかは知りませんが、救急を受け付けると、ポイントが+1、転送した場合の減点は無し。そこで、救急は全て受け入れて、ポイントを獲得。手に負えなかったら、転送したら良いと、当時の理事長、朝礼での発言です。その場では、誰も異議の発言は無し。驚きました。救急患者を何と心得ているのでしょうか。この件以降、身内には勿論、機会ある毎に、この病院にはお世話にはならない方が・・・と、お口添えしています。病院の全てがこんなだとは言いませんが、出来れば公の病院の方が信頼できるのかも知れません。今では、この病院の理事長は息子さんに替わっています。その後、改革がされているのかもしれませんが・・・??

2014年3月1日土曜日

水中歩行 一人で頑張った、リハビリの想い出

高槻市民プール 手前はジャグジー 後方は25mブール
12月16日に入院、手術に備えていろいろの準備期間の開始でした。それ迄、自宅では睡眠時にも水平に休む事が出来ず、ホームコタツと座イスで睡眠を取っていました。病院に入院して、水平のベッドで休めるかどうか・・・、でも実際に病室でベッドに転んでみたところ、ホント不思議でした。上を向いて、水平に休んでも痛みは出なかったのです。ベッドのスプリングのせいでしょうか、自分でも驚きました。12月24日の手術に備えて、全身のチェックを受けました。麻酔時に問題が生じるとまずい・・・との事で、歯の治療も受け、万全の態勢で手術を完了したのです。手術後、1週間目から、リハビリが始まりました。不思議ですね、ホント。左足に全然力が入らないのです。最初はベッドに横になって、左足を曲げたり伸ばしたり…。これも全て療法士の方のお手を煩わせての訓練でした。リハビリを始めてから1週間位でしたか、やっと両足で立てるようになりましたが、歩行はマダマダ。両サイドの手すりに捉まって、1歩1歩。3週間目には、両足での歩行が出来る様に回復しました。リハビリ室の周囲を、一人でグルーッと一周、療法士の方の指導に従って、やっと杖無しで、普通に歩行が可能になった頃、手術からは約1カ月が経過していました。一日も早く、会社に復帰したいとの思いから、1月29日には退院して、翌日には出勤しました。リハビリの際も、自転車のペダルを踏む様な運動もしていましたので、自宅から駅までは、自転車を利用しました。しかし、やはり手術前とは違って、左足の踏む力が全然足りません。リハビリ室では、何の苦労も無く、ペダルを踏んだのに・・・と思いましたが、多分、リハビリ室のペダルは、極く軽い負荷しか掛かって無かったのでしょう。実際に道路を走ると、平地は兎も角、ホンの僅かな登りでも、自転車が進まないのです。止む無く、自転車を降りて、その僅かな登りを押して、再度自転車に跨ったものでした。電車は摂津富田から梅田まで、約20分。電車通勤を再開して2~3日目の事でした。新大阪までは何の支障も無く吊革に捉まっていたのですが、新大阪を出た辺りで、急に気分が悪くなったのです。でも、5分足らずで大阪駅に着くから・・・と、じーっと耐えました。大阪駅に着いて、皆さんと一緒にホームに降りましたが、真っ直ぐな歩行が出来なくなって、階段横のフェンス、そのフェンスに捉まって、その場にしゃがみ込んだのです。暫くすると、それを見かねた一般の方が、立ち止まってお声をかけて下さいました。大丈夫です・・・多分、脳貧血ですから・・・と、答えてじっとしていると、駅員に方が階段を上ってみえて、休む場所として、駅員室に案内して下さいました。JR大阪駅には救護室の設備は無いそうです。事務用の椅子に座って10分位。その後、タクシーで会社に向かいました。
 その時の私の年齢は59歳。定年の60歳まで、あと僅か。4月24日が誕生日ですが、会社の勧めで3月31日の定年退職を選択、無事勤務を完了しました。しかし、身体はマダマダ本調子では有りません。自転車で10分位の所に、高槻市の市民プールが有りました。水中歩行で自力でリハビリを開始したのです。水泳は何年か振りでした。50メートルのプールに入って、クロールを始めたのですが、ほとんど前に進まないのには驚きました。深い50メートルプールは諦めて、室内の浅い25メートルのプールに移動。一番端のレーンは、水中歩行をなさる方の為に、空けられていましたので、その中に入って、何回も何回も25メートルを往復。周りは私よりもウンと歳の進んだ方ばかりでした。屋内のプールには、帽子を被らなくては駄目とか。初日は貸して頂きましたが、2日目からは自分の帽子で・・・。回数券を買いましたが、私は既に4級の身体障害者の認定を受けていましたので、料金は半額でした。水中歩行と、自転車の往復で、筋肉はやっと従来に復帰。手術から調度1年経過後、新しい職場に就く事が出来ました。自宅から車で10分位、綜合病院の経理指導として毎日勤務を始めました。ベッド数は220床、高槻市内では比較的大きな病院でした。調度その様な時でした。マイカーでの通勤でしたが、ある日、帰りに車に乗ったところ、ラジオから次から次とお名前を読み上げる放送が続いていました。途中から聞いたので、最初は何の放送か理解出来なかったのですが、後で解った事です。尼崎のJR福知山線の事故の犠牲者の方のお名前でした。今、思い出せば、ホント、いろいろな事が有りました。