2013年11月30日土曜日

業務用ビデオカメラ SONY DXC-M3A

8ミリ映画は色々のカメラを使用しました。レンズも3本ターレット式からズームレンズ、無音の時代から、フィルムサイドに磁気録音できるタイプ、フィルムも16mm幅の25ft往復、100ft往復、
レギュラーサイズ、スーパーサイズ・・・と、全ての日進月歩に、着いてゆきました。かなりの投資だったと思います。その8ミリが、次はビデオの時代へと変遷したのです。当初は、家庭用のハンディタイプ、その当時は、カメラとビデオは、ケーブルでの接続でした。カメラ一体型は未だプロでも存在しなかったのです。その当時、ビデオはβ式とVHS形式の二通りがあり、いずれにしようか迷いましたが、私はSony党でしたので、迷わずβ方式を選択しました。これで家庭内の記録は充分でしたが、少しずつ、その画質に不満を抱き、上位機種に目が移り始めたのです。未だ真空管の時代でしたが、カメラはSonyの業務用機、DXC-M3A。カメラだけで128万円でした。 それと携帯型のデッキ、VHSのビクター BR-6200。これらを購入したのです。そうした時に、京都のカメラ店のお知り合いの方からのご依頼で、結婚披露宴の撮影をする事になったのです。京都のリバーサイドホテル。朝の結婚式は、別のカメラマンが担当するとの事で、披露宴だけのご依頼でした。しかし、披露宴会場の、その広さにはまずビックリ。ライトもカメラ側からのハロゲンランプ、1灯では、とても届きません。披露宴も、正午から夕方まで、休憩後の第二部は夜の9時までという、非常に盛大な結婚披露宴でした。午後の食事会には、その当時、テレビ等で有名になっていた桂金枝さんと、月亭八宝さんがみえて、インタビューをなさったり、また、夜は別フロアーでダンスパーティー等、私自身、経験の全く無い催しの撮影に、初めてトライしました。その時のカメラマンは、私を含めて3台のカメラでの撮影でした。普通のテレビ中継等でしたら、3台のカメラの場合には、それらの信号を1箇所に集めて、一つの映像が出来るのですが、その時は、3台のカメラの連携は全然無く、それぞれが独自に撮影していましたので、金枝さんとか八宝さんは、少し面食らった時も有った様でした。センターで中継している時は、中継中のカメラにしか、撮影中のランプ表示は出ないのですが、この時は3台のカメラは、別々に撮影していましたので、「あちらのカメラを・・・」と、カメラを指さしても、どちらを向いても撮影中の表示が出ていたのです。 夜の立食パーティーの最後は、新郎新婦によるダンスを参加者全員が見守って、私はそのすぐ近くから、その演舞状況を撮影しました。新郎新婦のダンスはホントに見事でした。私もこの日は、初めての業務用カメラでの撮影でしたが、自分自身でも満足の出来た撮影でした。この時は、カメラを買ってから日も浅かったし、私の装備はマダマダ軽かったのですが、後日、本格的にビデオカメラマンのアルバイトを始めた時は、ビデオも更に固定用機を追加、カメラと接続するケーブルも、長さ30メートル、運搬用のストレッチャーは三段重ねのキャリヤー、三脚も大型となっていました。機材等は、大型となりましたが、その分、責任も非常に大きな物となりました。ビデオのカメラマンは、私一人だけ。ビデオ関係の担当者は、現場では、私一人だけで会場に臨む様になったのです。長くなりましたので、このお話は次回、再び詳しくお話しします。
 

2013年11月16日土曜日

ボーイスカウトの大会、蒜山高原で取材

8月の初め頃でした。岡山県ボーイスカウトの大会が開催されるとの事で、カメラマンと私の二人で、岡山県の県北、蒜山高原で取材する事になりました。カメラは16mmのフィルモ、三脚は勿論、夜間の撮影も有るので、バッテリー式のライトも一式。三脚も勿論、大型のズッシリと重い物です。ライトは、バッテリーは小型車に使用している様なサイズ。ライトは小型では有りません。電球はハロゲンで、反射板は直径25cm位のを2灯。勿論、予備のフィルムも持参しなくてはなりません。16mmの100ft巻きのフィルムですから、直径12~13cmの缶に収まった物を5本、それだけの荷物を、二人で運搬しなくてはなりません。車で走った場合には岡山市内から2時間以上掛かりますから、移動は社用車では無くて、乗合の一般のバスを利用しての移動でした。
蒜山高原に向かう乗合バスは、中鉄バスです。中鉄バスの乗り場までは、社用車で送って頂きましたが、それからは二人で、その全てを運ばなくてはなりません。乗合バスの最後部、棚の上等に重たい荷物を置いて、ヤレヤレ。
 蒜山のロッジに到着すると、即取材の開始です。夕方までは、屋外でボーイスカウトの皆さんの、テント設営作業等の撮影。現代でしたらマイクを持って、お話しを伺うのですが、音の収録は有りません。画像のみの撮影ですので、昼間は三脚だけを携えての取材が続きました。周りが薄暗間なった時から、ボーイスカウトの大会が始まりました。三脚は、少し離れたところに準備しておき、私はバッテリーを肩に提げて、ライト2灯を持って、夜の取材スタートです。ライトはバッテリー使用ですから、長時間、連続して点灯したのではすぐバッテリーアウトになってしまいますので、カメラマンが撮影をする、そのタイミングに合わせて点灯しなくてはなりません。2灯ありますから、それを正面と、上方からの照射に分けてのライティングです。顔に真正面からライトを当てたのでは、顔は真っ白になりますから、その様な事の無い様に、二つのライトを使用して斜めとか、上方から、その被写体の方に向けるのです。キャンプファイアーの際には、ライトを当てるのも、少し控えて、燃え上がる火の明かりを生かして撮影してみたり・・。この辺りは、カメラマンと照明の者との意志の疎通を図っての撮影でした。
キャンプファイアーの撮影を終えると、それまでに撮影したフィルムを、袋に入れて定期バスのドライバーに委託して、当日の撮影は終了。ロッジから、会社に電話して、何時のバスにフィルムを委託したので・・・と、連絡して、フィルムの受け取りを依頼、その日の夜遅くには、その画像が山陽放送テレビから放映されていました。山陽映画社には現像機も有りましたので、フィルムが届くと、すぐ現像。直ちに編集して山陽放送に届けて、それがニュースとして放送されているのです。
 これは余談ですが、蒜山高原には乗馬を経験させて頂くシステムも有りました。撮影終了後、係りの方にお願いして、馬上に乗ってみました。私は乗馬の経験は全く有りません。手綱を一生懸命に持っていたところ、馬は大人しくジッとしてました。手綱を緩めて・・・と、言われて、緩めはしました。しかし、全然動く気配は無し。踵で蹴ったらええんじゃ・・・とは言われたものの、強く蹴ったら飛び出されても怖いので、ホンのチョットだけ、踵で蹴りましたが、動く気配は全く無し・・・。係りの方も、無償サービスだから、馬を動かしてくれる様子も無し。次のお客さんが来たので、私は馬から降りましたが、遂に私には一歩も歩いてくれませんでした。生きている馬には跨ったけど、遊園地の馬の形をした遊具に乗ったのと、同じでした。
 翌朝、夜明け前に出発、近くの山に登りました。昨晩とは違って、年配の方々の同行でした。頂上に付いて三脚をセット。東に向けてカメラをセット。カメラマンが私に、ファインダーを覗いて見ろ…と、仰ったので、覗いたところ、地平線が画面の下から1/3の辺りに有って、曇った空、日の出では有りません。雲が、その大部分を占めていました。そこで、私は、そのプロのカメラマンに、もう少し角度を下に向けて、地上の風景を入れた方が良いのでは・・・? と、生意気にも進言。すると、イヤイヤ、朝の空を写すのが目的じゃから、これでええんじゃ。との事で、ま、無事でしたが、良くもまあ、プロのカメラマンに向かって・・・。やはり、私はそういう意味では、ホント、世間知らずでした。
 アルバイトとして勤務していると、山陽放送からの連絡で、今晩の放送で、私の8ミリ映画を流すから、その時間に金甲山の放送スタディオに来るように・・・との事。その日は、指示された時間に市内の山陽放送テレビの事務所まで出掛けて、安田アナウンサーと共に金甲山のスタディオへ出掛けて、生放送に出演しました。でも、生出演とはいえ、声だけです。流れる画像は私が制作した8ミリ映画。この当時には、未だ、画像を生で流すシステムは山陽放送には有りませんでした。ニュース等も、画像は16mmのフィルムの画像。音声は金甲山のスタディオで生の音声で流していました。
放送後は、自宅まで車で送って頂きましたが、報道の皆さん方の勤務時間がバラバラなのと、その時間の長いのには、ホント、驚きました。当時は、終日放送では有りませんでしたが、それでも、朝早くから深夜まで・・・、きつい仕事だなーと、思ったものでした。

2013年11月10日日曜日

8ミリ映画のスタート、YASHICA 8-EⅢで

この当時は、家庭用のテレビも充分には普及していませんでした。私の家にも、未だテレビは有りません。動画といえば、映画館で見る映画、この時代は、中村錦之助さんとか東千代之助さんが中心になっていた、時代劇の時代でした。写真好きからの興味がどんどんと広がり、動画の世界に興味を抱いたのです。家庭用で、自作できる動画といえば、8ミリ映画でした。この当時には、9.5mmは、もう有りませんでした。最近では、ズームレンズは当たり前ですが、この時代には、ズームレンズはマダマダ一般的な物ではなく、シネ用のレンズは、ターレット式レンズの付いた基盤を回転させて、レンズ交換をやっていたのです。写真のカメラは『Yashica 8 EⅢ』。ターレット式の3本のレンズ交換式8ミリカメラです。レンズが全部で6本ありますが、小型のレンズはファインダー用のレンズです。フィルムはダブル方式、16mm幅のフィルム25ft巻きで、現像後半分の幅にカットして1本50ftに加工して現像所から返送されていました。現像はフィルムメーカーの工場宛てに発送して、完成返送されるまで、約1週間。現在のビデオカメラを考えると、ホント大変、手間と暇の掛かる代物でした。カメラでは撮影だけ、画像を見るには別途映写機が必要です。当初は、現像が上がる度に、カメラ店で映写機を拝借、画像の確認をしていました。編集といえば、原版のフィルムをカットして、それを接着剤で繋ぎ合せて、作品を作り上げていたのです。暫くしてから、フィルムの端に、マグネットを貼り付けて、そこに録音が出来る様にもなりましたが、それは数年後の事で、この当時は画像のみ、音声の記録は有りませんでした。作り上げた作品も、音は一切無し、無声映画で、画像だけで全てを表現したものです。
初めての作品、どの様な構成にするのか、随分考えました。参考書類、書籍は数多く読みました。ストーリーが有って、しかも、全てを自分で撮影出来る物で無くては、不可能ですので、 やはり俗に言うホームムービーしか出来ない・・・と、私を主役にしたホームビデオ、『鉄筆』に決定しました。この作品、『鉄筆』に付きましては、このブログ『6月6日』付けで詳細に置き込んでいますので、省きますが、この作品は『山陽新聞』『山陽放送テレビ(RSK-TV)』共催の8ミリ映画コンテストで、推薦に選ばれました。一般の方々を対象にしたコンテストに、全くの無名の高校生が推薦になったという事で、非常に大きな話題となり、新聞の朝刊に顔写真、テレビで放送等、地元岡山では、かなりの方に知られる存在になりました。テレビの放送では、映像を流しながら、バックでアナウンサーの方との対話を入れる事になり、その対話も、録音では無く、生音声を入れよう・・・と、放送時間に合わせて、テレビスタディオに向かったものでした。
 この当時は、テレビのニュース番組も、画像はフィルムによる物でした。マダマダ、ビデオは利用されていなかったのです。そのニュースフィルムの作成は『山陽映画社』が担当していましたが、その会社から私にお呼びが掛かったのです。カメラマンとして活動しませんか・・・と。将来は兎も角、アルバイト位はしても良いかな・・・と、夏休みの1ヶ月半、カメラマン、及び撮影補助として活動しました。カメラは8mmでは有りません。ワンランク上の16mmのカメラ(フィルモ)と、一般の映画館でも使用していた35mmのカメラ(アイモ)の2種類のカメラを使っての撮影でした。
 何も無い時は、会社内で色々やっていても、外でサイレンの音が聞こえると、すぐ支度して、会社を飛び出して事件の現場に駆け付けたものです。交通事故、火災等々、サイレンの音から、電話で警察、消防に確認、カメラと照明、三脚を持って現場に駆けつけました。火災の現場では、消防の放水の水を受けながらの撮影も経験しました。又、時には短編映画の撮影に、35mmカメラで蒜山高原に出掛けた事も有りました。夜間の照明には、直径7~80cmもあるライトで、噴水の頂上をバックから照明したり・・・。もっともっと、お話ししたいのですが、少し長くなりましたので、詳細は次回にします。

2013年11月5日火曜日

やっと手にした一眼レフ、Minolta SR-1

初めて手にした一眼レフ、Minolta SR-1、未だ未だ、世間には一眼レフは珍しい存在でした。レンズは55mmf:2.8。このカメラを手にするまで、何度カメラ店に足を運んだ事か・・・。ショーウインドーの前で、ジーッと眺めまわして、横に置いてあるNikon Fを横目で見ながら…、しかし、その価格表示を見て、自然と目はMinoltaの方に・・・。当時の価格で、Nikon Fは、Minolta SR-1の約2倍の価格でした。暫くショーウインドウの前で眺めてから、店内に入って、カタログを頂きました。カタログは無料ですので、当然Nikonのカタログも頂きました。自宅に帰ってからは、そのカタログを隅から隅まで、じっくり研究。その翌日には、再度カメラ店を訪ねて、暫くショーウインドウを眺めた後に、やっと店内に入って、お願いをしてNikon-FとMinolta SR-1の二つのカメラに初めて触らせて頂きました。初めて手にした一眼レフ、それ迄はコンパクトカメラ Olimpus Pen でしたから、重量も全く違い、又、ファインダーを覗いたその世界は、まるで別世界を眺めている様な感覚でした。価格を訪ねると、ショーウィンドウに表示されていた価格の返事が返って来ました。その価格を頭に入れて、今度は、又別のカメラ店へ自転車を走らせて、同じくショーウィンドウで価格を確認した後に、店内で、価格を尋ねて・・・。次から次と、カメラ店を梯子して、価格の比較をしておきました。その当時は、店員と価格の交渉をする等の発想は浮かびませんでした。店頭価格が全て・・・と、考えていた、マダマダ純真な私でした。数多くのカメラ店で価格の確認をした後、父親に請願して、やっとOK。初めての一眼レフを手にする事が出来ました。
 当時の一眼レフは、自動装置、露出計の組み込み、ピント調整等は、何も組み込まれていません。全てが手動で、後はカメラマンの腕次第です。当然、慣れも必要でしたので、常にカメラは私の傍に有りました。学校に通う時も、密かに鞄の中に・・・。学校の帰りには、近くの後楽園に寄ってみたり、当時は未だ天守閣は再現されていませんでしたが、岡山城跡に行ってみたり。帰宅すると、慌ててダークバッグを持ち出して、フィルムの現像タンクにフィルムをセット、時計を確認しながら現像液の注入、中間停止、定着液。そこまで終えると、一度そのフィルムを取り出して、撮影と現像の確認。しかし、ネガですから細かい事は判別できませんが、一応確認の後、数時間の水洗を開始。
 岡山で国体が開催された時は、ほとんど毎日、カメラを持って撮影に出掛けました。午後から始まる高飛び込みの日、私は午前中から、誰も居ない、その高飛び込みのプールサイドに陣取って、三脚をセットしてスタンバイ。午後になって、係りの方が見えましたが、「報道の方ですか?」との問い掛けに、素直に『ハイ、そうです』と答えて・・・。高飛び込みの姿を逆光で、シルエット撮影しました。
その時の写真、後日開かれた国体の写真展で入選でした。
 この当時は全てがモノクロ写真でした。カラー写真も有る事は有りましたが、現像、プリントは全て郵送での依頼でしたので、私がカラー写真を写す事は一度も有りませんでした。でも、フィルムは映画撮影用のコダックの100ft巻、ASA400を購入して使用していました。
 毎日毎日、写真撮影に頑張っていたのですが、フト抱いたのが動画の撮影に対する興味でした。当時、家庭用の動画、8ミリ映画が発売されて、未だ日の浅い時期でした。映画といえば映画館で見る映画だけで、家にはテレビも無い時代でした。当時発売されていた8ミリ映画に対する月刊誌は3種類、小型映画、8ミリ、8ミリシネの三種類。高校2年生からでしたか、毎月3種類の月刊誌を購入して、それだけでは物足らず、小型映画の別冊、何種類も有りました、ストーリーの組み立て方とか、撮影の全て、編集方法等々、全て買いました。買っただけでは無く勿論熟読しました。自分でストーリーを考えて、それを撮影、撮影した物を編集・・・。その時、頭に叩き込まれたのが『起承転結』です。物語はその全てが起承転結で進めれば、上手く出来る・・・という事です。『起』で何かが始まって『承』でそれを暖かく持ち上げて、『転』で何か大きな変化を与えて、最後は『結』で丸く纏め上げる。ホント、何事もそうです。ドラマも小説も。私は何かを纏め上げるには、全て、その言葉を頭に入れながら作業を進めています。その当時、勿論カメラ店に展示されていましたが、8ミリ映画のカメラ等、見かける事は有りませんでした。それを、私がやろうとしたのです。カメラで撮影した後は、そのフィルムを現像所に郵送、帰って来たフィルムは、8ミリ映画の映写機も必要でした。カメラだけでも3万から5万、映写機も同じ位でした・・・・。さあ,私の夢は大きくなる一方でした・・・・・・・・。