2013年10月27日日曜日

高等学校では写真部に

岡山操山高等学校に入学、場所は後楽園のすぐ北側です。自宅からは自転車通学。通学用に3段切り替えの最新型の自転車。でも、今から考えれば、極く普通の家庭用の自転車でした。最近のサイクリング用の自転車等とは似ても似つかぬスタイルでした。でも、買い物用の前かごは有りませんでした。雨の日も風の日も、傘を持っての片手運転、自宅からは20分位でしたか・・・。
 入学早々の初めての体育の授業でした。グラウンドに集まって、砲丸投げの授業。未だ最初だったからでしょう、全員の運動能力を知りたかったのかと思いますが、担任教師は名簿を手に、全員の投てきを記録していました。いよいよ私の投げる順番になりました。砲丸投げのサークル、サークル内の一番前のガード部分に立って、そのままの位置から、砲丸を力一杯に投てき。すると、すぐその先生が寄って来て、小声で、「ホンマは、なんぼ投げれるんじゃ?」と、尋ねて来ました。だから私は言いました。「イエ、これで精一杯ですよ・・・」と。私も中学時代に砲丸投げはした事はありました。しかし、助走をする自信が無かったので、一番前まで出て身体を反転させて、その場で投げただけなのです。ただ、皆さんと違って、砲丸を投げる時、野球のボールを投げるのと違って、親指側を付き出す様に逆スナップを利かせて投げたので、ビックリなさった様でした。
 部活は陸上にも入りましたが、新たに文科系では写真部に入りました。初めての写真部、暗室も見学しましたが、まるで屋根裏の様な狭い場所に暗室が有りました。全紙用のバットも有りましたが、これでは中々、一年生では、順番が回って来ないな・・・と、感じたのです。そこで、思い切って、自宅に暗室をセットしたのです。最初は、自宅のお風呂場でした。夜間、全員の入浴後、窓の隙間等を毛布を用いて、暗室を設定。最初は、プリントサイズも四つ切を限度にしていましたので、それでも良かったのですが、段々、欲が出て来て、最後には全紙のプリント迄もしたくなって・・・。遂には、専用の暗室を家庭内で自作したのです。畳一畳分の押し入れ、その中の横板を取り払って、出入り口は毛布で遮光。今から考えると、その時、私の親は反対もしませんでしたが、逆の立場だったら、私は拒否したかもしれません。というには、当時は自分の家では有りません。県庁の職員用の住宅、借家です。その借家の押し入れの、中の棚を取り去ったのです。工事の前に、県庁に申請したとしたら、拒否されたかも知れません。でも、父親は何も言わず、私のわがままを許してくれました。暗室を作るからには、引き伸ばし機が必要です。又、光沢紙を乾かす乾燥機、現像用のバットが3枚。当然、モノクロしか出来ませんが、ホント、ほとんど毎日暗室に入っていました。木製のパネルに貼って、コンテストに応募、当時、岡山国体の写真コンクールだったと思いますが、入選でした。
 高校に入って、35mmの一眼レフも買って頂きました。ミノルタSR-1でした。本当は、Nikon Fが欲しかったのですが、価格が6万円以上でしたので、約半額のカメラで辛抱したのです。父親は公務員でした。当時の公務員の給与は、将来恩給が有るから・・・と、民間よりもグーンと低い給与だったのです。現代とは大きな違いですが、当時はそうでした。私達、家族全員で協力して・・・。でも、今だから言えますが、私は随分、好き放題に新しい事を始めさせて頂きました。35mmフィルムも、36枚撮りの国産フィルムでは無く、100ft巻きのコダックのトライXを使用させて頂きました。そのフィルム現像も当然、自分でやりました。大きな布製のダークバッグを買って、その中でトライXをパトローネに装てんして、撮影後はそのフィルムを、再びダークバッグの中でフィルム現像タンクにセットして・・・。
その当時、父親に内緒で、135mmのレンズを県庁の売店で購入したり・・・。父親の名前で県庁の売店で、給料引きで何でも買えたのです。遅いけど、お父さん、ゴメンナサイ。でも、ありがとうございました。今度、綺麗なお花を持って、線香をあげに参ります・・・。

2013年10月22日火曜日

高等学校の受験

岡山県立岡山操山高等学校の正門です
岡山大学教育学部付属小学校6年間、中学校3年間も年が明けて卒業間近となりました。その当時、岡山では進学する高等学校は数少なく、限られたものでした。県立の普通科高校は第六高等学校を前身とする岡山朝日高校、岡山一女を前身とする岡山操山高校の2校しか存在しませんでした。その二つの高校も、総合選抜ですので、どちらに進学するか、一応の希望は表示しますが、それはあくまで希望であって、どちらに進学するか、全く解りませんでした。私の兄二人も、それぞれが朝日、操山に進学していました。私も一応は、元六校の岡山朝日高校を希望として出しました。
受験は、中学校から近いからかどうか、岡山朝日高校で試験を受けました。自宅からの距離も、操山高校までの半分位の距離に朝日高校が有ったのです。試験は、ごく普通のペーパーテストで、特に問題は有りませんでした。合格発表を前にして、各中学校を通じて総合選抜の結果を知らされましたが、私は岡山操山高校の方になっていました。合格発表の日、自転車で操山高校にまで出掛け、合格を確認、友人達と共に付属中学校に、合格の報告に出掛けて、中学校の先生方からお祝いの言葉を頂いたものでした。
 自宅に帰った時、家には祖母だけでしたが、私は祖母にも声もかけずに、そのまま自分の部屋に入って・・・。暫くすると、祖母がそーっと私の部屋に来て・・・。祖母が何を聞きたいのかは分かっているのに、わざと何にも話さないで・・・。遂にしびれを切らして祖母が尋ねて来ました。「高校の試験は??」「うん? 合格してたよ」「よかったなー、おめでとう!!」「高校の試験ぐらい、当たり前じゃー・・・」「今朝、あんたが出かけた後にな、言うとったんじゃ、もし落ちとったら、だまーって自分の部屋に入るじゃろうな・・・て」。 私も自分自身、本当に不合格だったら、多分、そうしたと思います。黙って部屋に入って、誰とも口をきかないで・・・。家族も、皆がそんな様に考えていたみたいでした。でも、本当に、高校の受験には、私自身、不安は抱いていなかったのですが・・・。
 ホント、家族は同じような事を考えるんだな・・・と、家族の温かみを感じたものでした。
ところで、不思議に思った事が、一つありました。入試発表の場で、アイツ、何でかな? 今日、発表の場に来てなかったな・・・、と思っていたのですが、新聞に掲載された入試発表によると、不合格になっていました。一般的には知らされてはいないけど、不合格の場合には、前以て連絡が有るのでしょうね。ホント、大学と違って高校の入試発表で不合格の姿は見た事が有りません。ま、これが事実かどうかは、判断は出来ませんが・・・。
 結局、中学校では、部活としてはバレーボール一本でしたが、対外試合には各種出場しました。陸上競技、ハンドボール、サッカー・・・。中学校では記録はたいして良くは有りませんでした。陸上も100mが13.2秒、ハイジャンプが160cm。走り幅跳びは、どうしても5mの壁が越えられなかったのですから、体力自身はそれ程ではなかった・・・と。高校では、自分のカラーを、一杯に出して・・・と、胸を膨らませたものでした。

2013年10月15日火曜日

中学2年の秋からは、体育委員長

中学校2年生、10月の体育祭が終わると、生徒会の各委員長は3年生に替わって、2年生が委員長を務める決まりになっていました。私は体育委員長に選ばれましたが、生徒会の委員長の内で、一番忙しいのが体育委員長。毎月実施されているクラス対抗の各種の大会。種目別の対抗戦、まず、朝礼の場で、今月の競技種目、開催予定日の発表と、組み合わせ抽選会の開催予定と場所を発表。各学年5クラスに分かれていましたので、総員15名の体育委員に集まって頂いて抽選会の実施。そこで決まった組み合わせを全校に発表するのは、校内の一角に設けられた、横幅約3メートルの黒板でした。黒板に白墨で持って記入です。それ迄、トーナメントの図形等は、一度も書いた事は有りませんでしたが、兎に角、初めてトーナメントの組み合わせを、男女9組の組み合わせ図を記入しました。各体育委員は、抽選会の場で、既に組み合わせを知っていましたが、一般の方々への発表はこの黒板が初めての発表です。多くの生徒さんの注目の中、トーナメント図を書き終えて、ホッと一息・・・。
その翌日でした、1年先輩の体育委員の方から、指摘を頂きました。トーナメントの仕組み等を何も考えないで、単に組み合わせの図を書いたのですが、その私の書き方が間違っていました。添付の写真の右側の図の様に書いたのです。その図によれば、1回戦と2回戦の表示が誤りでした。『1回戦の不戦勝は有るが、2回戦の不戦勝は無い・・・』と。確かにそうです。1回戦、2回戦との事は考えないで、単に組み合わせを表示・・・と思っていたのですが、大きな間違いでした。そこで、早速左側の図の様に、1回戦と2回戦の高さを揃えて書き直しを実行しました。
組み合わせのトーナメント図と共に、試合の実行予定も横に書き出して、翌日から試合が始まりました。各ゲームが終わると、その結果を書き足して・・・。又、各ゲームの審判も体育委員の仕事です。毎日毎日、遅い時間まで、一緒に走り回ってのレフリーでした。その点、バレーボール、ソフトボールは走り回らないので、未だ楽でしたが、ハンドボール、サッカー、バスケットボールでは本当にくたくたでした。以前にもここで書きましたが、レフリーで走り回った日の夜は、吹き続けたホイッスルの影響で、耳はキーン・・・と、鳴り続けていたのですが、でも、何も考えずに毎日毎日。
 全試合を終えた翌週の月曜日は、朝礼で結果発表です。各学年、男女別に優勝したクラスには簡単ですが、校長から表彰状の贈呈もしました。賞品までは有りませんでした。
その当時の付属中学校には、バレーボールは4面、バスケットボールは2面のコートが有り、トラックは200mでしたが、その周囲もかなり有りましたので、ソフトボールは4面のコートが確保出来ましたが、ハンドボール、サッカーでは2面でした。
 毎月一種目でしたので、黒板には、特に注意するルールを簡単に説明もしたり、お陰で黒板への記入は随分と練習にもなりました。横書きの文字を書くと、右が少しずつ上がってしまいますが、それも水平に書けるように・・・。
 何事も経験する事ですね。ホント、良い経験をいろいろとさせて頂きました。

2013年10月10日木曜日

Olinpus Pen が発売されました

写真撮影、カメラに興味を持ち始めたのは、私の兄の影響でした。私が小学校の3年の時でしたか、アイレスフレックスを兄が購入して写真撮影を始めたのです。35mmのフィルムでは無く、6cm角のフィルム、ブローニーのフィルム使用。カメラのレンズはファインダー用と撮影用が別々に、縦に並んで付いている二眼レフカメラ。我が家にカメラが入ったのは、これが最初でしたので、みんな喜んで撮影に応じたものです。小学校4年のクラス会、ご父兄も参加しての集まりでしたが、そこに兄も参加、そのカメラでクラス全員、ご父兄もご一緒に全員の集合写真も撮影してくれました。今でもその時の集合写真はキャビネサイズに引き伸ばした物が、アルバムに大切に保存してあります。
私専用のカメラが欲しかったのですが、現代とは違って、まだまだ、物資の不足していた時代でしたし、当時の公務員の給与は民間よりも低い時代。親にカメラを買って・・・とは、なかなか言い難かったのです。当時、大卒の初任給が1万円程度の時代でした。だけど、カメラが欲しいなあ・・・とは、少しずつでしたが、頭から離れなくなって来たのです。しかし、物が溢れている様な時代とは違いますので、辛抱して、色々と策を練ったものでした。
 小学校の時には、全校で給食が行われていました。給食は、ご飯ではありません。みんな、味の無いコッペパンで、おかずは、校内の調理場で調理された物でした。当時は、給食の専門業者なんて有りません。ご父兄の皆さんが、順番に学校の調理場に来て下さって、給食の調理をして頂いていたのです。メインはコッペパンと暖かいミルク。粉ミルクを溶いて、温めた物でした。味は何も有りませんでした。大きなバケツを二人ずつで持って、教室まで運ぶのですが、途中でバケツを落としたり…。何度かその様なトラブルも有りました。
中学校からは、給食は有りません。生徒それぞれに弁当を持参していましたが、私の場合は、弁当を持参する事はほとんど無く、学校の売店でパンと牛乳を買って、それを教室で食べていました。袋入りの細長いパン、ロールパンて言いましたかね、上部に切り目が入って、クリーム、ジャム等を挟んである物、当時あれが幾ら位しましたか・・・、1本50円か80円、もしかするともっと安かったかもしれません。毎日のパンと牛乳代、それを貯めようと考えたのです。少しずつでも小遣いを貯めて、それでカメラを買おうと計画し、実際に実行しました。昼食時になると、教室を離れ、校舎の屋上で時間を潰していました。昼食抜きでも、その影響はほとんど感じませんでした。放課後も遅くまで、校内のグラウンドで過ごしていましたから・・・。
 この様な努力(?)をしていた時に発売されたのが、添付写真に有りますオリンパス ペンでした。当時のカメラの価格からすると、非常に安い価格で、5~6,000円で発売でしたか。給食代を貯めていた額を両親に示して、そのカメラを購入して頂く事が出来ました。35mmカメラのハーフサイズのネガサイズ。常に携行して、色々と撮りまくりました。しかしカメラはオート機能は何一つありません。全てが手動でしたので、露出、シャッター速度、それと大まかなピント調整。全て自分で調整して撮影を続けました。隣の小さなお友達、未だ小学校にも行く前だったと思いますが、近くの東山公園の遊具に乗る姿等を撮影して、喜ばれたりもしました。
 しかし、この頃は、マダマダ、ホントの遊びみたいな撮影でした。本格的に撮影にトライしたのは、やはり高校に進んで、写真部に入ってからです。ハーフサイズのこのカメラでは不満で、もう少し、上の一眼レフに進みました。フィルム現像からスタートして、プリントは全紙まで、自宅内に暗室をも作って、各種コンテストにも応募、推薦までは経験有りませんが、入選は各種頂いたものです。このお話は、次回詳しくお話しします。