岡山操山高等学校に入学、場所は後楽園のすぐ北側です。自宅からは自転車通学。通学用に3段切り替えの最新型の自転車。でも、今から考えれば、極く普通の家庭用の自転車でした。最近のサイクリング用の自転車等とは似ても似つかぬスタイルでした。でも、買い物用の前かごは有りませんでした。雨の日も風の日も、傘を持っての片手運転、自宅からは20分位でしたか・・・。
入学早々の初めての体育の授業でした。グラウンドに集まって、砲丸投げの授業。未だ最初だったからでしょう、全員の運動能力を知りたかったのかと思いますが、担任教師は名簿を手に、全員の投てきを記録していました。いよいよ私の投げる順番になりました。砲丸投げのサークル、サークル内の一番前のガード部分に立って、そのままの位置から、砲丸を力一杯に投てき。すると、すぐその先生が寄って来て、小声で、「ホンマは、なんぼ投げれるんじゃ?」と、尋ねて来ました。だから私は言いました。「イエ、これで精一杯ですよ・・・」と。私も中学時代に砲丸投げはした事はありました。しかし、助走をする自信が無かったので、一番前まで出て身体を反転させて、その場で投げただけなのです。ただ、皆さんと違って、砲丸を投げる時、野球のボールを投げるのと違って、親指側を付き出す様に逆スナップを利かせて投げたので、ビックリなさった様でした。
部活は陸上にも入りましたが、新たに文科系では写真部に入りました。初めての写真部、暗室も見学しましたが、まるで屋根裏の様な狭い場所に暗室が有りました。全紙用のバットも有りましたが、これでは中々、一年生では、順番が回って来ないな・・・と、感じたのです。そこで、思い切って、自宅に暗室をセットしたのです。最初は、自宅のお風呂場でした。夜間、全員の入浴後、窓の隙間等を毛布を用いて、暗室を設定。最初は、プリントサイズも四つ切を限度にしていましたので、それでも良かったのですが、段々、欲が出て来て、最後には全紙のプリント迄もしたくなって・・・。遂には、専用の暗室を家庭内で自作したのです。畳一畳分の押し入れ、その中の横板を取り払って、出入り口は毛布で遮光。今から考えると、その時、私の親は反対もしませんでしたが、逆の立場だったら、私は拒否したかもしれません。というには、当時は自分の家では有りません。県庁の職員用の住宅、借家です。その借家の押し入れの、中の棚を取り去ったのです。工事の前に、県庁に申請したとしたら、拒否されたかも知れません。でも、父親は何も言わず、私のわがままを許してくれました。暗室を作るからには、引き伸ばし機が必要です。又、光沢紙を乾かす乾燥機、現像用のバットが3枚。当然、モノクロしか出来ませんが、ホント、ほとんど毎日暗室に入っていました。木製のパネルに貼って、コンテストに応募、当時、岡山国体の写真コンクールだったと思いますが、入選でした。
高校に入って、35mmの一眼レフも買って頂きました。ミノルタSR-1でした。本当は、Nikon Fが欲しかったのですが、価格が6万円以上でしたので、約半額のカメラで辛抱したのです。父親は公務員でした。当時の公務員の給与は、将来恩給が有るから・・・と、民間よりもグーンと低い給与だったのです。現代とは大きな違いですが、当時はそうでした。私達、家族全員で協力して・・・。でも、今だから言えますが、私は随分、好き放題に新しい事を始めさせて頂きました。35mmフィルムも、36枚撮りの国産フィルムでは無く、100ft巻きのコダックのトライXを使用させて頂きました。そのフィルム現像も当然、自分でやりました。大きな布製のダークバッグを買って、その中でトライXをパトローネに装てんして、撮影後はそのフィルムを、再びダークバッグの中でフィルム現像タンクにセットして・・・。
その当時、父親に内緒で、135mmのレンズを県庁の売店で購入したり・・・。父親の名前で県庁の売店で、給料引きで何でも買えたのです。遅いけど、お父さん、ゴメンナサイ。でも、ありがとうございました。今度、綺麗なお花を持って、線香をあげに参ります・・・。
入学早々の初めての体育の授業でした。グラウンドに集まって、砲丸投げの授業。未だ最初だったからでしょう、全員の運動能力を知りたかったのかと思いますが、担任教師は名簿を手に、全員の投てきを記録していました。いよいよ私の投げる順番になりました。砲丸投げのサークル、サークル内の一番前のガード部分に立って、そのままの位置から、砲丸を力一杯に投てき。すると、すぐその先生が寄って来て、小声で、「ホンマは、なんぼ投げれるんじゃ?」と、尋ねて来ました。だから私は言いました。「イエ、これで精一杯ですよ・・・」と。私も中学時代に砲丸投げはした事はありました。しかし、助走をする自信が無かったので、一番前まで出て身体を反転させて、その場で投げただけなのです。ただ、皆さんと違って、砲丸を投げる時、野球のボールを投げるのと違って、親指側を付き出す様に逆スナップを利かせて投げたので、ビックリなさった様でした。
部活は陸上にも入りましたが、新たに文科系では写真部に入りました。初めての写真部、暗室も見学しましたが、まるで屋根裏の様な狭い場所に暗室が有りました。全紙用のバットも有りましたが、これでは中々、一年生では、順番が回って来ないな・・・と、感じたのです。そこで、思い切って、自宅に暗室をセットしたのです。最初は、自宅のお風呂場でした。夜間、全員の入浴後、窓の隙間等を毛布を用いて、暗室を設定。最初は、プリントサイズも四つ切を限度にしていましたので、それでも良かったのですが、段々、欲が出て来て、最後には全紙のプリント迄もしたくなって・・・。遂には、専用の暗室を家庭内で自作したのです。畳一畳分の押し入れ、その中の横板を取り払って、出入り口は毛布で遮光。今から考えると、その時、私の親は反対もしませんでしたが、逆の立場だったら、私は拒否したかもしれません。というには、当時は自分の家では有りません。県庁の職員用の住宅、借家です。その借家の押し入れの、中の棚を取り去ったのです。工事の前に、県庁に申請したとしたら、拒否されたかも知れません。でも、父親は何も言わず、私のわがままを許してくれました。暗室を作るからには、引き伸ばし機が必要です。又、光沢紙を乾かす乾燥機、現像用のバットが3枚。当然、モノクロしか出来ませんが、ホント、ほとんど毎日暗室に入っていました。木製のパネルに貼って、コンテストに応募、当時、岡山国体の写真コンクールだったと思いますが、入選でした。
高校に入って、35mmの一眼レフも買って頂きました。ミノルタSR-1でした。本当は、Nikon Fが欲しかったのですが、価格が6万円以上でしたので、約半額のカメラで辛抱したのです。父親は公務員でした。当時の公務員の給与は、将来恩給が有るから・・・と、民間よりもグーンと低い給与だったのです。現代とは大きな違いですが、当時はそうでした。私達、家族全員で協力して・・・。でも、今だから言えますが、私は随分、好き放題に新しい事を始めさせて頂きました。35mmフィルムも、36枚撮りの国産フィルムでは無く、100ft巻きのコダックのトライXを使用させて頂きました。そのフィルム現像も当然、自分でやりました。大きな布製のダークバッグを買って、その中でトライXをパトローネに装てんして、撮影後はそのフィルムを、再びダークバッグの中でフィルム現像タンクにセットして・・・。
その当時、父親に内緒で、135mmのレンズを県庁の売店で購入したり・・・。父親の名前で県庁の売店で、給料引きで何でも買えたのです。遅いけど、お父さん、ゴメンナサイ。でも、ありがとうございました。今度、綺麗なお花を持って、線香をあげに参ります・・・。