2014年11月9日日曜日

初めてのヘリコプター搭乗 

(当時の写真ではありません。この写真は共有しました)
小学校1年か2年の時でした。確か『森永キャラメル』の懸賞募集が有り、早速応募したところ、ナント、ナント、当選したのです。賞品は、未だ出来たばかりの岡山県営球場で、ヘリコプターに搭乗できる・・・と、いう賞でした。未だ、その当時はヘリコプターも小型でしたし、現在程ヘリコプターも普及していませんでしたので、ヘリコプター自体が、未だ珍しい時代でした。最近のヘリコプターは、かなり大型の機種も開発されていますが、当時のヘリコプターは、写真の通り、前部、左右は透明なスタイルで、搭乗人数も、限られたものでした。
 懸賞に当選した時には、ホント、大喜びでした。確か、当選者数は10名程度だったかと記憶しています。当日は、家族揃って、岡山球場まで出掛けました。家族は、スタンドから、私はグランド内に呼び出されて、今か今かと、ヘリコプターの到着を待ったのです。グランド内で、かなりの時間、しゃがんで待たされました。搭乗予定の時間から1時間以上も待ったでしょうか、やっとヘリコプターが到着しました。飛行機にも当然乗った事はありませんでした。全くの初めて、しかも、遊び慣れた場所の上空に上がるのですから、非常に大きな期待を持っての搭乗でした。
 当時は未だ小型機でしたので、搭乗人数にも制限が有り、2~3人ずつがシートにベルトで絞め付けられて、順番に搭乗したのです。岡山市内を、グルーッと回ってくれるのか・・・と、大きな期待を掛けての搭乗でしたが、ナント、極端にいえば、県営球場の周囲を1周も回ったでしょうか?
乗った感覚としては、シートに縛り付けられて、上空に上がった・・・と、思ったら、地上に降りていました。実際に搭乗した私も、エーッ?、これだけーっ? と、言いたい位でしたが、見ていた家族も、えらい短い時間じゃったナー・・・と、いう位に、ホント、短い時間でした。予定時間から遅れての到着でしたので、又次の搭乗場所への移動を急がなくてはならなかったのでしょうが、チョット物足らない感じが有りました。ま、お土産のお菓子は、大きな一袋を頂きましたが、しかし、これはホントに期待外れでした。
 岡山県営球場のすぐ近くに、岡山県営プールが出来上がった時、私達3人兄弟と、私より4つ位上の近所のお兄さんと一緒に、泳ぎに出掛けた時の話です。出来たのは50メートルのプール、勿論大人用ですから、私の足は届きません。当時は、未だ泳げなかったので、中に入っても、周囲に寄り添っているとか、上に上がっては、プールサイドを走り回っていたのです。プールの周囲は未だ何の加工等もされず、山土が盛り上がっていたのを記憶しています。そのプールの周囲を走り回っていたところ、突然、「プールに来たんじゃろうがー、泳げー!!」と、全く知らない人が、私を抱き上げてプールの中に私を放り込んだのです。プールに入るのも初めての私をいきなり放り込まれたので、私は正直溺れました。両手を交互にパシャパシャするだけで、私自身ではどうにも出来ませんでした。それを見て、一緒に行ってた近所のお兄さんが、私を助けて下さいました。別に、水を飲むとかの被害は有りませんでしたが、当時は、ホント、今では考えられない様な事も平気で行われていたのです。中には、「水を飲んでしまいましたよ!!」と、その男性にクレームを付ける子もいましたが、そんなのは全然無視・・・という状態でした。その当時も、プールの監視員は当然居たとは思いますが、特に問題視はしていなかったようです。
 その後、犬かきから順に覚えて、その後は泳げる様にはなりましたが、いきなり放り込まれたのには驚きました。ま、当時は何かにつけて、この様な時代でした。

2014年11月8日土曜日

中学、入学早々のアクシデント

岡山市上伊福に有った岡山県庁が新築移転する事になり、県庁の中の職員用の住宅、県公舎から、門田文化町の県公舎に転宅。そのお陰で、それ迄は学校まで約6キロ、路面電車にも乗っての通学でしたが、転居後は学校まで6~7分の徒歩で行けるようになりました。小学校の時には、片道1時間以上かかっていましたので、ウソの様に楽な通学距離となりました。
 中学校に入学して1カ月が経った頃でした。午前中の体育の時間、体操服に着替えてグランドに出ました。しかし、いつまで待っても体育の先生がみえませんでした。聞くところによれば、先生の都合て゛、その日はお休みだとか。それでは・・・と、砂場の横に走り高跳びのスタンドをセット、竹のバーを置いて、どんどんと順番に跳んでいました。走り高跳びの練習では無く、まるで休憩時間の遊びの様に。私も走り高跳びの経験は全然有りませんでしたが、まるでゴム跳びの様なスタイルで何度か跳びました。ところが、砂場に着地した時に、バランスを崩して尻餅をついたのです。左手を後ろに伸ばして砂場に手をついたところ、エッ?、手首にカクンとショックを感じたのです。しかし、酷い痛みも無く、何かな…と、不思議に思っていたのです。ところが、その左手を腰に当てると、手首の関節よりも7~8センチ上が、ポコッと膨らむのです。これは何故かな?と、納得出来ませんでした。特別、痛みが酷いとかでも無く、しかし、右手で押さえてみると少し痛みは有りました。そこで、友達に「チョット養護室へ行ってくるわ・・・」と言って養護室に向かいました。養護室は小学校と中学校に一つしか有りませんでしたので、場所も又、養護教員をも知っていました。病院に行った方が良い、との指示で、岡山市の中心に有る川崎病院に電話連絡をして下さいました。体操服から制服に着替える為に、教室に戻ろうとしたところ、担任の先生がグランドで走り高跳びをしている生徒に、「教室で自習しなさい」と指示している姿が有りました。しかし、私に対して、腕の事を尋ねる事も無く、私は制服に着替えてから、徒歩と、路面電車を乗り継いで、更に電車を降りてから約1キロ徒歩で、左手は学生服のボタンとボタンの間に挟むようにして、歩いて病院に向かったのです。
 病院の受付で名前を告げると、受付の方がビックリして、「エーッ?  一人で来たの?  養護の先生は?~~ 」と、大声を出され、病院の中はたちまち大騒ぎになりました。早く早くとせかされて診察室に入り、医師の触診からレントゲン撮影室に直行でした。結果は簡単でした。左手首の骨折でした。すぐ副木を当てて、包帯で湿布、患部を固定して下さって、三角筋で首から吊るして左手を支えて下さいました。「大丈夫??一人で帰れる??」と、見送られて病院を後にしました。学校に戻ると、今日はもう帰宅しなさい、との指示で手提げかばんを右手に提げて、帰宅しました。帰宅すると、母と祖母が跳びあがらんばかりに驚いていた記憶が有ります。いくら昔の話とは言え、学校で骨折した生徒、中学1年生の子を単独で病院に行かせて、又、自宅にも何の連絡も無しで・・・。これが、もし最近でしたら、救急車までは行かなくても、せめてタクシーで付き添っても下さるでしょうね。
 その日の夜、床に就こうとして、ハタと考えました。病院でも慌てての処置でしたので、私は学生服を着たままで、腕まくりをして副木を当てて包帯してあるのです。学生服の上着が脱げないのです。素人が包帯を緩める事も出来ないので、上着は脱いだものの、左手は上着から抜けない為に、左手は上着の袖を通したまま、上着を横に置いて休みました。翌日、病院に出向いて、全員が大笑いで、上着から腕を抜いて、今度は上着の袖を通さない状態で。再度包帯で固定してもらいました。
 小学校時代には、たまにソフトボール等はやってましたが、本格的なスポーツは全然経験していませんでしたので、中学校の入りたてに、この様な無様な結果となりました。骨折の方は1カ月でギプスから解放され、2か月も経過すると、左腕に力を入れても、痛みの出る事は有りませんでした。
 中学校では、友人の誘いでバレーボール部に入りました。しかし、この当時のバレーボールは9人制てす。コートも体育館等の室内では有りません。コートは土の上です。私は身長が有りましたので、センターフォワード。セッターとして両サイドのアタッカーにトスもしましたが、私の一番得意としたのは、トゥーアタックで、自らが得点する事でした。中学校では、あらゆる種類のスポーツを経験し、又、体育委員長として、幼・小・中学校の合同運動会では、正面の壇上でラジオ体操をするなど、数多くの経験をしました。中学校の種々のお話は、次回に・・・。