2015年7月25日土曜日

今朝、生まれて初めての散歩に行って来ました

梅雨も明けて、毎日毎日、暑い日が続いています。今まで、これ程までに暑い日々は、経験がありません。あっ、そうだ、今から何年前だったかな、えーっと、確か13~4,年前でした、京都市で最高気温38度の屋外を歩いた事がありました。歩いているのに、なにか宙に浮いたみたいな感覚で歩いた記憶がありました。周囲の車は平常に走っているのに、歩道を歩いている自分は、ホント、浮き上った様な感覚だったのを思い出しました。
 昨日、午後2時頃に帰宅した時、屋内で着替えている時に何故か足元がおぼつか無くて…。
今までには、こんな感覚、印象を抱いた事は無かったのですが、やはり、年齢のせいかな…?と
ホント、ビックリしたのです。
 今朝も早くに目覚めて、気分としては、ホントは寝ていたかったのですが、何故か目が冴えて、これ以上は寝てられないわ、と
起きたのが4時前。しばらくPCに触っていたら外も明るくなったので、生まれて初めて、散歩に出かけたのです。今でも外出する時は、中折れ帽にワイシャツ姿ですが、今朝は違っていました。短パンにTシャツ。Tシャツにポケットが無いので、ウエストポーチを付けて、携帯とポケットラジオ。イヤフォンでラジオを聞きながら。今迄、移動といえばマイカーでしたが、今迄には行った事もないコースを歩いてみたのです。土曜日の朝とあって、他にも速足で歩いたり、走っていらっしゃる姿も見受けました。もう少し前でしたら、私も走っても良かったのですが、今日は全コース徒歩で通しました。全く初めての場所、自宅からもすぐ近くですが、こんな所にも神社が…。
朝とはいえ、気温も高かったのでしょう。汗びっしょりになって帰宅しました。Googleの地図を開いて歩いたコースの距離を測ってみましたが、1,500メートル位でした。だけど最近は兎に角歩いていないので、いい運動にはなりました。今迄、自分の年齢を意識した事は無かったのですが、やはり年齢を自覚して、少しは運動をしなくては・・・と、正直、こんな事を自覚した次第です。マダマダ、本人は若いつもりだったのですけど、ね。

2015年7月21日火曜日

パソコントラブル、工場出荷状態にまでリカバリイ実行

永年使用してきました、私のPCが動作が不調になってしまいました。
テレビチューナーも接続して、ビデオ機能も設定していたのですが、それも動作がおかしくなり、本来であれば録画スタート時刻になると、録画するのではなく、電源OFFに移行したり、全く使用に耐えない状況になってしまいました。外付けの2TB、HDDにBackup。
PC全てが、購入時の新品に戻りました。ま、このPCでリカバリイを実行したのは、これで3回目くらいでしたか、不調になると何度か経験はしていました。
リカバリイ後は、保存箱の中から数多いCDを取り出して、セットアップの実行です。ホント、数多いソフトのセットアップは大変でした。夜遅くまで継続してインストールを実行しましたが、一晩では作業は完了できず、翌日の休日も一日かかって、やっと復旧できました。私のPCは、Core i5、速度は3.20GHz。実装メモリー8.00GB。Windows 7、64ビット。動画編集なども実行する為に、処理速度は速い物を選択していました。
何度か経験していたリカバリイ後のセットアップでしたが、今回は疲れ切った感じでした。やはり、年齢が進むと、リカバリイ、セットアップは疲れます。でも、そのお陰で、ビデオの録画システムも快調になり、その後は問題なく稼働してくれています。
 そんな時に、フト気付いたのですが、HDDの中に大きなファイルが存在していました。今までに撮影した写真、デジタル方式になってからの撮影済みの写真が、大きなファイルで、ト゜ーンと、存在していました。そこで、これを外部保存にしよう…と、BD-Rに転記する事にしました。過去の35mmフィルムも沢山あるのですが、その取り込みは大変な作業になるので、それは諦めて、デジタル写真だけをディスクに書込みました。初めて手にしたデジタルカメラは、Nikon D-1でした。
発売直後で、まだ店頭にも在庫の少ない時。今から思えば、、良くこんな高い物を・・・と思いもしますが、当時は買い求めるのに夢中で、当時、65万円でした。レンズはフィルム時代のがそのまま使用できましたので、ボディのみです。フィルム式はMinolta SR-1をスタートに、Nikon F-2、F-4と進みましたので、レンズも沢山持っていました。17~35、35~70、80~200、300、100MC、1000RF。
デジタルになると、撮像素子が35mmのフィルムよりも面積が小さい為,焦点距離はレンズ表示の1.5倍の画角になる為、1000mmのレンズが1,500mmの撮影ができるので、近くの河原で白鷺を沢山撮影しました。1,500mmのファインダーを始めて覗いた時には、その画像の大きい事にビックリしたものです。欲張って、更に2倍のテレコンを入れて、ナントナント、3,000mmの画角にはホントビックリもしました。
先日、この欄に書きこみましたが、過去の8ミリ映画、ビデオ撮影等も全てをDiskに転記していますが、転記してはそのラベルを作っていくと、又、気分転換が出来て、それも楽しいものです。

2015年6月23日火曜日

ジイジイって 若かったんやな・・・・・・???

先日のブログで、過去の8ミリ、ビデオの記録を永久保存する為に、ディスクに転記していると、記しました。
 昨日、家内が隣町の娘宅へ出かけました。その時、これ、持って行ってもいいかな?と尋ねられて、ああ
良いよ、と、過去の記録を集めた
BDディスクを2枚渡しました。置いて来ても良いけど、でも、必ず返してもらって・・・と、念を押して。
何十年も前の8ミリとか、DVビデオでは無く、約10年前に購入したHDVビデオ、SonyのHDR-FX1で撮影した物でした。
 孫2人のうちの下の孫、小学校1年生の孫が、振替休日で家に居たそうです。BDのディスクを渡すと、孫が自分で機器のセットをして、テレビに思い出の画面が映し出されて・・・。
 約7~8年前の画像がテレビに映し出されて、みんな大喜びだったそうです。今、中学1年の孫が3歳の時、誕生祝いのケーキカット。一生懸命にロウソクの火を消そうと頑張る、お兄ちゃんの姿を見て、孫も大喜びだったそうです。ケーキを切り分けて、全員がテーブルに向ってケーキの味を楽しみました。その時は、カメラを三脚に固定して、全員の姿を撮影していたのです。普段はカメラマンとして、私の姿はほとんど残っていませんが、その時には私の姿も撮影されていたのです。
 その時、孫が、小学校1年生の孫が思わず呟いたそうです。「ジイジイって、若かったんやなーー」。 その話を聞いて、私はビックリしました。マダマダ、本人は元気で若いつもりやのに…と。
スポーツをしている姿とかでは無くて、三脚にカメラを固定して。スタートボタンを押して、ゆっくりとテーブルに着いた時の、その姿が撮影されていたのです。
 やはり、周りからはその様に見られてるんやなー、と、納得するしか仕方ありません。2年前に仕事を辞めて車も必要無いからと売却して、今は移動手段としてはもっぱら自転車ですが、もっともっと、歩いて元気を取り戻さないかんな…と、思わされました。ホント、私自身としては、マダマダ元気だと自覚しているのですが、周囲からはその様に見えてるんやなー・・・と、正直驚きました。
 これからも、家に閉じこもらないで、カメラを片手に頑張らなくては・・・改めて自覚した次第です。

2015年6月21日日曜日

近くのATMまで、ゆっくり散歩してきました

梅雨とはいえ、雨の少ない毎日です。でも、今朝、明け方には激しく降ってはいましたけど。
 雨も上がった午前10時前、久し振りに散歩でもして来ようか・・・と、徒歩でATMに向かいました。ATMは、JRの富田駅前です。距離は1,500メートル。若かりし頃は、自宅から毎日徒歩で駅まで、JRで大阪まで通勤していました。駅まで、昔は10分程度で歩いていたのですが、年齢と共に少しずつ、その時間が伸びているのは分かっていました。
 仕事を離れてからは車も売却。移動はもっぱら自転車を使用していたのですが、少しは歩かなくては・・・と、散歩がてら久しぶりに駅まで歩きました。雨はすっかりあがって、お日様も十分に輝いて、日陰を選んで歩かなくては、暑くて堪らない様な状態でした。駅まで歩く道、歩いて通勤していた道ですが、ゆっくり歩いて見る風景、建物などはいろいろと違っていました。自転車では最近も眺めていた風景ですが、歩いて見る風景は、また全然違いました。全然知り合いでもないお宅の玄関先、プランターで開いた草花などに目を向けながら・・・。ベルトに止めていた小型カメラで、つい、撮影させて頂きました。
 普段の移動はもっぱら自転車で、病院に通うのもお出迎えのタクシーで往復。歩くといえば、ショッピングセンターなどの店内の歩行だけに限られていたのです。そこで、これでは駄目だ、と、最近通販で万歩計を購入したのです。自宅内の移動だけでは、一日を経過しても1,500歩も進めば良い方で、やはり出かけなくては…と、昨日は家内からメモを預かって。近くのスーパーまで買い物。
昨日は3,500歩程度でした。今日の日曜日、今日も頑張ろう・・・と、ATMまで向かった次第です。
途中、休憩を挟みながら、又、道端の草花を眺めたり。河原に咲いていた草花、名前は知りませんが、写真に撮りたかったのですが、強い風に吹かれていたので、小型カメラでの撮影は諦めました。駅前のATMでは入金処理だけ、又、駅前には新しいスーパーも出来ていたので、買い物の予定は全然有りませんでしたが、店内をグルーッと、一周。他の店との価格だけを比較しながらの一周でした。
 帰宅した時は、もうすぐ11時でした。約1時間かけて、3キロの道、歩数は約5,000歩でした。
計算したところ、1歩が約60センチ。決して歩幅は広くは無いけど、だけど、まいいか・・・と、少しは安心したところです。これからも、暇を見つけては歩くように頑張ります。

2015年6月16日火曜日

今までに保存していた動画、DV、HDVテープを Diskに保存しています。

高校の2年生の時から撮りためた動画、8ミリ映画のダブル、最初は無声での撮影でしたが、音声付が欲しくなり、磁気ストライプ付きのフィルムで撮影。50フィート巻きのフィルムから、100フィーと巻きへ、往復撮影ですので、100フィート巻きのフィルムで、現像後、仕上がりは200フィート巻きの8ミリ映画でした。高校2年生の時、映画作製の月刊誌、当時は3誌ありましたが毎月、その3冊で猛勉強。その当時は手元には未だ映写機は買って貰って無かったので、編集時にはカメラ店から一晩だけ借りて来て、夜も寝ないで苦労したものです。でも、それで出来た作品を、一般を対象にしたコンテストに応募したところ、ナントナント、推薦でした。当時は、あくまで個人的に撮影しており、8ミリサークルなどは全然知りませんでしたので、周囲の方々も、突然現れた高校生の推薦に、大変驚かれた様でした。
あの時代、一番名に知れた8ミリ映画誌としては、今は名前が変わっていますが、『小型映画』でした。現在は『ビデオサロン』だったと思います。
 その後、時代は8ミリからビデオに変わりました。最初βか、VHSか、で迷いましたが、私はβからスタート。当時は一体型では無くて、カメラとビデオは14Pのケーブルで接続するタイプでした。最初は家庭用からスタートしましたが、その次に購入したのは、業務用機、DXC-M3Aでした。今だったら、軽四の新車がすぐ買える金額でした。ビデオデッキも業務用のBR-8600、BR-7700を使用して、カメラケーブルも30m。機材運搬用に3段式のキャリアカーも購入して、ワンボックスカーで移動していました。自宅を新築した時には、ガレージに車を入れると、そのすぐ後ろに縁側があって、車から木製のブリッジで室内に機材一式を持ち込めるようにしていました。室内にはBR-8600とBR-7700を編集機で接続、勿論、音声用にはミキサーも使用していました。
 それから何十年ですかね、早いものです。撮りためた8ミリ映画はテープにダビング、又、β、8ミリビデオ等は全て現在のDVに変換。箱の中にDVテープを大切に保管していましたが、しかし、それはあくまで磁気テープです。年月の経過と共に、再生は不能になるものと思います。そこで、永久に保存できるよう、Diskに保存する事にしました。何百本と有ったDVテープは、そっくりDVD-Rにコピーが完了しました。Diskにコピーして、その内容を写真撮影、テープNo.と共にDiskの表面にPrint。毎日、毎日、パソコン内のビデオ編集ソフトに取り込んで、それをDiskにPrintして、又、その中から撮影したピックアップ画面と日付を、Disk表面にプリント。
 つい先日から、やっと現行のHDVテープに移りました。今朝からHDV-004~005のダビングも完了しましたが、その中身の写真撮影までは出来ていません。明日、又、その印刷を実行の予定です。
毎日、孫達の成長など、過去の画面を見て、いろいろ思い出しながらの作業ですが・・・。

ま、いつか、誰かはきっと見てくれるだろう・・・と、信じて、毎日頑張っています。


2015年6月4日木曜日

今朝、かぼすの実を、指で摘んでみました

昨日、梅雨入りをしたとか…。
でも、今日は晴天に恵まれています。だけど、昨日までの猛暑では無く、現在は26℃程度ですので、気持ち良く過ごす事ができます。
出かける際には、いつも数分間、玄関脇のかぼすの実を眺めてから出かけていますが、今朝、約2センチ近くに大きくなったかぼすを、指でそっと摘まんでみたのです。見た目には、堅そうに思えましたが、感触は、小さなミカンの様な、柔らかい弾力がありました。毎年、実を取りながら、大きくなるまで触った事は無かったのですが、何か新しい経験をして、何ともいえぬ喜びを感じました。裏庭のかぼすは、昨年の剪定がまずく、4個だけしか実っていませんが、この玄関脇のかぼすは、とても数え切れない位に実っています。
 早いもので、大分から大阪に戻って23年にもなります。今でも、大分で覚えたかぼすの虜になって、又、カラオケも大分の都町で教えられました。大分に行くまでは、大阪でマイクを持って歌うなんて、全然経験が無かったのですが、大分で過ごした6年間、帰るころにはマイクを離さない位までに・・・。
こちら大阪では、夜の街に出かける事も少ないですが、でも、カラオケがあれば、一番に番号を打ち込んでいます。あと数カ月、かぼすが大きくなったら、食事が又、楽しみになります。かぼすをかけないのは、白飯だけ。おかずには、みんなかぼすを一杯に絞って…。飲み物も、ビールでは無くて焼酎のお湯割り。いまから、その日が来るのを楽しみにしています。

2015年5月26日火曜日

"かぼす"が こんなに大きくなりました

未だ5月だというのに、早くも真夏の気温。今日も天気予報では最高気温は30℃とか・・・。
 ここ数日は雨もなく、毎日、庭の散水に追われています。庭の”かぼす“、一昨年は大きく剪定したので結実は今一つでしたが、今年は違います。枝いっぱいに花を開き、数え切れない位の”かぼす“が実をつけています。つい先日も、花の画像を応募しましたが、見る見るうちに大きく成長。
 大分に転勤して覚えた”かぼす“
の味覚。6年間の大分の生活で、すっかり”かぼす“の虜になってしまいました。最初はスライスして、焼酎に浮かべるだけでしたが、どんどんエスカレート。焼き魚は勿論、味噌汁にも”かぼす“。最後には漬物にも”かぼす“。”かぼす“を半分に切って、その切り口を上に45度の角度で絞りかける、レモンと違って、周囲の皮から出る露も振りかける・・・、これは地元の方しかご存じ無い絞り方でしょう。
 大分に在任中に聞いた事があります。東京の方に、大分の方からの贈り物が届いたのですが、開けてみると中はみんな”かぼす“。テーブルの上に、箱一杯の”かぼす“を並べて、『こんなに沢山の”かぼす“。どうしよう・・・』と、思案してるとか。その時は大笑いをしたものですが、私も大分に行く前でしたら、ホント、沢山の”かぼす“を戴いても、悩んだ事でしょう。ミカンと違って”かぼす“。大分の生活をご存じ無い方には、処分の方法に悩むかもしれないですね。
 約20年前に、大分から大阪に帰りましたが、大阪では”かぼす“は、なかなか手に入りません。ネットで箱入りを求め、又、”かぼす“のエキス、瓶入りを取り寄せた事もありましたが、遂には、苗木を2本購入して、それ以来、大切に育てています。でも 大阪では宅地も狭いので、大きくなり過ぎては近所迷惑になりますので、時々は剪定をしているのですが一昨年の選定は失敗でした。
昨年の結実はゼロでした。
今年は、表の”かぼす“は元気一杯。裏庭のは今一つですが、今年は剪定を控えて、来年を楽しみにする事にします。
 しばらくの間、このブログの更新をしていませんでしたが不調の、パソコンのリカバリイをしてやっと普通に戻りましたので、これから又、頻繁に更新するよう努めます。
 

2015年1月10日土曜日

服用する薬にご注意、薬が原因で障害者に!!

 先日修理した電気ケトル、その後は何のトラブルも無く、元気に稼働してくれています。機械は不具合な部品等を交換すれば、すっかり新品同様に復元できます。
 しかし、人間の身体は、一度不調になると元通りには戻せないのです。先日ここでお話ししました、私の大腿骨董壊死の件です。MRIで、大腿骨の先端のボール部分が壊死状態と解りました。大阪医大で手術を受ける前に、それまでの経過を、整形外科医に詳しくお話ししました。何十年も同じ整形外科医院に通っていて、そこの先生の指示通りに薬を服用していた事。その薬を、手術担当の先生にお見せしたところ、その薬の中から、原因は、この薬!!と、一つの薬を示されました。ステロイドでした。私が長年通っていた整形外科医院では、最近でも全て院内処方を実施しています。院内処方ですから、薬についての説明は、先生から伺うだけです。最近の様に院外処方でしたら、処方されたそれぞれの薬の効能と共に、注意点等も文章で示されています。しかし、院内処方でしたので、包装を解いて、1回分ずつにパッキングされた状態で受領していましたので、私は馬鹿正直にその薬を何十年も服用していたのです。手術担当の整形外科の先生は、もし必要でしたら、私が証言しても良いですよ、と迄、仰って下さいました。この薬が大腿骨董壊死の原因に間違い無い!と、断言して下さいました。しかし、私が長年お世話になっていた整形外科医院の先生は、私の身内の紹介で行った医院でしたので、いえ、私には裁判沙汰は、チョット出来ません。ありがとうございます。と、手術担当の先生にお礼を言いました。
 ステロイド系の薬は数多く有りますので、ステロイド系の薬が全て駄目、では有りません。たまたま、私には駄目だったのです。
 平成141224日に手術を受けて、今年で11年経ちました。今日、一年振りにその定期健診を受けました。レントゲン写真を前に、先生に尋ねました。手術の時は、電動のこぎりで大腿骨を切断したのですか?  大腿骨に打ち込む時は、ハンマーで叩いて打ち込んだのですか?
そうや、ハンマーの音は廊下までも響いとったと思うよ・・・。私は思わず呟きました。全身麻酔で良かった・・・と。
 薬の事を書いたので、もう1件、やはり私の経験ですが、鎮痛解熱剤として『ロキソニン』という薬が有ります。これも医院からの処方で、私はいつも鎮痛解熱剤として使用していました。これは、毎日の服用では有りませんでしたが、腰が痛い時等は何の抵抗も無く、毎日服用もしていました。実に良く効く薬です。体温が38℃以上あっても、服用後30分もすれば平熱に治まるのです。しかし、この薬が原因で、腎臓を痛めました。早くそれに気付けば良かったのですが、腎臓の生体検査を実施、IGA腎症で免疫抑制剤等で治療を続けましたが、好転は無く、現在では週3回の血液透析のお世話になっております。
 私の場合だけかもしれませんが、ステロイド系の薬、ロキソニンでは、取り返しの付かない状態に陥っております。健康な皆さんは、いろいろの先生から処方された薬を服用する前に、ご自分に適合しているかどうか、良く、先生に確認して服用なさって下さい。私は薬剤師でも無いし、まして医師でも有りません。自分が服用して失敗したお話ですので、何か、必要な時には、何かの参考になさって下さい。私は大腿骨董壊死で障害者4級、腎不全の血液透析で障害者1級になりました。

 最近は、価格の安いジェネリック医薬品が出回っていますが、新聞報道によれば、充分な検査もしないままで発売されているジェネリック医薬品があると聞きました。今までは、全てジェネリックで通していましたが、今後は、主治医にお願いして、ジェネリック品は拒否する事にしました。

2014年11月9日日曜日

初めてのヘリコプター搭乗 

(当時の写真ではありません。この写真は共有しました)
小学校1年か2年の時でした。確か『森永キャラメル』の懸賞募集が有り、早速応募したところ、ナント、ナント、当選したのです。賞品は、未だ出来たばかりの岡山県営球場で、ヘリコプターに搭乗できる・・・と、いう賞でした。未だ、その当時はヘリコプターも小型でしたし、現在程ヘリコプターも普及していませんでしたので、ヘリコプター自体が、未だ珍しい時代でした。最近のヘリコプターは、かなり大型の機種も開発されていますが、当時のヘリコプターは、写真の通り、前部、左右は透明なスタイルで、搭乗人数も、限られたものでした。
 懸賞に当選した時には、ホント、大喜びでした。確か、当選者数は10名程度だったかと記憶しています。当日は、家族揃って、岡山球場まで出掛けました。家族は、スタンドから、私はグランド内に呼び出されて、今か今かと、ヘリコプターの到着を待ったのです。グランド内で、かなりの時間、しゃがんで待たされました。搭乗予定の時間から1時間以上も待ったでしょうか、やっとヘリコプターが到着しました。飛行機にも当然乗った事はありませんでした。全くの初めて、しかも、遊び慣れた場所の上空に上がるのですから、非常に大きな期待を持っての搭乗でした。
 当時は未だ小型機でしたので、搭乗人数にも制限が有り、2~3人ずつがシートにベルトで絞め付けられて、順番に搭乗したのです。岡山市内を、グルーッと回ってくれるのか・・・と、大きな期待を掛けての搭乗でしたが、ナント、極端にいえば、県営球場の周囲を1周も回ったでしょうか?
乗った感覚としては、シートに縛り付けられて、上空に上がった・・・と、思ったら、地上に降りていました。実際に搭乗した私も、エーッ?、これだけーっ? と、言いたい位でしたが、見ていた家族も、えらい短い時間じゃったナー・・・と、いう位に、ホント、短い時間でした。予定時間から遅れての到着でしたので、又次の搭乗場所への移動を急がなくてはならなかったのでしょうが、チョット物足らない感じが有りました。ま、お土産のお菓子は、大きな一袋を頂きましたが、しかし、これはホントに期待外れでした。
 岡山県営球場のすぐ近くに、岡山県営プールが出来上がった時、私達3人兄弟と、私より4つ位上の近所のお兄さんと一緒に、泳ぎに出掛けた時の話です。出来たのは50メートルのプール、勿論大人用ですから、私の足は届きません。当時は、未だ泳げなかったので、中に入っても、周囲に寄り添っているとか、上に上がっては、プールサイドを走り回っていたのです。プールの周囲は未だ何の加工等もされず、山土が盛り上がっていたのを記憶しています。そのプールの周囲を走り回っていたところ、突然、「プールに来たんじゃろうがー、泳げー!!」と、全く知らない人が、私を抱き上げてプールの中に私を放り込んだのです。プールに入るのも初めての私をいきなり放り込まれたので、私は正直溺れました。両手を交互にパシャパシャするだけで、私自身ではどうにも出来ませんでした。それを見て、一緒に行ってた近所のお兄さんが、私を助けて下さいました。別に、水を飲むとかの被害は有りませんでしたが、当時は、ホント、今では考えられない様な事も平気で行われていたのです。中には、「水を飲んでしまいましたよ!!」と、その男性にクレームを付ける子もいましたが、そんなのは全然無視・・・という状態でした。その当時も、プールの監視員は当然居たとは思いますが、特に問題視はしていなかったようです。
 その後、犬かきから順に覚えて、その後は泳げる様にはなりましたが、いきなり放り込まれたのには驚きました。ま、当時は何かにつけて、この様な時代でした。

2014年11月8日土曜日

中学、入学早々のアクシデント

岡山市上伊福に有った岡山県庁が新築移転する事になり、県庁の中の職員用の住宅、県公舎から、門田文化町の県公舎に転宅。そのお陰で、それ迄は学校まで約6キロ、路面電車にも乗っての通学でしたが、転居後は学校まで6~7分の徒歩で行けるようになりました。小学校の時には、片道1時間以上かかっていましたので、ウソの様に楽な通学距離となりました。
 中学校に入学して1カ月が経った頃でした。午前中の体育の時間、体操服に着替えてグランドに出ました。しかし、いつまで待っても体育の先生がみえませんでした。聞くところによれば、先生の都合て゛、その日はお休みだとか。それでは・・・と、砂場の横に走り高跳びのスタンドをセット、竹のバーを置いて、どんどんと順番に跳んでいました。走り高跳びの練習では無く、まるで休憩時間の遊びの様に。私も走り高跳びの経験は全然有りませんでしたが、まるでゴム跳びの様なスタイルで何度か跳びました。ところが、砂場に着地した時に、バランスを崩して尻餅をついたのです。左手を後ろに伸ばして砂場に手をついたところ、エッ?、手首にカクンとショックを感じたのです。しかし、酷い痛みも無く、何かな…と、不思議に思っていたのです。ところが、その左手を腰に当てると、手首の関節よりも7~8センチ上が、ポコッと膨らむのです。これは何故かな?と、納得出来ませんでした。特別、痛みが酷いとかでも無く、しかし、右手で押さえてみると少し痛みは有りました。そこで、友達に「チョット養護室へ行ってくるわ・・・」と言って養護室に向かいました。養護室は小学校と中学校に一つしか有りませんでしたので、場所も又、養護教員をも知っていました。病院に行った方が良い、との指示で、岡山市の中心に有る川崎病院に電話連絡をして下さいました。体操服から制服に着替える為に、教室に戻ろうとしたところ、担任の先生がグランドで走り高跳びをしている生徒に、「教室で自習しなさい」と指示している姿が有りました。しかし、私に対して、腕の事を尋ねる事も無く、私は制服に着替えてから、徒歩と、路面電車を乗り継いで、更に電車を降りてから約1キロ徒歩で、左手は学生服のボタンとボタンの間に挟むようにして、歩いて病院に向かったのです。
 病院の受付で名前を告げると、受付の方がビックリして、「エーッ?  一人で来たの?  養護の先生は?~~ 」と、大声を出され、病院の中はたちまち大騒ぎになりました。早く早くとせかされて診察室に入り、医師の触診からレントゲン撮影室に直行でした。結果は簡単でした。左手首の骨折でした。すぐ副木を当てて、包帯で湿布、患部を固定して下さって、三角筋で首から吊るして左手を支えて下さいました。「大丈夫??一人で帰れる??」と、見送られて病院を後にしました。学校に戻ると、今日はもう帰宅しなさい、との指示で手提げかばんを右手に提げて、帰宅しました。帰宅すると、母と祖母が跳びあがらんばかりに驚いていた記憶が有ります。いくら昔の話とは言え、学校で骨折した生徒、中学1年生の子を単独で病院に行かせて、又、自宅にも何の連絡も無しで・・・。これが、もし最近でしたら、救急車までは行かなくても、せめてタクシーで付き添っても下さるでしょうね。
 その日の夜、床に就こうとして、ハタと考えました。病院でも慌てての処置でしたので、私は学生服を着たままで、腕まくりをして副木を当てて包帯してあるのです。学生服の上着が脱げないのです。素人が包帯を緩める事も出来ないので、上着は脱いだものの、左手は上着から抜けない為に、左手は上着の袖を通したまま、上着を横に置いて休みました。翌日、病院に出向いて、全員が大笑いで、上着から腕を抜いて、今度は上着の袖を通さない状態で。再度包帯で固定してもらいました。
 小学校時代には、たまにソフトボール等はやってましたが、本格的なスポーツは全然経験していませんでしたので、中学校の入りたてに、この様な無様な結果となりました。骨折の方は1カ月でギプスから解放され、2か月も経過すると、左腕に力を入れても、痛みの出る事は有りませんでした。
 中学校では、友人の誘いでバレーボール部に入りました。しかし、この当時のバレーボールは9人制てす。コートも体育館等の室内では有りません。コートは土の上です。私は身長が有りましたので、センターフォワード。セッターとして両サイドのアタッカーにトスもしましたが、私の一番得意としたのは、トゥーアタックで、自らが得点する事でした。中学校では、あらゆる種類のスポーツを経験し、又、体育委員長として、幼・小・中学校の合同運動会では、正面の壇上でラジオ体操をするなど、数多くの経験をしました。中学校の種々のお話は、次回に・・・。