2015年6月4日木曜日

今朝、かぼすの実を、指で摘んでみました

昨日、梅雨入りをしたとか…。
でも、今日は晴天に恵まれています。だけど、昨日までの猛暑では無く、現在は26℃程度ですので、気持ち良く過ごす事ができます。
出かける際には、いつも数分間、玄関脇のかぼすの実を眺めてから出かけていますが、今朝、約2センチ近くに大きくなったかぼすを、指でそっと摘まんでみたのです。見た目には、堅そうに思えましたが、感触は、小さなミカンの様な、柔らかい弾力がありました。毎年、実を取りながら、大きくなるまで触った事は無かったのですが、何か新しい経験をして、何ともいえぬ喜びを感じました。裏庭のかぼすは、昨年の剪定がまずく、4個だけしか実っていませんが、この玄関脇のかぼすは、とても数え切れない位に実っています。
 早いもので、大分から大阪に戻って23年にもなります。今でも、大分で覚えたかぼすの虜になって、又、カラオケも大分の都町で教えられました。大分に行くまでは、大阪でマイクを持って歌うなんて、全然経験が無かったのですが、大分で過ごした6年間、帰るころにはマイクを離さない位までに・・・。
こちら大阪では、夜の街に出かける事も少ないですが、でも、カラオケがあれば、一番に番号を打ち込んでいます。あと数カ月、かぼすが大きくなったら、食事が又、楽しみになります。かぼすをかけないのは、白飯だけ。おかずには、みんなかぼすを一杯に絞って…。飲み物も、ビールでは無くて焼酎のお湯割り。いまから、その日が来るのを楽しみにしています。

2015年5月26日火曜日

"かぼす"が こんなに大きくなりました

未だ5月だというのに、早くも真夏の気温。今日も天気予報では最高気温は30℃とか・・・。
 ここ数日は雨もなく、毎日、庭の散水に追われています。庭の”かぼす“、一昨年は大きく剪定したので結実は今一つでしたが、今年は違います。枝いっぱいに花を開き、数え切れない位の”かぼす“が実をつけています。つい先日も、花の画像を応募しましたが、見る見るうちに大きく成長。
 大分に転勤して覚えた”かぼす“
の味覚。6年間の大分の生活で、すっかり”かぼす“の虜になってしまいました。最初はスライスして、焼酎に浮かべるだけでしたが、どんどんエスカレート。焼き魚は勿論、味噌汁にも”かぼす“。最後には漬物にも”かぼす“。”かぼす“を半分に切って、その切り口を上に45度の角度で絞りかける、レモンと違って、周囲の皮から出る露も振りかける・・・、これは地元の方しかご存じ無い絞り方でしょう。
 大分に在任中に聞いた事があります。東京の方に、大分の方からの贈り物が届いたのですが、開けてみると中はみんな”かぼす“。テーブルの上に、箱一杯の”かぼす“を並べて、『こんなに沢山の”かぼす“。どうしよう・・・』と、思案してるとか。その時は大笑いをしたものですが、私も大分に行く前でしたら、ホント、沢山の”かぼす“を戴いても、悩んだ事でしょう。ミカンと違って”かぼす“。大分の生活をご存じ無い方には、処分の方法に悩むかもしれないですね。
 約20年前に、大分から大阪に帰りましたが、大阪では”かぼす“は、なかなか手に入りません。ネットで箱入りを求め、又、”かぼす“のエキス、瓶入りを取り寄せた事もありましたが、遂には、苗木を2本購入して、それ以来、大切に育てています。でも 大阪では宅地も狭いので、大きくなり過ぎては近所迷惑になりますので、時々は剪定をしているのですが一昨年の選定は失敗でした。
昨年の結実はゼロでした。
今年は、表の”かぼす“は元気一杯。裏庭のは今一つですが、今年は剪定を控えて、来年を楽しみにする事にします。
 しばらくの間、このブログの更新をしていませんでしたが不調の、パソコンのリカバリイをしてやっと普通に戻りましたので、これから又、頻繁に更新するよう努めます。
 

2015年1月10日土曜日

服用する薬にご注意、薬が原因で障害者に!!

 先日修理した電気ケトル、その後は何のトラブルも無く、元気に稼働してくれています。機械は不具合な部品等を交換すれば、すっかり新品同様に復元できます。
 しかし、人間の身体は、一度不調になると元通りには戻せないのです。先日ここでお話ししました、私の大腿骨董壊死の件です。MRIで、大腿骨の先端のボール部分が壊死状態と解りました。大阪医大で手術を受ける前に、それまでの経過を、整形外科医に詳しくお話ししました。何十年も同じ整形外科医院に通っていて、そこの先生の指示通りに薬を服用していた事。その薬を、手術担当の先生にお見せしたところ、その薬の中から、原因は、この薬!!と、一つの薬を示されました。ステロイドでした。私が長年通っていた整形外科医院では、最近でも全て院内処方を実施しています。院内処方ですから、薬についての説明は、先生から伺うだけです。最近の様に院外処方でしたら、処方されたそれぞれの薬の効能と共に、注意点等も文章で示されています。しかし、院内処方でしたので、包装を解いて、1回分ずつにパッキングされた状態で受領していましたので、私は馬鹿正直にその薬を何十年も服用していたのです。手術担当の整形外科の先生は、もし必要でしたら、私が証言しても良いですよ、と迄、仰って下さいました。この薬が大腿骨董壊死の原因に間違い無い!と、断言して下さいました。しかし、私が長年お世話になっていた整形外科医院の先生は、私の身内の紹介で行った医院でしたので、いえ、私には裁判沙汰は、チョット出来ません。ありがとうございます。と、手術担当の先生にお礼を言いました。
 ステロイド系の薬は数多く有りますので、ステロイド系の薬が全て駄目、では有りません。たまたま、私には駄目だったのです。
 平成141224日に手術を受けて、今年で11年経ちました。今日、一年振りにその定期健診を受けました。レントゲン写真を前に、先生に尋ねました。手術の時は、電動のこぎりで大腿骨を切断したのですか?  大腿骨に打ち込む時は、ハンマーで叩いて打ち込んだのですか?
そうや、ハンマーの音は廊下までも響いとったと思うよ・・・。私は思わず呟きました。全身麻酔で良かった・・・と。
 薬の事を書いたので、もう1件、やはり私の経験ですが、鎮痛解熱剤として『ロキソニン』という薬が有ります。これも医院からの処方で、私はいつも鎮痛解熱剤として使用していました。これは、毎日の服用では有りませんでしたが、腰が痛い時等は何の抵抗も無く、毎日服用もしていました。実に良く効く薬です。体温が38℃以上あっても、服用後30分もすれば平熱に治まるのです。しかし、この薬が原因で、腎臓を痛めました。早くそれに気付けば良かったのですが、腎臓の生体検査を実施、IGA腎症で免疫抑制剤等で治療を続けましたが、好転は無く、現在では週3回の血液透析のお世話になっております。
 私の場合だけかもしれませんが、ステロイド系の薬、ロキソニンでは、取り返しの付かない状態に陥っております。健康な皆さんは、いろいろの先生から処方された薬を服用する前に、ご自分に適合しているかどうか、良く、先生に確認して服用なさって下さい。私は薬剤師でも無いし、まして医師でも有りません。自分が服用して失敗したお話ですので、何か、必要な時には、何かの参考になさって下さい。私は大腿骨董壊死で障害者4級、腎不全の血液透析で障害者1級になりました。

 最近は、価格の安いジェネリック医薬品が出回っていますが、新聞報道によれば、充分な検査もしないままで発売されているジェネリック医薬品があると聞きました。今までは、全てジェネリックで通していましたが、今後は、主治医にお願いして、ジェネリック品は拒否する事にしました。

2014年11月9日日曜日

初めてのヘリコプター搭乗 

(当時の写真ではありません。この写真は共有しました)
小学校1年か2年の時でした。確か『森永キャラメル』の懸賞募集が有り、早速応募したところ、ナント、ナント、当選したのです。賞品は、未だ出来たばかりの岡山県営球場で、ヘリコプターに搭乗できる・・・と、いう賞でした。未だ、その当時はヘリコプターも小型でしたし、現在程ヘリコプターも普及していませんでしたので、ヘリコプター自体が、未だ珍しい時代でした。最近のヘリコプターは、かなり大型の機種も開発されていますが、当時のヘリコプターは、写真の通り、前部、左右は透明なスタイルで、搭乗人数も、限られたものでした。
 懸賞に当選した時には、ホント、大喜びでした。確か、当選者数は10名程度だったかと記憶しています。当日は、家族揃って、岡山球場まで出掛けました。家族は、スタンドから、私はグランド内に呼び出されて、今か今かと、ヘリコプターの到着を待ったのです。グランド内で、かなりの時間、しゃがんで待たされました。搭乗予定の時間から1時間以上も待ったでしょうか、やっとヘリコプターが到着しました。飛行機にも当然乗った事はありませんでした。全くの初めて、しかも、遊び慣れた場所の上空に上がるのですから、非常に大きな期待を持っての搭乗でした。
 当時は未だ小型機でしたので、搭乗人数にも制限が有り、2~3人ずつがシートにベルトで絞め付けられて、順番に搭乗したのです。岡山市内を、グルーッと回ってくれるのか・・・と、大きな期待を掛けての搭乗でしたが、ナント、極端にいえば、県営球場の周囲を1周も回ったでしょうか?
乗った感覚としては、シートに縛り付けられて、上空に上がった・・・と、思ったら、地上に降りていました。実際に搭乗した私も、エーッ?、これだけーっ? と、言いたい位でしたが、見ていた家族も、えらい短い時間じゃったナー・・・と、いう位に、ホント、短い時間でした。予定時間から遅れての到着でしたので、又次の搭乗場所への移動を急がなくてはならなかったのでしょうが、チョット物足らない感じが有りました。ま、お土産のお菓子は、大きな一袋を頂きましたが、しかし、これはホントに期待外れでした。
 岡山県営球場のすぐ近くに、岡山県営プールが出来上がった時、私達3人兄弟と、私より4つ位上の近所のお兄さんと一緒に、泳ぎに出掛けた時の話です。出来たのは50メートルのプール、勿論大人用ですから、私の足は届きません。当時は、未だ泳げなかったので、中に入っても、周囲に寄り添っているとか、上に上がっては、プールサイドを走り回っていたのです。プールの周囲は未だ何の加工等もされず、山土が盛り上がっていたのを記憶しています。そのプールの周囲を走り回っていたところ、突然、「プールに来たんじゃろうがー、泳げー!!」と、全く知らない人が、私を抱き上げてプールの中に私を放り込んだのです。プールに入るのも初めての私をいきなり放り込まれたので、私は正直溺れました。両手を交互にパシャパシャするだけで、私自身ではどうにも出来ませんでした。それを見て、一緒に行ってた近所のお兄さんが、私を助けて下さいました。別に、水を飲むとかの被害は有りませんでしたが、当時は、ホント、今では考えられない様な事も平気で行われていたのです。中には、「水を飲んでしまいましたよ!!」と、その男性にクレームを付ける子もいましたが、そんなのは全然無視・・・という状態でした。その当時も、プールの監視員は当然居たとは思いますが、特に問題視はしていなかったようです。
 その後、犬かきから順に覚えて、その後は泳げる様にはなりましたが、いきなり放り込まれたのには驚きました。ま、当時は何かにつけて、この様な時代でした。

2014年11月8日土曜日

中学、入学早々のアクシデント

岡山市上伊福に有った岡山県庁が新築移転する事になり、県庁の中の職員用の住宅、県公舎から、門田文化町の県公舎に転宅。そのお陰で、それ迄は学校まで約6キロ、路面電車にも乗っての通学でしたが、転居後は学校まで6~7分の徒歩で行けるようになりました。小学校の時には、片道1時間以上かかっていましたので、ウソの様に楽な通学距離となりました。
 中学校に入学して1カ月が経った頃でした。午前中の体育の時間、体操服に着替えてグランドに出ました。しかし、いつまで待っても体育の先生がみえませんでした。聞くところによれば、先生の都合て゛、その日はお休みだとか。それでは・・・と、砂場の横に走り高跳びのスタンドをセット、竹のバーを置いて、どんどんと順番に跳んでいました。走り高跳びの練習では無く、まるで休憩時間の遊びの様に。私も走り高跳びの経験は全然有りませんでしたが、まるでゴム跳びの様なスタイルで何度か跳びました。ところが、砂場に着地した時に、バランスを崩して尻餅をついたのです。左手を後ろに伸ばして砂場に手をついたところ、エッ?、手首にカクンとショックを感じたのです。しかし、酷い痛みも無く、何かな…と、不思議に思っていたのです。ところが、その左手を腰に当てると、手首の関節よりも7~8センチ上が、ポコッと膨らむのです。これは何故かな?と、納得出来ませんでした。特別、痛みが酷いとかでも無く、しかし、右手で押さえてみると少し痛みは有りました。そこで、友達に「チョット養護室へ行ってくるわ・・・」と言って養護室に向かいました。養護室は小学校と中学校に一つしか有りませんでしたので、場所も又、養護教員をも知っていました。病院に行った方が良い、との指示で、岡山市の中心に有る川崎病院に電話連絡をして下さいました。体操服から制服に着替える為に、教室に戻ろうとしたところ、担任の先生がグランドで走り高跳びをしている生徒に、「教室で自習しなさい」と指示している姿が有りました。しかし、私に対して、腕の事を尋ねる事も無く、私は制服に着替えてから、徒歩と、路面電車を乗り継いで、更に電車を降りてから約1キロ徒歩で、左手は学生服のボタンとボタンの間に挟むようにして、歩いて病院に向かったのです。
 病院の受付で名前を告げると、受付の方がビックリして、「エーッ?  一人で来たの?  養護の先生は?~~ 」と、大声を出され、病院の中はたちまち大騒ぎになりました。早く早くとせかされて診察室に入り、医師の触診からレントゲン撮影室に直行でした。結果は簡単でした。左手首の骨折でした。すぐ副木を当てて、包帯で湿布、患部を固定して下さって、三角筋で首から吊るして左手を支えて下さいました。「大丈夫??一人で帰れる??」と、見送られて病院を後にしました。学校に戻ると、今日はもう帰宅しなさい、との指示で手提げかばんを右手に提げて、帰宅しました。帰宅すると、母と祖母が跳びあがらんばかりに驚いていた記憶が有ります。いくら昔の話とは言え、学校で骨折した生徒、中学1年生の子を単独で病院に行かせて、又、自宅にも何の連絡も無しで・・・。これが、もし最近でしたら、救急車までは行かなくても、せめてタクシーで付き添っても下さるでしょうね。
 その日の夜、床に就こうとして、ハタと考えました。病院でも慌てての処置でしたので、私は学生服を着たままで、腕まくりをして副木を当てて包帯してあるのです。学生服の上着が脱げないのです。素人が包帯を緩める事も出来ないので、上着は脱いだものの、左手は上着から抜けない為に、左手は上着の袖を通したまま、上着を横に置いて休みました。翌日、病院に出向いて、全員が大笑いで、上着から腕を抜いて、今度は上着の袖を通さない状態で。再度包帯で固定してもらいました。
 小学校時代には、たまにソフトボール等はやってましたが、本格的なスポーツは全然経験していませんでしたので、中学校の入りたてに、この様な無様な結果となりました。骨折の方は1カ月でギプスから解放され、2か月も経過すると、左腕に力を入れても、痛みの出る事は有りませんでした。
 中学校では、友人の誘いでバレーボール部に入りました。しかし、この当時のバレーボールは9人制てす。コートも体育館等の室内では有りません。コートは土の上です。私は身長が有りましたので、センターフォワード。セッターとして両サイドのアタッカーにトスもしましたが、私の一番得意としたのは、トゥーアタックで、自らが得点する事でした。中学校では、あらゆる種類のスポーツを経験し、又、体育委員長として、幼・小・中学校の合同運動会では、正面の壇上でラジオ体操をするなど、数多くの経験をしました。中学校の種々のお話は、次回に・・・。


2014年3月23日日曜日

和室の照明、蛍光灯を LEDに取り換え

 和室の照明は、今迄は蛍光灯、30W、32W、40Wの 合計102Wの照明。この和室は、昼間はもっぱら私専用の書斎? しかし、夜はこの部屋で、全員和室のテーブルで夕食を取っていました。最近、消費電力の少ないLEDが街の家電店には溢れていますが、和室用のこの手のランプは、2~3万円もする表示を見てビックリ。何とか安い経費でLED照明に替えられないものか・・・と考えていました。脱衣場とかトイレは40W相当のLED電球で充分な明るさでしたので、これならいけるかな・・・と、40W相当の電球、4個の照明にする事にしたのです。ネット通販で40W相当のLED電球を購入。消費電力は5.4W。これを4個点けた場合、消費電力は21.6W。現在の蛍光灯は103Wですので、1/4以下。そこで、テストもしないままに、蛍光灯からLED電球に取り換えたのです。LED電球の取付用にソケットを買って来て、それを中央に取付。電球の周囲が遊んでいるので、結線はしていませんが、32Wと40Wの蛍光灯は球のみを取りつけた形にセット。天井に取り付けて夜が来るのを待ってスイッチオン、忽ち家族からのブーイング。蛍光灯の時よりも手許が少し暗いとのクレーム。しかし、この方が電気代は安いから・・・と、その日は、その状態で休みました。しかし私自身も、少し暗いかな・・・と、思案。そこで次の日、今朝ですが午前4時に起床。再度工事に掛かりました。電気料は少し余分に消費するが、いっその事、32Wの蛍光灯の復活を試みたのです。もう、必要は無い・・・と、トランス等もすっかり取り外していたのですが、32Wだけ復活。再度、ハンダ付けする等、結構、手間は掛かりましたが、無事点灯。スイッチの切り替えで、大が32Wの蛍光灯と4個のLED電球、中が4個のLED電球のみ。小はLEDの豆球だけ。一度はすっかり部品を取り外していましたので、復活させるには、いろいろ大変でした。しかし、これで、やっと従来の明るさを取り戻しました。ヤレヤレです。見た目には、少し異様な組み合わせに見えるでしょうが、でも、2~3万円も掛ける位なら、ま、これでも良いか・・・と、一応は、家族共々、一応は納得しています。久し振りに手掛けた電気工事、坐ってする作業だけと違って、天井に上げ下げする作業も有ったので、運動不足の身体への負担はかなり大きな物が有りました。僅かな作業でしたが、足の痛み、特に膝上辺りに、かなりの筋肉痛を覚えています。でも、一応は家族の皆様のご了承も頂けましたので、ヤレヤレでした。あーあ、疲れた・・・。

( LED電球4個 +  32Wの蛍光灯 )

2014年3月13日木曜日

徐細動器(AED) 使用説明会の撮影依頼

最近では、公共施設、駅等にも携帯型の徐細動器が置かれる様にもなりましたが、病院にはもう少し大型の徐細動器が設置されています。これは、不整脈の治療に使われる器械で、心房細動(心房の収縮が無くなり、細かい波状に動く状態)、心室細動(心室の収縮が無くなり細かい波状に動く状態)を正常な動きに戻す時に用いられる補助人工臓器です。公共施設等に設置されているものについては、医学的な経験の無い方でも使用出来る様に、簡単な使用説明が添付されています。
近く、病院内において、緊急時の徐細動器の使用方法について説明会を開催するので、そのビデオ撮影をして欲しい・・・と、内科の部長から、総婦長を通じて依頼が有りました。説明会のアウトラインを伺ったところ、院内の医師、看護師を対象として、徐細動器の使い方を指導する。予定では4~5時間の予定・・・との事。使用方法は、比較的簡単なもので、左右の胸にパットを押し当てて、スイッチを入れるのが基本の動作との事。操作自体は、比較的簡単な事なのですが、その説明会に4~5時間もかけるという事は、一体どの様な講習会なのか、正直考えさせられました。
 今迄も、結婚式でしたら3時間近くの、ノーカット撮影等も経験はしていますが、それが、4~5時間にも及んだ場合、一人のカメラマンでは体力的に、手に負えません。ノーカットとなれば、三脚の下には車輪の付いたドリーで移動しますので、カメラを支える事に不安は有りませんが、どの様な位置、角度から撮影すればベストなのか、ノーカットで再生した場合に、どの様な画面になるか・・。凄く悩みました。今迄、作品等を造った経験が無ければ撮影には、何の抵抗も無かったかもしれません。単なる記念撮影程度のビデオの撮影でしたら、深く考える事も無いのですが、私自身が、一応はプロのビデオカメラマンの経験があるだけに悩みました。どの様な目的で、ビデオの記録を残すのか、又、そのビデオを再生する目的は、単なる行事の記録?、それとも、そのビデオを通じて徐細動器の使用方法を学ぶのが目的なのか・・・と、いろいろ考えました。内科部長にも伺いましたが、ビデオの撮影目的、その使用目的が今一つハッキリしません。撮影を受けた場合、当然の事ですが、そのビデオの使用目的に応じられるべく撮影、作品造りをするのですが、その目的が、今一つはっきりしない為、最終的には、撮影をお断りしました。今思い出しても、私自身は徐細動器の使用方法には興味が有りました。その講習会にも出席して、使用方法を伺いたい位の思いでしたが、ビデオの撮影をお断りをした関係で、その講習会にも出席は出来ませんでした。
 ビデオのプロカメラマン・・・と、自負もしないで、簡単な気持ちで、お受けした方が良かったのでしょうか? でも、その出来上がったビデオを見て、その出来上がりを非難されるのも嫌なものです。
やはり、お断りをして、私としては正解だったと、今も、その様に考えています。

2014年3月9日日曜日

音楽療法の集い、撮影を依頼されました

綜合病院の経理部に行き初めて半年ごろでした。新館3階の婦長からビデオ撮影の依頼が有りました。私がビデオが得意だと話していたのを総婦長辺りからでも聞いたのでしょう、病院の中、新館3階のロピーで開催される『音楽療法の集い』を撮影して欲しいとの事。ブライダルよりも手が掛からないから、まあ良いかと、即座にOKの承諾。しかし、いくら病院内、集会の撮影とはいえ絶対に失敗は許されません。そこで、撮影の装備はブライダルビデオと同様のシステムで・・・。ブライダルの当時は真空管式の3管式カメラを使用していましたが、カメラだけは新型に変更しています。ハイビジョンのカメラ、HDR-FX1を使用しました。カメラからは30メートルのビデオケーブルを使用して、押さえのテープ記録。カメラ内臓のテープではカメラのスタート、ストップに連動した記録ですが、30メートル先のデッキでは、ノンストップでの記録です。もし、途中で、スタート、ストップの遅れが有った場合には、押さえのテープから再編集が可能なシステムです。三脚の下には三脚用のドリーをセットして、移動しながらの撮影可能なシステムでスタンバイ。集いの予定時間は1時間程度と伺っていましたが、テープが不足してはまずいので、押さえのデッキは業務用機、ミニカセットならぬレギュラーサイズのテープを使用。
 機材の運搬は、ブライダルビデオの時と、全く同様でした。三段式のキャリアーにデッキ、カメラ、ケーブル等を車に積み込んで、救急車用の入り口からエレベータの近くに搬入。車はすぐ移動させて、機材を簡単に組み立てた後、3階まで移動。開始は午後1時30分の予定でしたが、私は30分前にセット開始。全ての機材に電源を入れて、準備OK。音楽療法の講師の方、演奏等の助手の方のお二人も間もなく到着。ご参加の方々は、ほとんどの方が車椅子ですので、前の方には椅子のセットは有りません。瀬尾婦長の開会のご挨拶の後、講師の方が自己紹介の後に、音楽療法の集いが開始されました。携帯オルガンの音に合わせて、皆さんのお名前をご紹介・・・。全員での合唱には、歌詞カードが欠かせません。正面のホワイトボードに、手書きの歌詞が掲示されて、全員での合唱。一つ歌が終えると、今度は全員にカスタネットの配布。歌に合わせて、カスタネットを叩き、その次は全員にスカーフの配布。流れた曲はメロディーだけですが、坂本九さんの見上げてごらん夜の星を。みなさん、両手を大きく伸ばしてスカーフを掴み、メロディに合わせて右に左に・・・。車椅子の方でも支障なく全員が参加できる様な配慮の中、1時間はすぐに経過しました。私は、その皆さん方のお姿を、カメラを移動させながら、全員、撮影しました。ブライダルよりも簡単・・・と、考えていましたが、全体の時間が少し短いだけで、カメラマンとしての負担は、何等変り無しの撮影でした。エンドミュージックの中、講師の方は参加者全員と握手を交わし、又、その様子を詰所から見た婦長が小走りに出て来て、エンディングのご挨拶。無事、音楽療法の集いは終える事が出来ました。後日、タイトル等も入れて、編集したテープと、ノーカットの連続撮影のテープを、1枚のDVDに入れて婦長にお渡ししました。この撮影は、あくまでボランティアですので、撮影料は当然ですし、使用したテープ、DVDディスク等も無償でのサービスでした。でも、これで皆さんが一日も早く、お元気になって頂ければ、有難いものです。
当日の記録は、YouTubeにアップロードしていますので、宜しければご確認下さい。
https://www.youtube.com/channel/UC1vRebGihrtYef0GCxRch0Q

2014年3月4日火曜日

救急患者は全て受け入れる事! 受け入れてから転送すれば良い!

平成14年12月24日に大腿骨董壊死症から大腿骨、骨盤の関節を人工に手術、それまでの職場は、3月31日付で定年退職。病院でのリハビリ療法も3月31日でもって完了。しかし、一般生活には未だ支障が有った為、市民プールに自転車で通って、水中歩行訓練を実行。手術から約1年後、12月には健常者とほぼ同一の行動が可能になりました。その時の年齢は60歳。未だもう少しは仕事をしたいな・・・と考えていた時、新聞広告で会計事務所の求人が目に止まりました。会計事務所は大阪ですが、勤務は私の地元の街の病院との事。早速応募して面接に伺いました。応募の方はかなり多いみたいで、応接室で暫く待機。私は予定時刻の5分前に入りましたが、前の方の面接終了まで、かなり待機させられました。面接は会計事務所の所長と、派遣先の病院の経理ご担当者のお二人。しかし、病院の方は発言は一切無し、全て会計士の方からの質問に素直に応答して、面接は特に何も無く終了。面接後、帰宅後すぐに電話連絡があり、月曜日から勤務を開始する様に・・・との事。自宅からは車で10分位。月曜日の朝は、毎週午前9時から職員の朝礼、病院の中の一室、大きさは学校の教室の2倍くらいの広さ、片隅に会議用テーブルが積み上げられていました。その当時の理事長の司会で進行する中、私も新任としてご挨拶。
これまで、病院とのお付き合いは、患者としてお世話になっただけで、その内側は全く何も知りませんでした。公的な病院は、又違うのでしょうが、この病院は理事長が設立したそうですが、病床は約220と伺いました。一応の規模は大きいかの如くに見えますが、中は完全に個人病院。実は、昭和55年頃でしたか、近所の内科医院からの紹介で、私の長女が入院した事が有りました。小学校の3~4年生の頃です。ある日、昼間です、見舞いに行きました。すると、病室には娘の姿も、ベッドも無く、娘の姿が有りません。近くの看護師の方に伺うと、ナント、驚きました。廊下の端、隅っこに置かれたベビーベッド、その中に娘が身体を小さくして休んでいました。新しい患者を迎える為の部屋移動、何方かが、退院のご予定だったのでしょう。その退院まで、空きベッドが無いので、娘はベビーベッドに寝かされて、廊下の隅っこ。娘は、病気で入院していたのですよ。
病院も外から見たのでは、内部の事は解りませんが、兎に角、この病院は設立者の声が全ての病院でした。一般の会社でも、ここまで酷いのは、見た事が有りません。医療系となると、師弟関係が一般の企業とは、又異なるのかもしれませんが・・・。朝の朝礼でのお言葉・・・『救急の連絡が有った場合は、一切断るな!! 必ず受ける事。受けて診察した後、他の病院に転送したら良い!!』
どこが採点をしているのかは知りませんが、救急を受け付けると、ポイントが+1、転送した場合の減点は無し。そこで、救急は全て受け入れて、ポイントを獲得。手に負えなかったら、転送したら良いと、当時の理事長、朝礼での発言です。その場では、誰も異議の発言は無し。驚きました。救急患者を何と心得ているのでしょうか。この件以降、身内には勿論、機会ある毎に、この病院にはお世話にはならない方が・・・と、お口添えしています。病院の全てがこんなだとは言いませんが、出来れば公の病院の方が信頼できるのかも知れません。今では、この病院の理事長は息子さんに替わっています。その後、改革がされているのかもしれませんが・・・??

2014年3月1日土曜日

水中歩行 一人で頑張った、リハビリの想い出

高槻市民プール 手前はジャグジー 後方は25mブール
12月16日に入院、手術に備えていろいろの準備期間の開始でした。それ迄、自宅では睡眠時にも水平に休む事が出来ず、ホームコタツと座イスで睡眠を取っていました。病院に入院して、水平のベッドで休めるかどうか・・・、でも実際に病室でベッドに転んでみたところ、ホント不思議でした。上を向いて、水平に休んでも痛みは出なかったのです。ベッドのスプリングのせいでしょうか、自分でも驚きました。12月24日の手術に備えて、全身のチェックを受けました。麻酔時に問題が生じるとまずい・・・との事で、歯の治療も受け、万全の態勢で手術を完了したのです。手術後、1週間目から、リハビリが始まりました。不思議ですね、ホント。左足に全然力が入らないのです。最初はベッドに横になって、左足を曲げたり伸ばしたり…。これも全て療法士の方のお手を煩わせての訓練でした。リハビリを始めてから1週間位でしたか、やっと両足で立てるようになりましたが、歩行はマダマダ。両サイドの手すりに捉まって、1歩1歩。3週間目には、両足での歩行が出来る様に回復しました。リハビリ室の周囲を、一人でグルーッと一周、療法士の方の指導に従って、やっと杖無しで、普通に歩行が可能になった頃、手術からは約1カ月が経過していました。一日も早く、会社に復帰したいとの思いから、1月29日には退院して、翌日には出勤しました。リハビリの際も、自転車のペダルを踏む様な運動もしていましたので、自宅から駅までは、自転車を利用しました。しかし、やはり手術前とは違って、左足の踏む力が全然足りません。リハビリ室では、何の苦労も無く、ペダルを踏んだのに・・・と思いましたが、多分、リハビリ室のペダルは、極く軽い負荷しか掛かって無かったのでしょう。実際に道路を走ると、平地は兎も角、ホンの僅かな登りでも、自転車が進まないのです。止む無く、自転車を降りて、その僅かな登りを押して、再度自転車に跨ったものでした。電車は摂津富田から梅田まで、約20分。電車通勤を再開して2~3日目の事でした。新大阪までは何の支障も無く吊革に捉まっていたのですが、新大阪を出た辺りで、急に気分が悪くなったのです。でも、5分足らずで大阪駅に着くから・・・と、じーっと耐えました。大阪駅に着いて、皆さんと一緒にホームに降りましたが、真っ直ぐな歩行が出来なくなって、階段横のフェンス、そのフェンスに捉まって、その場にしゃがみ込んだのです。暫くすると、それを見かねた一般の方が、立ち止まってお声をかけて下さいました。大丈夫です・・・多分、脳貧血ですから・・・と、答えてじっとしていると、駅員に方が階段を上ってみえて、休む場所として、駅員室に案内して下さいました。JR大阪駅には救護室の設備は無いそうです。事務用の椅子に座って10分位。その後、タクシーで会社に向かいました。
 その時の私の年齢は59歳。定年の60歳まで、あと僅か。4月24日が誕生日ですが、会社の勧めで3月31日の定年退職を選択、無事勤務を完了しました。しかし、身体はマダマダ本調子では有りません。自転車で10分位の所に、高槻市の市民プールが有りました。水中歩行で自力でリハビリを開始したのです。水泳は何年か振りでした。50メートルのプールに入って、クロールを始めたのですが、ほとんど前に進まないのには驚きました。深い50メートルプールは諦めて、室内の浅い25メートルのプールに移動。一番端のレーンは、水中歩行をなさる方の為に、空けられていましたので、その中に入って、何回も何回も25メートルを往復。周りは私よりもウンと歳の進んだ方ばかりでした。屋内のプールには、帽子を被らなくては駄目とか。初日は貸して頂きましたが、2日目からは自分の帽子で・・・。回数券を買いましたが、私は既に4級の身体障害者の認定を受けていましたので、料金は半額でした。水中歩行と、自転車の往復で、筋肉はやっと従来に復帰。手術から調度1年経過後、新しい職場に就く事が出来ました。自宅から車で10分位、綜合病院の経理指導として毎日勤務を始めました。ベッド数は220床、高槻市内では比較的大きな病院でした。調度その様な時でした。マイカーでの通勤でしたが、ある日、帰りに車に乗ったところ、ラジオから次から次とお名前を読み上げる放送が続いていました。途中から聞いたので、最初は何の放送か理解出来なかったのですが、後で解った事です。尼崎のJR福知山線の事故の犠牲者の方のお名前でした。今、思い出せば、ホント、いろいろな事が有りました。