2014年1月18日土曜日

突然、私の目の前で昏倒・・・・、 今週月曜日の出来事・・・

昨年の4月から、大阪医科大学、腎臓内科の先生の指示により、血液透析を始めています。最初は2時間でしたが、周囲の方々とペースを合わせる事も必要になり、現在では毎回4時間、毎週月、水、金曜日の午前8時45分から。各ベッドには、個人専用に小型のテレビが設置されており、イヤフォンで時間を過ごしています。最初に血液透析用に2本の注射針を刺して、透析器を経由して再び体内に戻す、その透析行為、4時間、じっと辛抱しています。1時間おきに血圧を測定して異常が有れば、直ちに中止して、回復を図る・・・といったものです。透析によって、血液中の、本来であれば腎臓で抜き取られる筈の不純物、主として水分ですが、それを透析によって除去しているのです。症状の酷い方ですと、毎回4キロ以上の除去をしているとか・・・。私の場合には、未だ症状が軽い為、毎回1キロ未満の除去ですが、4キロも除去されると、大変な負担だろうと思います。一度に4,000ccもの血液を抜かれると考えると、ホント、震え上がる思いがします。
 今週の水曜日、15日でした。透析を終えてロッカールームに戻って、パジャマから着替えていた時の事です。私のロッカーは入り口側に有りますが、そのロッカーの裏側、コトコトと、時たま弱い音がしていましたが、ああ、何方か、着替えていらっしゃるのだな・・・と考えていました。私の着替えがほぼ終えかけた時に、別の患者さんが更衣室に入って来られて、ロッカーの裏側に行かれました。そこで、暫くした時に突然、「アンタ、どないしたん? 大丈夫か? 手を貸そうか・・・?」と、大きな声がロッカーの裏側から聞こえました。その次の瞬間、ドターッ!!と、何かが落ちた様な音がしたので、私も驚いて音の方向をみると、ナント、驚きましたよ。そこに、人が倒れて来たのです。倒れても全然動く気配無し。続いて大きな声で『誰か呼んで!!  誰か読んで!!』との叫び声で、私は咄嗟に、入り口横に有った非常ボタンを押しました。すぐ、女性の看護師さんが飛び込んで来られて、顔を叩きながら、お名前を呼んでおられましたが、「先生を呼んで!!」と、悲痛な叫び。すぐ、二階の先生に連絡、先生も飛び込んで来られました。診察室へ・・・との事で、その患者さんと先生、看護師の皆さんは診察室へ移動して、更衣室は、やっと静かになりました。診察室へ向かう時、先生は脱いだ靴を履く暇も無かったのでしょう。靴は更衣室の入り口に脱いだままの状態で残されていました。
 私も着替えを終えて、更衣室の入り口で靴を履いている時に、先生がそこに戻って来られて、無言のまま、ご自分の靴を履いて出て行かれました。その先生のお姿を拝見して、ああ、亡くなったんだな・・・と、感じました。そうでなければ、心臓マッサージ等で、靴を履きに戻ってみえる余裕は無い筈です。表の待合所に行った時に、受付の方が消防署でしょう、電話をなさっていました。救急車の手配でした。腎臓内科のクリニックでは、死亡の判定まではなさらないのかどうか。私達が迎えのタクシーに乗った時に救急車がサイレンの音もけたたましく、走って来ましたが、クリニックの正面には停車しないで、一本先の道路を曲がって行きました。エッ、何故ここに止まらないの?と、思いましたが、あっ、そうか、そういう配慮か・・・と、気が付きました。いくら、小さなクリニックであれ、正面に救急車を止める事には抵抗が有って、裏口に行ったのか・・・と。
 昨日、透析開始の際に、その看護師に尋ねたところ、やはり駄目だったそうで。83歳の方だったそうです。
 私の目の前で、突然亡くなる方を見ましたが、全く初めての事で、やはり、色々な事を考えさせられました。今迄も、葬儀等での対面は経験していますが、その現場の経験は初めての事です。私も何時、この様な事になるのか・・・と。年齢は、もう少しは有るものの、いつ、そうなっても悔いの残らないようにしないと・・・と、ホント、考えさせられました。今回は、過去の想い出話では無く、強烈な出来事が有りましたので、ここに、書かせて頂きました。次回からは、再び、前回に続く内容で書かせて頂きますので、宜しくお願い致します。

2014年1月11日土曜日

朝、宿泊していた本社の社員が行方不明!!

大分パークインホテル
大分販売に着任して暫くした頃でした。大分市、中津市、佐伯市に営業所が有りましたが、日曜日を利用して全社員が集合、営業会議を催す事になりました。全社の営業会議ですので、オブザーバーとして、親会社の本社、タイヤ営業部の課長と、今年入社したばかりの若い方、2名の方が、営業会議の前日、遠路、大分にお越しになりました。その日は、歓迎の宴、都町の割烹ほり川で食事の後、スナックを数軒、スナック小林、スナック津軽をまわった後、社長は代行運転で帰宅、私はタクシーで、お二人をパークインホテルにお送りした後、私のマンションに帰りました。翌日の会議は、午前9時からの予定でしたので、8時過ぎにはお迎えに伺います・・・と、お伝えしての帰宅でした。
翌日は朝から良い天気に恵まれました。お二人をお迎えに、社長専用車のセダンでお迎えに、サニーストんホテルまで出掛けました。お二人をお迎えした後、一度会社に戻って、車を社長に返してから、私は別の車両で会議の会場に向かう予定でした。前日に約束した8時でしたが、ロビーにはお二人の姿は未だ有りませんでした。でも、もうみえる事と、私はロビーで暫く待っていたのですが、一向にお二人が出て来られないのです。フロントの方にお願いして、お部屋に電話を掛けて頂いたのですが、一向に応答なし。そうしているところへ、課長がお一人だけでロビーに出て来られました。若いA君の姿が見えない・・・との事です。お二人はシングルの部屋を利用していましたので、お部屋は別々でした。再び、フロントの方にお願いしてA君の部屋に電話を掛けて頂きましたが、応答は無し。朝食中かも…と、地下に有るレストランにまで行ってみましたが、どこにも姿は有りません。係の方に尋ねても、朝食を取った形跡も有りませんでした。会社では、私が迎えから戻って来るのを待っている筈です。会社宛に電話連絡もしました。A君の姿が見えないので、今探している・・・。少し時間が掛かるかも知れないので、会議の会場までは、こちらから直接向かうので、社長はそちらの車で向かって下さい・・・と。
これ以上、探す所も無い・・・との事で、フロントの方にお願いしてA君の部屋のドアを開けて頂いたのです。部屋に入って、ビックリ! ナントA君がベッドの横、床の上に転がっていたのです。頭をドアの方に向けた状態で、浴衣の前をはだけた状態で、目は開いていました。二日酔いかと、一瞬思いました。しかし、話しかけても応答は一切無し。目は動いていましたので、肩を軽く叩いて、どないしたん?・・・と、声を掛けましたが、相変わらず返答は有りません。部屋の中、周囲の壁にまで嘔吐したのでしょう、汚物がまき散らされた様な状況になっていたので、余計に驚きました。これは一大事!!と、ホタルの方に救急車をお願いしました。会社宛にも再度電話を掛けましたが、ここまでの非常事態は想像も出来無かったのでしょう。会議に遅れるなよ!!と、きつく叱られる始末。
A君には課長が救急車で同行して、私は取り敢えずは、会議会場に向かいました。
営業会議は一応、予定通りに始まりました。始まってから30分もしない所へ。A君に同行していた課長から電話連絡。『くも膜下出血』で、緊急手術をする。輸血の必要もあるかも知れないので、『B』型の血液の人は集まって欲しい・・・との事。その段階で、営業会議は中止となり、私は血液型は違いますが、病院にまで駆けつけました。手術に備えて、A君の頭髪は剃りあげられて、丸坊主になっていました。手術には身内の方の了解が必要…との事で、病院から、ご両親に電話で了解を頂いたとか。非常時には、裏の方法が有るのでしょう、私達全員、A君の自宅電話番号等は知りませんでした。手術の日の夕方には、A君のお母さんが大分に来られました。一日や数日では退院できないと想像出来ましたので、お母さんのお考えを確認した後、私は滞在できる所を探しました。ホテル住まいでは大変ですので、病院から近くの賃貸マンションを探し出して、取りあえずの生活が出来る様、布団等も家内の応援も得て、準備する事が出来ました。
 それから毎日、面会時間には必ずICUにお伺いしましたが、一向に回復の兆しは有りませんでした。それから、10日以上後だったと思いますが、やっと意識が回復して、数ヵ月後には退院、大阪へ帰って行かれました。
 職場復帰は難しいかと思っていましたが、6年後、私の転勤で大阪本社に帰った所、部門は化成品に移ってはいましたが、元気なA君と言葉を交わす事が出来ました。ホント、この様な大変な事も経験しました。

2014年1月10日金曜日

会社が休みの日、話し相手を求めて・・・

中春日町の交差点、中央は豊和銀行本店
大分市中春日町、賃貸マンションの一室での、単身生活がスタートしました。学生の頃には、下宿等の経験は有りましたが、結婚してからの一人住まいは初めての経験でした。会社を終えて、帰宅の途中、スーパーで夜の食事、総菜等を持ってレジに行くと、「今日もお疲れさまでした・・・」と、レジの方からお声掛けを頂いていました。一応、自炊生活でしたので、野菜、肉、魚等も買って帰宅したものです。会社の業務は、私の得意とする分野でしたので、特に苦労とか感じる事も無く、平穏に過ごしていたのです。平日は、会社でも色々と当然会話も有るので、別に何とも思ってはいなかったのですが、休日となると話し相手は、誰一人有りません。休日の一日、朝から一言も口を利かないでいると、何か非常に寂しい思いを抱いてしまいます。そこで、朝からその日、及び一週間の献立をある程度考えて、調理等、準備を終えた段階で、買い物に出掛けていました。中春日町から大分駅前までは、歩いても10分位でしたか、国道10号線を駅の方に向かいました。パークインホテルの裏辺りでしたか、若草公園、確かここには蒸気機関車の展示が有ったと記憶しているのですが、どうも、現在では無くなっているみたいです。
その若草公園の東側に百貨店では無いですが、スーパーよりも大きな店、長崎屋?。記憶は正確では有りませんが、そのお店に入って、色々と物色、何か、あっ、これ良いな・・・と思ったら、その品物に付いて店員の方に説明を求めるのです。あれやこれやと、丁寧に教えて頂きました。時には、その品物を買う事も有りましたが、説明して頂くだけで、帰る事も有りました。店員さんと、僅かですが会話をする事で、何となく心が休まる思いがしていたのです。休みの日、一日中、誰とも話さないでは、何か、頭がおかしくなる様な、そんな感覚も抱いたものでした。店員さんにとっては、ご面倒をお掛けしましたが、でも、時には実際に購入もしましたので、お許し頂ける事と思います。
 当時、アマチュア無線もやっていましたので、ベランダに144MHzのホイップアンテナを立ててみましたが、どうも、私の関西なまりが嫌われている様で、お友達は中々出来ませんでした。144MHzで、近畿地方との交信は、アンテナ等が不充分でしたので、交信は不能でしたし、長距離用のHF帯の無線機も手許には有りましたが、ベランダからは、その大型アンテナを立てる事は不可能でしたので、HF帯は通信不能でした。
 自炊では、休日にシチュー類を良く作りました。シチューは作るのも簡単だし、少し多めに作っておけば、温めるだけで食べられるので、重宝しました。最近では、シチューを作るのにも、シチュー用のルーが販売されているので便利になりましたね。この当時は、シチュー用、カレー用共、ルーを自分で作っていたのです。市販のルーなんて、未だ販売はされていませんでした。フライパンで小麦粉を油で炒めて・・・。作ったルーが、粉の塊にならない様に、丁寧に作ったものです。
会社帰りに、お造りでも買い足せば、それだけで充分。昼食は出前か、時にはすぐ西側に有ったファミレス(ジョイフル)に行く事も有りましたが、どちらかといえば、近くの中華専門のお店からの出前で済ませていました。炊事場には、買って来た根の付いた三つ葉、グラスに入れて、毎朝のみそ汁に2,3枚ずつ使用。朝食はみそ汁、漬物、時には焼き魚とか・・・。
 大阪の家を新築したばかりでしたが、家族も翌年の4月には、全員で大分に転居する事になりました。新しい家、転居後どうしようかと考えましたが、この次大阪に転居する時、元の家に戻るのも嫌だ・・・と、大阪の家は売却する事に決めたのです。短期間だけの駐在では有っても、ここ、大分で新築しよう…という事になったのです。どこにするか・・・、探し回りました。駅から遠ければ、価格は安いけど、地理不案内の場所では困るし…と。不動産屋さんを何件も回って・・・、決めました。
大分市泉町・・・。48坪。大分では狭いかもしれませんが、大阪の感覚では、広過ぎる位でした。

2014年1月9日木曜日

大分の想い出、ナント言っても『うどん博士』

柳通りの『うどん博士』本店です
大分の新しい住いには、日曜日の朝、別府経由で到着。新たな職場からは歩いて5分も掛からない位の距離、一つ目の信号の所でした。その当時、プールが運営されていたビルの4階、引っ越し荷物はタウンエース1台分ですので、入口近くに車を止めて、エレベーターを使って一人で運びました。若かりし頃には、下宿もアパートも経験していましたが、結婚してからの一人住まいは初めてでした。休めるだけの整理をした後、国道10号線の向かい側、当時はそこにスーパー、ラッキーだったと思いますが、食事の材料を求めに行きました。自宅では完全な自炊生活の始まりでした。しかし、当然、昼食は外食でしたが、ある日、社長に誘われて昼食に出掛けました。『うどん』でも良いですか?と尋ねられましたが、特に嫌いでも好きでも無かったので、初めてのうどん店に向かいました。着いたお店は『うどん博士』、この時は中島十条交差点から少し南に入った所のお店で、本店では有りませんでした。昼食としてうどんだけで済ませた事は、それ迄、一度も経験が無かったので、メニューを見ても、何をお願いしたら良いのか解らなかったのですが、それなら・・・と『特性うどん』を発注して頂きました。まあ、一度食べてみて下さい・・・との事でしたが、配膳された『特性うどん』を一目見てビックリ。普通のうどんを考えていたのですが、その丼の大きさに、まずビックリ。丼の直径がまるでラーメン用の丼位の大きさで、下が深く丸くなった丼、そこに、山芋の一杯入ったうどん。
思わず「ウワーッ! こんなに沢山、食べられへんわ・・・」と言ったのですが、まあ食べてみて下さい・・・。思い切って箸を付けましたが、そのうどんの美味しい事、美味しい事。平気で食べ尽くしました。社長はこのうどんが好きで、良く食べに通っているとか。なるほどなあ・・・と、そのうどんの美味しさには、ホント、私自身初めての出会いでしたので、驚きました。柳通りの本店のほか、もう一軒、大分市内には全部で3店の『うどん博士』が有ると伺いました。今迄、昼食はご飯をメインにして、うどんを軽く食べていたのですが、このうどんには、ご飯などは不要です。うどんだけでホント十分でした。量が多いだけでは無くて、その味わい深さに感銘を受けたのです。暫くしてからですが、私も『うどん博士』の虜になってしまいました。私が常に注文したのは『かま揚げ』でした。茹で上げのうどんを大きな平鉢に一杯の大盛り、それがあっという間に無くなる位にホント、美味しかったです。その『釜揚げうどん』は、大きな平鉢に盛り上げての配膳でしたので、普通の方でしたら、それだけで皆さん、満足なさるでしょうが、社長と私の二人が一緒に出掛けた際には、その『釜揚げ』のお代わりをしたのです。お代わりを注文したのは誰や・・・と、お店の方がわざわざ、私達の顔を確認に見えた事も有った位です。ちなみに、『釜揚げうどん』のお代わりは無料だったのです。大分を離れた今でも、『釜揚げうどん』の美味しさを思い出して、自宅でうどんを茹でて、釜揚げとして食べる事が良く有ります。しかし、その麺は、探し抜いた揚句、岡山の『かも川うどん』の太麺が私にはベストだと考えています。茹で上げた段階で、普通は水洗いしますが、水洗いをしないで、湯を切っただけで、つけ汁て食べるのです。今日、Googleの地図で『うどん博士』本店を探した所、今も従来の構えで存在していましたので、安心しました。しかし、今から20年以上前でしたので、大分市内も大きく変化をしているみたいでした。日豊本線が高架になっていたのでビックリです。大道の高架橋などは、その姿が全然有りませんでした。今、大分市を尋ねて行っても、多分、道に迷うでしょう。
もしこの次に大分市に行く機会が有れば、もう一度、是非『うどん博士』に行きたいと考えています。従来は別大マラソンのコース沿いだったのですが、マラソンコースが変更になったので、テレビで『うどん博士』の姿を見えなくなったので、残念な事です。それから、舞鶴橋の所の西鉄グランドホテル、無くなったのですね。会社の催し等で、何度も利用させて頂いていたのですが・・・。向かい側の商工会議所はそのままでした。この商工会議所も、業務の関係で、何度か出掛けましたが・・・。

2014年1月7日火曜日

関西汽船で、車一台の荷物と共に大分へ

関西汽船のさんふらわあ 当時はもう一代前の型でした
新たな勤務地での引き継ぎ、1週間を終えて、帰途は初めてのホーバークラフト。大分川下手のホーバー基地まで社長の車で送って頂いて大分空港へ向かいました。飛行機は今回で二回目の利用でした。でも、空港のゲートを通ってから、実際に機内に案内されるまでの、その時間の長いのには参りました。ゲートから中に入って・・・、でも何もする事は無く、ただベンチに座っているだけ。空港を離陸すると、窓の外はすぐに海の上でした。最短距離の瀬戸内海縦断かと思っていましたが、南に回って高知県の土佐湾辺りを経由して、紀伊半島から伊丹空港に向けて着陸態勢。高知県から和歌山の海岸線など、頭の中の日本地図を思い出しながらの飛行でした。今から思えば、1週間という短い間でしたが、出張等で2日以上。家を空けた事は初めての経験でしたので、久し振りの帰宅で、ホント、ヤレヤレ。
次の日からは、本社経理部での引き継ぎ開始。この当時は、全社の経理システム関係を担当していましたので、システム部等との引き継ぎもあり、中々大変でした。この当時の経理システムが起動する時には、そのシステムに登録する取引先コード等は私の担当でしたので、5桁の取引先コード、約10万件近くを、私一人で入力変更。全社システムが無事に立ち上がっていましたので、その点は助かりました。稼働前でしたら、ホント大変でしたが・・・。
 自宅内では、単身赴任に備えての準備が始まりました。賃借のマンションですので、当然ながら賄いは有りません。自炊用の包丁、まな板等を買い揃え、又、電子レンジ、トースター等も新たに購入しました。この当時は、タウンエースに乗っていましたので、引っ越し便は無し。1台の車に全てを積み込んでの赴任でした。赴任は、長距離運転では無く、関西汽船を利用しました。関西汽船の利用も初めてでしたが、地図の上で、大阪南港の付近を頭の中に叩き込んでの出発でした。港まで見送りに行こうか・・・と、家内の提案も有りましたが、自宅までの帰りが大変だから・・・と、見送りはキャンセル。初めての大阪南港は遠くに感じられました。南港大橋に辿り着いた時には、ヤレヤレと思った程です。フェリーに乗るのも、全くの初めて。車を載せて、指定されたペッドに付きましたが、同室の皆さんは、勿論未知の方々でした。出航時はデッキに出て港を眺めていると、定刻、ドラが
鳴らされて、岸壁に向けてテープが投げられました。今迄、出航は、宇高航路でも経験は有りますが、高いデッキから岸壁を眺めながらの出航は初めてでした。その時、思いました。見送りを断っていて良かった・・・と。もし、見送りに来ていたら、テープを投げて、多分泣いただろーな・・・と。出航の寂しさを、凄く感じたのです。知り合いは誰もいませんでしたが、離れる岸壁の写真は撮影しました。出航後、部屋には一時戻ったものの、初めての方々と話す事も無く、ベッドに転んでいましたが、神戸到着との事で再度甲板へ。大阪南港から乗って、神戸で下船する方も多いのですね。乗用車が何台も降りて行きました。再び出航しましたが、周囲は真っ暗の闇の中。ベッドに戻ってもする事も無いし、調度この頃開通した瀬戸大橋を眺めよう・・・と、甲板で待つ事にして、持参した144MHzのアマチュア無線のハンディ機で交信を試みてみたり。しかし、普段話している方々とは遠過ぎて交信は不可能でした。神戸から岡山の瀬戸大橋まで、すぐだろう・・・と考えていたのですが、真っ暗の中、凄く遠くに感じました。遠かったですよ、ホント。午前0時を過ぎて、やっと瀬戸大橋の下を通過、照明も無い真っ暗な瀬戸大橋をやっと通過して、ベッドに入りました。ひと眠りして、今度は是非、日の出を見よう・・・と、早めに起き出して甲板へ。豊後水道に掛かって、その先に九州の地が見え始めたのですが、長い時間が掛かりました。別府港に接岸する状態を確認したかったのですが、ドライバーは車に乗る様にとの船内放送で、止む無く車へ。初めての別府港、フェリーの桟橋から降りて、国道10号線に乗った時、引き継ぎの時に走った時とはまた違った、新天地に付いた・・・といった感激を味わったものでした。ホント、初めての単身赴任でしたから、その思いは大きな物が有りました。別府港内から国道10号線に出た時、別府市内から別大の海岸線に入った時。全く初めての地に入る様な深刻な感じを抱いたものでした。4年間との期限付きの赴任でしたが・・・。

2014年1月5日日曜日

管理部長引き継ぎ! 営業以外は全てが私の担当!!

和食の懐石料理、大分都町の 割烹ほり川でした
私の勤務していた会社は、自動車用タイヤの製造をメインとする企業で、世界中に拠点を設けていましたが、国内では各都道府県別にタイヤ販売の子会社が設立されていました。入社当初の4年間は、タイヤの知識を学ぶ為に、近畿地区のタイヤ販売会社に出向して、タイヤの営業を経験。実際に店頭でのタイヤ交換、ホイルバランスの調整、冬用のタイヤにスパイクを打ち込む等の作業、ガソリンスタンド、タクシー会社、大手運送会社等への営業活動等、タイヤ販売に関する全てを習得しました。その後、本社財務部で4年、兵庫県の工場で4年、京都の販売会社で総務課長を務めた後、本社経理部から大分販売への転勤です。この大分販売は、メーカーからの出向者は私一人だけ。他は全ての方が現地、大分の方々です。私の業務は、タイヤ営業以外の全てが私の担当でした。役職名は管理部長。会社の業務は営業をメインとする会社ですが、その中で営業以外を処理するのは、私と、若い女子事務員の方一人だけでしたので、それは大変でした。県庁、市役所、税務署、法務局、職安、会計事務所、警察等々、との折衝、全てが私の業務でした。銀行との折衝等については、本社財務部で、全部で36行の銀行と取引が有りましたので、その点はマスターしていましたが、それ以外は、全く初めてでしたので、本当に大変でした。でも、これも私の経験ですので、一週間の引き継ぎには、本当に真面目に取り組みました。
 今迄も、何ヵ所かの転勤は経験ありましたが、それは全てが関西地区内でした。初めての九州で、その慣習、生活内容の違いには、驚く物が有りました。赴任初日は、ご同行して頂いた九州支店の支店長と共に、現地の社長と3人で、料亭での食事でした。懐石料理で充分に満足したのですが、それだけでは終わりませんでした。近くのスナックを数軒、お伴をさせられました。初めてのホテルに入ったのは、深夜を回っていました。ま、初日だから仕方ないか・・・と、考えていたのですが一日だけでは有りませんでした。次の日、支店長は1泊だけで、次の日は姿が有りませんでしたが毎晩、毎晩、私の夕食はいつも現地の社長とご一緒。スナックもご一緒。私からの支払いは一切無し。驚きました。毎晩外食で、毎晩スナック、バー、ラウンジ等で過ごさせて頂いたのです。大分では、繁華街は都町。大分市内のほぼ中心部で、駅からも近い場所で、全てが揃っていました。毎晩、食事、飲食の後、社長の通勤車は代行運転で帰宅。私はホテルまでタクシーで帰着。驚きました。それ迄、関西では外食といえば、忘年会か新年会等、特別な日に限られていたのですが、本当に毎晩。参りました。それと、スナック等では、カラオケが付き物です。私は、それ迄カラオケ等は全く経験していませんでした。でも、覚えざるを得ない状況。一つしか知らなかった歌、香山雄三さんのお嫁においでよ。強引に歌わされました。いつの間にか、カラオケがセットされ、ホント、初めて歌わされました。又、スナック等でも、キープするのは洋酒では無くて、一升瓶の焼酎。雰囲気が関西とは全く異なりましたが、少なくとも、約束の転勤期間、4年間を無事まっとうする為に、努力しなければ・・・と、覚悟を決めたのでした。(これは昭和62年の想い出のお話です。ブログ上、前回から継続のつもりで、時期を書いていませんでした。現在のお話では有りません)

2013年12月28日土曜日

突然の転勤  岡山。 エッ!! 大分に変更??

昭和62年1月に新居に転宅。それまでの住いのすぐ近く。最寄り駅までの距離も、従来とほとんど同じ距離でしたので、従来と同様に、駅まで歩いて電車で大阪市内への通勤でした。
今迄と同様に土曜日曜はアルバイトのブライダルビデオの撮影。撮影を終えて自宅の庭に車を入れると、車の後ろから機材をそっくり室内に移動、、2リットルの樽入生ビールをサーバーから注ぎながら、当日撮影したテープを確認。この点検で、撮影のミス等を発見する事は一度も有りませんでした。もし万一、撮影の不具合等が有れば、撮影の段階で気付きますので・・・。ブライダルビデオのアルバイト収入は、本業の会社勤めよりも、多額の報酬を頂いていましたので、毎月何度かは、家族揃って近くのお寿司屋さん、『すしよし』さんで過ごしたものです。夜遅くまで、お店の常連さんともお友達になって、すしよしさんから、カラオケボックスへ直行した事も有りました。
 7月の初め頃でした。会社で経理部長から応接室に招かれ、聞いた話が転勤。各都道府県単位に、子会社としてタイヤの販売会社が設置されていましたが、その中の、岡山販売へ出向して欲しい・・・との事。岡山でしたら、私の出身地ですし、当時は両親も健在でしたので、親元から通勤できる…と、即刻承知したのです。その当時、岡山販売には、経理部で私と同僚の方が赴任していましたが、その方から聞いた話では、岡山販売の朝礼で、8月からこの方がみえます・・・と、私の事を紹介したとか。それから1週間後でしたか、再び経理部長に呼ばれて応接室へ。驚きました。転勤先を岡山では無く、大分販売へ・・・との依頼。チョット待って下さい・・・と、即答は出来ませんでした。しかし、家族と相談して、翌日、了承の返答をしたのです。今迄、通勤圏内の転勤は5回経験していましたが、転居を伴う転勤は初めてでした。自宅を新築、転宅を終えた所での転勤には、驚きました。
取りあえずは引き継ぎで、博多の九州支店経由で大分に1週間の予定で向かう事になりました。グループ会社の旅行取扱社に相談したところ、福岡へ行くのだったら是非飛行機で・・・と、それまで、国内では東は栃木県日光まで、西は広島までしか行った事が無かったのです。ホント、初めての飛行機でした。福岡空港までは九州支店の同僚が迎えに来てくれて、迷わず九州支店に到着。九州支店からは支店長の社用車で大分へ向かいました。本当に初めての九州。高速で、日田まで。それから大分までは一般道。未だ高速は有りませんでした。長い道のりでしたが、湯布院から別府に向かうやまなみ道路、その美しさには驚きました。高原を登って行くその道路から見る眺めの素晴らしいのには驚きの声を挙げたものでした。
 大分販売での引き継ぎは1週間、宿は『大分パークインホテル』。会社はホテルから歩いても5分位でした。大分に行って、一番驚いたのは、大分の言葉です。何か言えば、帰ってくる言葉は『よだきい・・・』。この言葉が理解出来る迄には、かなりの期間が必要でした。転勤は8月からでしたが、その後の住いを探した結果、会社の近く、大分プールの上、4階の1室を契約しました。国道10号線沿いのビル、向かいには『ラッキー』でしたか、スーパーも有りましたので、何かと便利かと考えたのです。事実、このスーパー、夜の12時まで営業していましたので、助かりました。遅くに会社を出ても、買い物が出来たので、ホント、お世話になりました。レジの方々も、顔を覚えて下さって、毎晩『お疲れ様・・・』と、声を掛けて下さったものでした。
 大阪で、新築したばかりの自宅、どうしようかと悩みましたが、他人が住んだ家に再度帰って来るのも嫌だ・・・と、手放す事に決めました。翌年の3月には、家族も大分に移れる様に、大分で新築を考えたのです。大分市内でなかなか適当な場所が見付からなかったのですが、何軒目かの不動産屋さんで、泉町を紹介され、そこに決定しました。1級建築士の方に依頼した自宅の設計図、これでは親子4人の生活が出来ない、と、その図面は拒否。私が自分で図面を引いたのです。それを1級建築士の方に見せると、これは良いわ・・・、だって。やはり、都会の考えと、大分の考え方は違っていました。46坪の土地でしたが、設計して頂いたのは、部屋数が少ない、広々とした農家風の造りでした。私は、1階は16畳のLDKと、6畳の和室、2階は6畳の3室と、私のアマチュア無線用の小部屋、4畳。表は広い駐車場と庭を設けて・・・。私の図面は部屋割だけでしたので、設計図はその方にお願いしましたけど・・・。
この新居の上棟は翌年の1月10日と決定。新築が終えるまで、毎週、その光景を撮影して、自宅、大阪の家族にはビデオレターを何度も何度も送ったものでした。

2013年12月24日火曜日

住宅の新築 上棟 !!  でも・・・

1986/11/10 上棟の日
枚方市の府営住宅から、現在の中古住宅に転居して約9年、今から27年前の事でした。これまでの自宅から直線距離で約300メートル。前日までの雨も上がって、晴天の朝を迎え、愈々、上棟の日を迎えました。朝からビデオカメラとポータブルデッキ、この時はカメラはSonyのDXC-M3A、デッキはビクター BR-5500でした。新しく販売された住宅地でしたが、周囲には既に建築されたお宅も有りましたが隣は現在建築進行中でした。玄関前から撮影を始めましたが、4メートルの道路の為、車の通行もあり、三脚を立て続ける事は出来ません。添付の写真は表側ですが、この位置からは最初だけ、その後は反対側、裏側は未だ更地でしたので、上棟までの全てをビデオで記録しました。この年には、長男は高校2年、長女は中学校1年でしたので、子供たちの部屋も設けた設計にし、又、私のブライダルビデオに便利な様に、ガレージの後にアルミサッシの出入り口を設け、車から機材を簡単に出し入れが出来る様にもしました。ブライダルビデオの三段式のキャリアーを、車から簡単に室内の板張りの場所に移動、デッキからモニターまで、接続が簡単に出来る様に、壁の中にVA用のケーブル、5C2Vを特に設置もしました。今迄の中古住宅は、風呂桶が小さく、足が充分に伸ばせなかったので、今度は特に指定して、浴槽は長い物にして頂きました。ダイニングとリビングは板張りですが、2階のそれぞれの部屋は、全て畳敷きとして、落ち着ける雰囲気にしました。私の趣味は、この当時可成り夢中になってアマチュア無線をやっていましたので、そのアンテナケーブルも室内への引き込み用に、別途太い塩ビのパイプの設置も忘れずにやって頂きました。
 11月10日の上棟から、完成まで約50日、年末ギリギリに、やっと入居可能になり、新年は、新居で迎える事が出来ました。しかし、それまでの自宅から近かったので、特に引越し屋さんの手は借りず、私の車、この当時はタウンエースワゴンでしたが、そのシートを畳んで、引っ越しは少しずつ、自分たちですべてやりました。でも、この当時は、ハモンドの電子オルガンもあり、それは旧家の二階に置いていましたので、その運搬だけ、二階から下ろす時は、大工さん、電気屋さん方、皆さんのお力添えを頂きました。一度に全てを運搬していなかっただけに、困った事も有りました。大晦日の夜遅く、テレビでは紅白歌合戦の真っ最中でしたが、フト、あっ、あれは未だ向こうに置いてたのかな?・・・と、夜の道を旧宅まで取りに行った事も有りました。
 正月が明けて、急いで取りかかったのが、アマチュア無線のアンテナ、屋根上への設置でした。この当時は、HFと50MHz、144MHz、430MHzをやっていましたので、かなりの本数でしたが、電気屋さんにもお手伝いを頂いて、屋根上にアンテナマストを設置、ローテーターの取付も無事完了しました。
 JR、阪急の駅から歩いて12~3分、中学校の学区も同じでしたので、長女の転校も無し。毎日の通勤は駅まで歩いて、大阪まで電車通勤。新しい自宅で、快適な生活を喜んでの毎日でした。しかし、この新しい家での生活、私自身は、約半年だけでした。会社の指示で、初めての通勤圏外への転勤、ナント、遠い所、今迄一度も行った事も無い九州、大分市でした。7月後半には、引き継ぎの為に、出発・・・。当面は、私だけの転身赴任でした。この続きは、次回に送ります・・・・。

2013年12月21日土曜日

韓国式の結婚式、初めての経験でした

( 当日の写真ではありません )
ブライダルビデオの撮影もすっかりマスターして、毎週土日は、京都グランドホテル(現リーガロイヤルホテル京都)に通っていた頃でした。今週は、別の会場の結婚式を・・・との依頼を受けたのです。会場は、京都グランドホテルのすぐ東、全く初めての中華料理店『東天紅』でした。初めての会場に出掛ける時は、前以て、その下見をしていましたが、この時はその時間が取れなかった為、ぶっつけ本番になってしまいました。ビルの中、確か三階だったと思いますが、結婚式場は神前式。素晴らしい作りの会場でした。雅楽の演奏も、多くの会場ではテープか何かで流す所が多いのですが、ここは完全な生演奏でした。笙、ひちりき、りゅうてき等、3人の方々の演奏でした。初めて聞く生演奏で、新郎新婦の衣装は、韓国式の正装でした。何もかもが初めてでしたが、式の進行その物は、日本式と何等変りなく撮影は順調に完了しました。
 次の披露宴、会場に入って、テーブル、椅子の配列がいつもとは全然違う事に、まずビックリ。司会の方は、韓国系の方でしたが、私達との打ち合わせは、日本語でして下さいました。日本式の披露宴会場と違って、ご両親、ご家族の席が一番前の席。それからお友達…等となり、一番後ろは、何方が入って来るか分からない・・・、兎に角、沢山の方がお越しになるとの事。各方面のお知り合いの方々がみえるそうでした。
披露宴が始まりました。皆さん、着席なさって、新郎新婦の入場。しかし、正面の席に付かれる前に、お席の前に整列して、そこでご出席の方々に、新郎新婦の紹介と、ご両親を紹介するのです。司会者の方は、すべて韓国語での進行です。私は、何を仰ってるのかは、全く理解出来ません。でも、開始前に司会者の方と打ち合わせをしていましたので、どうにかカバーは出来ました。横一列に並ばれた方々を、パンニングしている間、司会者の方は、暫く時間を取って下さいました。全員の撮影を終えた時、私は司会者に向かって、左手を上げて合図、それから、新郎新婦は正面の席にお付きになりました。披露宴の順序は、ホント、韓国式で進行されましたが、打ち合わせ通りにスムーズに撮影は進んでいました。会場の中央付近が、比較的広いスペースが有り、そこに太い柱も有りましたので、柱に沿った部分に三脚を構えて撮影していたのですが、挨拶等が終わった時に、数人の方々が、横長のタイコ等、いろいろの楽器を持ち出して、いきなり演奏が始まったのです。その人数は次から次と増えて、グルグルと円を描きながらの踊りと演奏だったのですが、私はいつの間にか、その踊りの円の中心に位置する様になっていたのです。私は韓国式の宴会等は、全くの初めてでしたので、カメラマンが真ん中に居る事に、非常に違和感を覚えました。しかし、カメラマンですから、その位置から、皆さんのお姿、お顔を撮影した段階で、テープをストップ、踊りの円の外に移動させて頂きました。司会の方は、私宛てに時たま日本語でも仰って頂きましたので、どうにか無事、撮影は完了しました。披露宴の前に、詳細な式次第等を司会者の方と打ち合わせをしていましたので、ホント、助かりました。日本式で無い結婚式、披露宴は、この時、一度だけでしたが、良い経験をさせて頂きました。

2013年12月14日土曜日

ビックリしました、友人代表挨拶の途中、突然・・・

 リーガロイヤルホテル京都 ( 元 京都グランドホテル)
 京都駅のすぐ西に有る大きなホテル、現在の名称はリーガロイヤルホテル京都、当時の名前は京都グランドホテルでした。2階全体が数多くの部屋に仕切られており、何組もの披露宴が同時に進行する事も可能でした。ここのホテルでは、結婚式場は数代の固定カメラがセットされていて、それを専属の方がコントロールして撮影するシステムでしたので、私達、アルバイトのブライダルカメラマンは、披露宴の撮影だけが担当業務でした。いつも通りに、披露宴会場にご出席の方々を新郎新婦とそれぞれのご両親、仲人の方が招き入れて、いよいよ披露宴がスタートしました。会場内のライトが消され、ドアが開けられると、そこにはスポットライトに照らされた新郎新婦。皆さんの拍手、祝福のお声掛けに迎えられて、新郎新婦のお席まで・・・。仲人の方から新郎新婦のご紹介、主賓の方々、お二人からのお祝いのお言葉を頂き、続いてケーキカット。撮影は順調に進行していました。次に友人代表からお祝いのお言葉。カメラは宴会場の中程の位置から、三脚にカメラを乗せて、祝辞の方々を撮影していたのです。友人代表の方も、調度ズームアップをして、胸から上、お顔を中心に撮影を続けていました。しかし、そのご挨拶の途中で、前後に身体が揺れ始めたのです。私は当然ながら、カメラのディスプレイを覗いて、お顔がセンターから外れない様に、カメラを左右に少しずつ回転させて撮影をしていました。しかし、移動が急に激しくなって、モニターで追い切れなくなったので、やむを得ずズームバック、その方の顔を逃さない様に撮影していたのですが、顔が床にまでいってしまったのです。カメラのディスプレイから目を離して、直接、その状態を目に確認した時、慌てて、カメラのボタンを押して、撮影を中断しました。ナント、祝辞を仰っていた方が、床に倒れていらっしゃったのです。少し前から、お顔は、何度か前後に動いていましたが、演技では無くて、緊張の為でしょうか、軽い貧血を起こされたみたいでした。、どこかの記者会見等の撮影中に、その方が倒れた場合等でしたら、ずっと撮影を続けるのかもしれませんが、披露宴での祝辞の途中ですので、これは撮影するべきでは無い・・・と、撮影は中断しました。しかし、その時もカメラはズームバックした状態で、その全体が写る向きのままでした。20代半ばの方でしたが、緊張の為でしょう。皆さんがすぐに寄って手を差し伸べて、お席に戻って、その後は大丈夫のご様子でした。
 当日の撮影を終えて、次の日に、ビデオの会社に納品に行きました。しかし、今回の撮影は、途中で発言者が転倒、カメラをストップさせていましたので、その件を報告。テープを再生して、その転倒シーンを見て頂き、ここの部分は、編集の手直しが必要です・・・と。会社の方もその場面をご覧になってビックリなさっていましたが、私の業務としては、それで完了です。本番のテープと、抑えのテープ、その2本を提出する事で、後の編集は会社側にお任せです。何も問題が無い場合には、カット撮影したテープだけを提出して、その場でテープの再生点検等はしないのですが、手直しが必要な場合には、その個所を説明しておく事が義務付けられています。
普段から撮影会場には2台のテープデッキをセットしていて、1台はカメラのスタート、ストップに連動して撮影する物、それと、もう1台は修正時等に使用出来るように、スタート、ストップに連動しないで、連続撮影をするテープの両方の撮影テープを残しているのです。もし万一、言葉が途切れた場合等には、抑えのノンストップのテープからであれば、修復が可能です。もし、カメラマンの操作の失敗等からの手直しの場合には、ペナルティが課せられ、撮影料から控除されますが、止むを得ない場合には、ペナルティの対象では有りません。
 しかし、中には酷いカメラマンも居ました。未だキャリアは浅い方でしたが、その方のお話しを伺っていて、私も驚いた事が有ります。披露宴の撮影をしていたところ、テープが終わって、ビデオがストップしたそうです。ま、普通でしたら、そこで予備のテープを出して、その後を撮影して、会社に依頼して、1本のテープに編集加工依頼をすれば済む事です。ところが、そのカメラマンは予備のテープを持参していなかったそうです。テープが終わってしまって、後の撮影が出来なかったら、そこで撮影を終えておけば、未だ良い訳が出来ます。ところが、そのカメラマンは、事もあろうに、とんでもない事を実行したそうです。ナント、撮影済みのテープを巻き戻して、そのテープを初めから使用して、最後まで、撮影を継続したそうです。ホント、これでもプロのカメラマン??と、ビックリしました。同じテープに、書き直しをすれば、元の記録は消去されてしまいます。ホント、ビックリしましたが、この様な方もいらっしゃったのです。披露宴の記録を依頼された会社として、どの様な言い訳をなさって、或いは、どの様な賠償に応じたのかは知りませんが、会社も、ホントお手上げだったと思います。
 私は、大きな失敗も無く撮影は継続していましたが、本業の会社から、大分にある子会社への出向を命じられましたので、止むなく、アルバイトは中止しました。大分でも、その様なアルバイトが有れば・・・と、何軒かのホテル等を尋ねましたが、地方の為か、マダマダ本格的な撮影依頼は無いとかでしたので、諦めました。当時のカメラ、大型デッキ、編集コントローラ、ハロゲンランプ、カメラケーブル等は、大切に保管しています。